「灰雪の庭」3
(三)
安宿に一泊して夜を越した。魔女研究施設へは夜間に赴いても構わなかったのだが、ジャスパーに止められたのだ。彼が説いた道順は曖昧だった為、確かに朝の方が探しやすい。
彼曰く、『森の中で振り向いても街の屋根さえ見えない距離』『陽光の方へ向かったため方角は恐らく東』。
少なすぎる情報に頭を抱えつつ、ひとまず当時の彼と同じ時刻に森へ入った。そうしてひたすらに東へ進んでいく。
道という道のない木々の隙間を潜り、朝露で湿った土を踏み鳴らす。耳殻に触れるのは言語の分からぬ小鳥の会話、それから樹葉のささめき。揺らめく翠影で陽射しも点滅していた。
手袋を嵌めた手で木の幹に触れながら、やや下り坂になっている地面に足跡を刻んだ。ふと振り返ってみれば、街は片影すら見えなくなっていた。黒い幹だけが並び立つ、その文色は鉄格子の内にいるようだった。
日輪の方へ向き直る。木香と泥の臭いに目を細め、草を蹴る。
森に入ってからどれほどの時間が経った頃か。革靴は道を踏みしめていた。左右を見はるかす。木々の間隔を拓いたその道は、馬車が通れるほどの広さを有している。車輪の痕がないか、地肌を観察していたら不気味な音が聞こえた。
葉擦れでもなく、鳥の琅琅でもない。冷え切った朝影に溶けたのは、人の悲鳴だ。それはけだしく魔女の慟哭。解するなり余響を追いかけた。
地平線の向こうに、少しずつ建物が見え始める。黒い柵に囲われた赤煉瓦の屋敷。魔女の声はいつの間にか止んでいた。靴と砂の擦過音が、なにに遮られることもなく男の耳に届いていた。
その男──見張り番が、閉じられた門の中央で威儀を正している。彼は俺を虎視したまま、軍服じみた黒い制服に片手を差し入れる。拳銃、或いはナイフを備えているのだろう。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。それとも、なにか用でも?」
彼我の距離はまだ遠く、声を張った彼。その残響が空気中に広がって碧落を目指す。消える音容を聞き届ける前に秒針を傾聴した。
針がふれる。心臓から奔った魔力が全身を熱する。踏み付けたのは彼の影。秒針は未だひとたびも鳴っていない。彼は悠長な手つきで懐の武器を抜こうとしている。その双眼がゆっくりと見開かれ──。
経過した一秒ののち彼は硬直していた。執刀しようとしたのは彼が先。けれども実際に刃を突き付けたのはこちらが先。彼の片手は未だ外套に収まったまま。
恟恟と震えた黒目は、喉元の氷刃を見下ろしていた。
「中に用がある。門の鍵を開けろ」
「そ、それは出来ない」
「なら死ぬか?」
青びれた男を睨み上げて刃金を傾ける。首の薄皮が裂けたらしい、僅かな血が滲出していく。ナイフを握りしめ、平静を保った裏側で、心音が騒いでいた。
人を傷つける感覚に、未だ迷情がまといつく。これまで、魔女の研究員をマスターと共に何人も殺してきた。子供の魔女も殺してきた。彼がこの場にいないからといって、迷っては、いけない。そうでなければ戦うと決めて立ち上がった意味がない。
『殺し方は、教えただろう?』
何度も聞かされたマスターの苦笑。幻聴に眉根を寄せた。分かってる。
喚想する。不要な情動の殺し方を。命の刈り取り方を。血と灰を。怨憎を、ただひたすらに追蹤していく。
魔女を生む者も、魔女を肯定している者も、身勝手に人の命を弄ぶ悪でしかない。今もなお誰かが魔女にされ、魔女に殺されている。惨劇は想像であり回想だ。皆紅に染まったあの日は色褪せてくれない。深緋は今も深怨に結びつく。
己の心拍は沈静していた。真明な確信が胸臆を満たしていた。
殺せる。
無畏に至った視界は溶明していく。晴れのいた虹彩を転がして、男に突き刺したのは冷眼。燻らせた殺意は彼にも伝わったのだろう。彼の乾いた口唇が、細く頼りない息骨を立てていた。
「わかった、分かったから、鍵を開ける。少し待ってくれ」
「先に武器を捨てろ」
「ぶ、武器? 持ってないよ、ほら、何も持ってない」
彼は両掌を肩まで持ち上げて降参を示した。どちらの手にも銃刀は握られていない。右手の指先にはキーリング。たるんだ袖口から肌が覗く。
