「灰雪の庭」4
廊下を目指そうとしたところで、生き残りがいたのを思い出す。数刻前に蹴り払った男性が、座り込んだまま俺を見上げていた。間の抜けた唇はずっと開かれていたのか、乾ききって震えていた。
「だ、誰だか知らないが、助かったよ……」
「助けた訳じゃない。この施設にはまだ魔女がいるだろ? どこに何体いる。研究員の生き残りは、あと何人だ?」
彼の傍らに片膝を突き、血色の白刃を突き付ける。細い両目を視一視してやると、泳いでいた黒目は中央に落ち着いた。尤も、その精神は沈着していないのだろう。蒼然としている面貌は、季節外れの雪解け水でも被ったみたいだ。
「ま、魔女は、広間に四体ほど……広間は、玄関から正面に進んだところの、」
「四体? たったそれだけか?」
「本当だ! 定期的に出荷をしているから、ここに残っているのはそれだけで……研究員は、俺以外もうみんな……いや、あと所長が……」
推察でしかないが、魔女を生む際、研究員総出で魔法陣を発動させているのかもしれない。この施設で最も権力を持っていると思われる『所長』。あとは、ソイツと残りの魔女を狩ればいいだけらしい。
刃先を傾けてから、僅かな思議ののちに問いかけた。
「実験体にされた人達の名前は、覚えているか」
「い、いや、覚えてない。名前なんて、誰も気にしちゃいない」
「なら、『黒い髪に赤い瞳の少女』を、実験体にしたことは?」
「赤い瞳なんて──……今、初めて見た……」
会話をしているうちに恐れが鎮まったのか、呆然とした瞳孔がこちらの目を覗き込んでくる。『綺麗だ』。ほぼ息だけで零されたのは場違いな賛辞。それは俺にとって不快でしかなく、彼の首に蘇芳の直線を刻んだ。
瞑する瞼を見届けず、部屋を後にする。
「……広間、だったな」
独言を靴音で遮り、それからはただ床を鳴らした。
微かな耳鳴りが聞こえる。それは戦闘によって消耗した魔力のせいだ。魔力は不足すると耳鳴りが起こる。尚も魔法を使い続ければやがて喀血し、最悪死に至る。とはいえ、この程度の耳鳴りならばいつものことだった。
エントランスまで戻り、左折して中央の通路へ爪先を向ける。横に長い両開き戸を諦視し、近付いていく。そうすると、かしがましい泣き声が漸次に強まっていった。
木目に施されている月桂樹の彫刻、そこに溜まっている埃が見えるところで足を止めた。黄金の光沢を見せる木材が高級感を漂わせている。その分厚い戸は、内側から何度も打ち叩かれていた。
先程の男の情報からも、複数の魔女がいるのは判然としている。けれど音耳から察するに、魔女は拘束すらされていない。
人為的に解放されたのか、暴れた魔女が檻を壊したのか──考えられるのは前者。侵入者たる俺に気付いて、魔女を用い排除しようとしている可能性。
早めに、魔女を仕留め、施設内を回った方がいい。
千慮に浸ったのはたった数秒。思考がまとまってからの足取りは軽い。寸鉄を握りしめて扉を蹴破った。
開扉とともに叫喚が溢流する。弾かれるように飛び退いた二つの形影。広いホールの中央には豪奢なシャンデリアがあり、老朽した絨毯が敷かれていた。家具は一つもなく、がらんとしている。
部屋の奥には並立している鉄格子。その扉は開け放たれ、中には誰もいない。代わりに傀儡じみた魔女達が絨毯を踏みしだいていた。
女の魔女が二体、少女の魔女が一体、男の魔女が一体。奴らの位置を流覧した乃時、少女が我先にと跳梁した。
彼女の機鋒がこちらを射抜くまで、一秒もかからない。けれどもその太刀影は細い。肩を逸らすだけで避けきれる。
通り過ぎた彼女を見遣っている暇はなかった。目の前には男の魔女。彼とすれ違いざまに太い腕を断截。溶いた顔料のような赤が吹き出す。膏血をまとって振り抜いた腕に、女の繊手が絡みつく。
間髪入れず切り落とそうとした。にもかかわらず、勢いが、止まる。
見交わした彼女の顔。それは、依頼人に見せられた写真の、あの女性だった。色のない紙上で笑っていた彼女は、死人の目をして泣いていた。
依頼人のやるせない面差しが浮かび、余計な擬議をしている間に己の尺骨が歪んでいく。
振り払うには時間が足りない。秒針を意識するも既に間ぬるい。息無しに引き寄せられた体は軽々と投げ出されていた。
鐘声じみた鈍い金属音が脊髄に突き刺さり、脳髄をも通徹する。
「っ……!」
後頭部と背中を鉄格子に打ち付け、光華が散って見えたのは瞬目。崩れ落ちた全身を魔力で吊り上げ床を踏みしめる。
振り向くとともに伸ばした手が、俺を急追していた彼女に届く。
秒を置き去りにした眼界で、彼女を眺め入った。こちらに突き出されている片腕。赤い紐が揺曳する。彼女の手首にぶら下がっている手枷が、燭光を浴びて煌めいていた。
