「灰雪の庭」1
一
遠い雑踏も幽けし森の中。そこは男にとって狩場だった。
彼の足跡をさかのぼって眺望しても、街の影さえ見えない。代わりに揺蕩うのは冷たい朝焼けだ。木々を縫った白日が数本、ほっそりと射しこんでいる。光は彼の手元で屈折した。
男は立ち並ぶ木々の合間で小銃を構えていた。狙いを定めた姿勢。次いで発砲音。
放たれた鉛玉が柳色の藹然をつきのける。小さな生物が鳴き声を上げた。血飛沫は上がらない。硝煙だけが霧にまぎれていく。
×月×日のその森は、ひどく白んでいた。見晴らしの悪い気象で狩りなど、やめておけばいいものを。
男は弾丸で空を撃っても踵を返さず、まるで飢えた肉食獣。茶革のブーツも苛立ちを隠さない。砂を蹴って前へ。そうして兎を追いかける。
一心に小さな獲物を眼差し──けれども実際のところ、獲物など見ていなかったのだろう。彼は標的を見失っても我武者羅に猛進していた。
草木を掻き分け、木の根につまづいて転び、しまいには猟銃を投げ捨てて、呻きながらに立ち止まった。
趣味とは元来、気晴らしの為のもの。この男も、あばらに留まる煩悶を掻き払いたかっただけ。だが筒音は音でしかなく、引金の固さも感触でしかない。肉体を揺さぶられても心までは震えない。
結果として彼の内で燻っていた愁いは、吹き込む寂寥に煽られていた。
「どこに行っちまったんだよ……」
猟銃の紐を肩に引っ掛け、彼はあてどもなく歩き始めた。足取りは無意識に旭光を目指す。
探しているのはきっと野兎ではない。ここにいるはずもない探し人を求めていた。
進めど進めど現れるのは木ばかり。時と共に霧も流れ、木の葉が緑を深めていく。
ふ、と。彼は立ち止まった。
彼が踏み入った一帯には、幻聴じみた悲鳴が反響していた。
彼は悲鳴に歩み寄る。鳥の鳴き声にしては涙ぐんだ響きだった。彼は踵を鳴らす。鼓膜を劈いたのは紛れもなく人声だった。彼は己の心音を耳元で聴く。甲高い喚きに胸が潰されそうになっていた。
女の声。男の声。そのどれもが、どこか成熟した産声だった。
誰もいないはずの森で、彼は気味悪さに身震いしていた。猟銃の肩紐を握り締め、砂利を擦り鳴らしていく。ほんの少し進んだところで、彼の呼吸は引き攣った。
進行方向に、規則正しく並ぶ鉄の棒。柵だ。その向こうには広い庭と、煉瓦造りの屋敷があった。
──こんな場所に、建物なんてあったのか。ぽっかりと口を開けた彼は、恐らくそんなことを考えていた。
喚叫は屋敷から溢れ続ける。中で何が行われているのか、男は怖いもの見たさで知りたくなっていた。
柵の外周を辿り、格子越しに庭を窺う彼。寂れた庭には誰もいなかった。けれども見さいた建物は点々と窓明かりが灯っており、人影も見て取れる。
建物の傍では、金切り声によって柵が振動している。金属がじぃんと痺れている。
足元を気にせず歩いていた男は、爪先が鳴らした金声にぞっとした。幸いその音は、けたたましい無数の泣き声に敵わなかった。
足元に転がった鉄の棒。柵が一部分だけ壊れていたのだ。男はそこから敷地内に忍び入り、煉瓦造りの外壁に飛びついた。
窓硝子を覗き見た彼は、赤を見た。
鮮血を孕んだ紐が、室内で踊っていた。悲鳴が聞こえる。赤い紐は、泣き叫ぶ女性の腕に縫いつけられていた。悲鳴が聞こえる。女性の五指が誰かの首を断ち切った。悲鳴が、聞こえる。砕けた硝子よりも眩しい涙が男の視線を絡め取った。
見交わしたのは一瞬。男を動揺させるにはそれで十分。瞼がシャッターを切って、女性の血走ったまなこと、返り血まみれの顔ばせを焼き付ける。
その、顔は。
「そっちの腕を押さえろ!」
「薬を持ってこい!」
泣き止まない女性を拘束する数人の声。彼らに見つからぬよう、咄嗟に身を隠した男。彼はその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
──見間違えるはずがない。
震えた唇の裏側で、男は呟く。
今しがた見合った女性は。化物としか称せぬほど喧狂していた彼女は。
「っ……メイジー……」
彼の、探し人だった。