彼の左手首で腕時計の革ベルトが艶めいた。それを瞥見するなり、剣先を返し彼の右手首を切り落とした。
寂としたのは一瞬。血紅色が噴き出して、薄白い朝暉を鮮やかに塗抹する。地に落ちたキーリングの金声は甲高く鼓膜を打つ。けれども比にならないほどの号叫が緘黙を破った。
「──ぁああああ!! なっ……何しやがる! 開けるって言っただろ!?」
腕の断面を押さえ、後ずさる彼。恰幅の良い背中は柵にぶつかって、鉄の振動を鈍く鳴らす。
俺はキーリングを拾い上げ、門に一歩近付いた。錠前は彼の後背。憎々しげに俺を見る彼は野犬のよう。血走った睚眦に嘆息してナイフを握り直す。
「どけ。鍵さえあれば十分だ。お前の手はもう必要ない」
「っふざけるなよクソガキ……! どうなっても知らな──」
「ああ。御忠告どうも」
恨み言は赤い泡沫に呑まれていく。断ち切った首と躯幹がくずれおち、彼は泥濘とともに黙りこくった。
女の哀叫が晨風をなぞって霧消する。屋敷の魔女が再び喚き始めていた。
魔女の研究員は大抵、理性のない魔女を鎮静させる為、薬を所持している。薬が切れたのか、眠っていた魔女が目覚めたのか。号哭には男の声も重なって、複数の魔女の存在を明示していた。
キーリングの鍵を一つずつ錠前に挿し込んでいく。三つ目の鍵がちょうど嵌まり、噛み合っていた金属はおとなってほどけた。鎖を外して閂を横に滑らせる。黒鉄の門は錆を香らせて開いていった。
踏み入った庭は整備されている。色彩豊かな花咲みに出迎えられ、眉をひそめた。この先で行われているのは非人道的な人体実験。花々は何も知らずに安閑を演出する。花信風が芳甘を漂わせ、その甘ったるさは麻薬を思わせた。
名称も分からぬ花の絨毯を横目に屋敷へ。砂塵と花弁が眼路を横切る。人気のない庭から石造りのポーチに靴を乗せ、鉄のドアノブに指を絡めた。
両開き戸の上部は色硝子になっており、半透明の薔薇を注視しても室内の様子は窺えない。魔女の呻吟は敷地外にいた時よりも近く、けれども遠い。赤褐色の木目を睨めかけて、手首を捻った。
鍵のかかっていなかった扉はすんなりと動いた。この先に何人の敵がいて、何体の魔女がいるのか──冷汗を伝わせる雑念を無意識の奥へと落とし込み、色を正す。意識は魔力と殺意だけに纏繞させる。
陽光に背を向けて、灯光の降る真下へ進んだ。シャンデリアが旺然と、寄木張りのフローリングを白らかに照らす。左右に伸びる廊下は長く、窓明かりが三つずつ落ちている。人影はない。唸り声は方々から聞こえてくる。
間取りを顧望していた目の端。廊下の最奥にある一室が透影を覗かせた。扉から漏れている光は次第に赤ら引いていく。
膨張して爆ぜる光の方へ駆けた。靴音が高く鳴る。魘されているような声が聞こえる。無数の談話も聞こえてくる。
閉め切られた扉を前にして、息を呑んだ。眼前で散った火花はさながら雨下の神解き。かたわらの窓硝子からは陽だまりが生まれていて、むろん雷声は聞こえない。今しがたの閃爍は幻覚だったかのように消えている。
けれども、それが幻でなかったことを。
「──ぁああああああ!!」
魔女の産声が裏付けた。
研究員たちの狼狽が扉を震わせる。魔女を鎮静させようと指示する叫びがいくつも上がっている。攻め入る機会を窺いつつ、ナイフを握りしめた。
もう少し早く来ていれば、今、魔女になった人間を救えたかもしれない。一瞬だけそんなことを考えた。その意念を取り去り戦意のみを搔き集める。
「っおい、なんで薬が効いてないんだ!」
「ま、魔女にも個体差がありますから……」
「枷が壊れた!」
「早く取り押さえろ!」
「いやぁあああ!」
沸騰する魔力を脚部へ。騒擾する室内へ扉を蹴り倒すと、拓けた情景は惨憺たる有り様。人体だった肉塊が床に点在していた。
切断された誰かの腕と生温い紅血が宙を奔り、頬を掠めていった。
一室は思いのほか広い。周章する彼らの背中は手を伸ばしても届かない程の距離。研究員はおよそ十人。そのうち死体と化しているのが五人。
彼らの向こうには実験体のベッドが二台あり、部屋の隅には薬や器具を並べている長机が一台。ベッドの下に刻まれている魔法陣は円形のみで構成されており、それは魔女を生むためのもので間違いない。