繰り出された突きを受け流し片腕を抱き込む。彼女の足首を払い、痩躯が脱力した須臾。寸陰のうちに手枷の片輪を鉄格子に繋ぎ止めた。
その場に留まることなく高く躍出。見下ろした先では、別の魔女の突先が透徹を裂いていた。今飛び出していなければ抉られていただろう。
シャンデリアの眩しさに目を細め、部屋の中央へ降り立つ。接近した乱れ髪の女が諸腕を振るい、互いの息遣いを切り散らしていく。搏撃の方向、間隔、速度、全てを正確に捉え躱していく。
女の爪はこちらの薄皮一つ掠めない。反撃に移るのは何手先にすべきか。好機を待ち懸いていれば踵が壁にぶつかった。
それでも動作を止めない。尋思も止めない。斜へ踏み出した片足。目の端には、一心不乱に前進する女の側顔。前方へ力を打ち出している彼女の方向転換は遅い。
追撃に転ずるべく巡る。片腕で、虚空に半月を描いた。
女の後頭部を鷲掴み、彼女の顔面を壁に打ち籠む。くぐもった悲鳴、それに打ちすがったのは頭骨の潰れる音。手甲の血管が震えるほど魔力を込めた。
熟れた果実が潰れる。女の首から上は瑞々しく拉げていく。淋漓する血液。手袋に絡みつく血肉と脳と骨とを軽く払い、残りの敵をかえりみた。折柄──、
「くっ……!」
脇腹に酸痛が沈んで牙噛んだ。男の魔女がこちらの肉を穿げのいて羶血を撒いていた。
振るわれている彼の腕は振り子のように立ち返る。もうひと薙ぎが痛みを生むよりも早く、両足に魔力を込めて背進した。
零れそうな腸綿を留めるように傷口を押さえ、魔法で穴を塞いでいく。耳鳴りがする。それが魔力不足の警告だとわかった上で幻聴と見なすことにした。
着地とともに耳を聾した破砕音。仰いだ頭上でシャンデリアがさざめいた。
硝子と金属の塊が殷々と落下する。なおも脳は時の音だけを傾聴する。一。
間に合わない筈の時間に捻じ込んだ退避。壁まで遠ざかった際、理どおりに時が進んで照明という急霰が降り注ぐ。
零砕は煥然と煌びやかに。魔女は散渙した砕屑さえ意に介さず──こちらを青黒く呑み込んでいた。
魁偉な男が上空から襲い来る。彼と反目して足音を鳴らした。たった一足。最小限で構わない。
重い人音が落ちる。絨毯を踏みしめた彼が前傾姿勢になる。その軸足に、片足を引っ掛けて絡め取った。
そのまま押しのけてやれば簡単にバランスを崩して倒れる体躯。馬乗りになったまま彼の首を切断。死に顔はひどく青ばんでいた。血の気が失せたからではない。その蒼茫は──閃影。
色褪せた絨毯を転がる。跪いて起き返れば、少女の魔女が彼の亡骸を踏み抜いていた。
涙で濡れた童顔は幽鬼のごとく首を擡げる。まばたきをした造次、少女の拳が睫毛に触れている。
早い。速度を上げてその痛撃を躱していく。引き避き、引き退き、もう一度速度を上げようとして──喀血した。その合間に、ナイフを握っていた左前腕部が宙に舞う。己の血脈が赤黒く目路を綾取る。
魔力が足りない。片腕を断たれた。武器を抜くのは間に合わない。──それがどうした。
切断面から熱く走る血液。そこに凝集していく魔力。その流伝が、ありありと分かる。
けざやかな深緋を真っ直ぐに構えた。踏み込む。剥き出しの肌骨を、流露する魔力を、彼女の喉に突き立てる。
肘から先を失った腕は、深々と彼女の脊椎までを撃刺。力の方向を水平に屈折させれば悴首は血の雨を降らせる。
童顔は徐にかたむいて、ついには命の澱みに沈んで、真っ赤な波紋を生んでいた。
「ぁああああ……!」
哀叫はあと一つ。手錠を鳴らして暴れている彼女と、向き合う。
依頼人が助けたかった女性。けれども泣き喚く魔女に理性はない。人間に戻してやりたくとも、そんな術はない。
せめて彼女が安らかに眠れるよう、眼裏で祈った。畢生を切り裂く。その感触の苦々しさに、固く目を瞑った。
寂び返った部屋で、瞼を持ち上げる。事切れた彼女の額に触れる。目元をそっと撫で下ろし、交睫させてやる。彼女の片耳で煌めくイヤリングを、軽い力で外した。
透き通ったローズクォーツが光を湛えている。気休めにしかならないだろうが、遺品はあった方がいい。彼に届ける為、それを懐に仕舞い込んだ。
床に転がる自分の腕から、ナイフだけを拾い上げる。腕はマスターに繋げてもらえばいいが、その為には持ち帰らなければならない。後で回収しに来なければな、と思いつつ、一先ず放置して次を目指した。
魔女の死んだ屋敷内は、酸素が薄く感ぜられるほど闃としていた。一足の歩みさえ高く鳴る。不意に、天井から慌ただしい音が聞こえた。
二階に生き残りがいる。悟ってから駆け出していた。取り逃がすわけにはいかない。