少女の魔女が喚きながら腕を振るい、長机を倒していた。金属音が跳ね上がる。同時に人の血飛沫も上がっていた。
「あ、貴方は……?!」
吃驚の出所は足元だ。踏みつけた扉の傍で、若い女が尻餅をついている。廊下に逃げようとしたのだろう。蒼褪めた表情に突き付けたのは鋭鋒。投擲したナイフは彼女の額をかち割る。仰臥した遺体から刃を引き抜き、床を蹴った。
戦況は悪化している。死体は増え、ベッドは壊され、残骸ばかりが横たわる。
着地したのは魔法陣の内側。紅く濡れる靴底。ここまでくれば研究員達と影が重なった。生き残っている人間は二人。そのうち一人の首を刎ね、もう一人を扉の方へ蹴飛ばした。
正面には窓。きっと依頼人は、この格子越しに絶望を見たのだ。
「うぁあああああ!」
少女の泣き声に首を傾けた。部屋の隅で亡骸を貪っていた彼女が、今や天井近くに跳び上がっている。
彼女の病衣のような服装。剥き出しの腕に縫いつけられている赤い紐はどこまでも色濃く、白光の白さに呑まれない。赤々と翻り、矢庭にこちらを目指す。
威武を纏った一蹴が放たれる。引き避くために踵で血溜まりを蹴った。少女の素足は重い音を鳴らして床板を軋ませる。その振動が伝播し、爪先を痺れさせたのは一瞬。跫音を響かせ彼我の距離を一定に保つ。
血走った眼と真っ向からぶつかる視線。その不可視の一線は魔女の腕が刻削していく。
彼女は出鱈目に窓明かりを払い、室内光を切り裂く。細腕の影がひらめくたび陸離する皎皎。理性を持たず攻め続けるだけの彼女を眼差したまま、こちらは防戦。靴底が足元の遺体を踏み付けた時、己の息が引き攣った。
鮮少の赤が散る。抉られたのは頬。ただの軽傷に過ぎない。けれどすぐさま後方へ跳躍。広げた間隔は仕切り直すには十分。
魔女は人並外れた力を有する存在だ。個体差はあるが、筋力や生命力だけでなく、その速度も一般人では敵わない。目の前のこの魔女は、速い部類。
着地点は倒れている長机の傍。踏み抜いた注射器が罅割れ、メスや針が涼やかな璆鏘を奏でる。その高らかな音差しさえ、魔女の悲鳴に潰された。
「わぁああああ!」
あたかも頑是ない子供が啼哭しているような風体。雷奔した彼女は互いの隔たりを刹那に破る。それは予測済みの軌道。耳元で、髪飾りの時計が秒を刻む。魔女の悲鳴は意識から遊離した場所へ、聴覚はただふれる針を捉える。
──一秒間を意識した。
皮下組織が、臓物が、爛壊していくような不快感。それは全身の魔力が魔法を具象させている証。内側から焼かれているような四肢を動かし、細分化した瞬刻の中に踏み入る。
外側にふれている魔女の腕。追撃はまだ来ない。時計の針はまだ動かない。
一秒では足りない動作を一秒間に捻じ込む想像──それを魔法が実現させる。
彼女の爪先を踏み付け近接。前屈みになっている腹部を膝で蹴り上げ、脚部を捻る。靴甲が沈んだのは彼女の脇腹。蹴り退けた痩身は中空に投げ出される。
靴に付着していた硝子片が陽光を浴びながら煌めいた。星散する破片は浮いたまま。浮雲ほどの速度で漂う硝子を横切って、擲ったナイフが魔女の頭部を貫く。
秒針が音を立てたのはそれと同時。瑠璃の破片が重力に従って床に落ちる。魔女はベッドを圧壊して地べたへ転がり込んでいた。
彼女が仰向けになっていたのは分陰の間だ。流石は化物といったところか。脳を損傷されても勁捷に飛び出してくる。まるで弾丸。曲がることのない一閃を躱すのは容易い。ただその速度を上回れば良いだけだから。
長針がふれる。
鉄の臭いが鼻腔を徹る。研究員達の腥血で染まった彼女の手は目睫。
己の前髪が僅かに切れていた。けれども尖った爪は肌に至らない。この体は既に彼女の間合いの外。
ショルダーホルスターからナイフを引き抜く。目先で緩やかに靡いている彼女の後ろ髪。それを片手で掴み上げた。
露わになったうなじ。打ち付けた刃は一切の躊躇を纏わず慓悍に。頸椎がいやな感触を拳に伝えてくる。なおも刀身を沈めた。
深く、声帯をも押し拉ぐ。時の音と重なる潰れた悲鳴。それを横截した。
彼女の頭部は視界の外へとび、血煙が上がる。噎せ返りそうな臭いに眉を顰め、返り血を拭いつつ死体に背を向けた。