「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。
「リヴェリーネ。僕が望んだのは、あなたではありません」
ええ知っています、カイオス王子。
あなたが望んでいたのは私ではなく、私の従姉だったのだから。
側近と侍女を従えた四人だけのカイオス様のお部屋は、うっすらと温度が下がったように感じた。
私を見据えたままの、澄んだ淡い青色のカイオス様の瞳。少し潤んで見えたのは、気のせいかしら。
カイオス様の初恋の人は、侯爵令嬢であった従姉のスティアお姉様だった。
私とカイオス様は同い年で現在二十歳。スティアお姉様は九歳年上の二十九歳だ。
今より十二年も前の、カイオス様が八歳の時のこと。
王家主催のパーティに出席していたスティアお姉様に、カイオス様は一目惚れしたと聞いている。その場でお姉様にプロポーズをし、周りを驚かせたというのは、超がつくほど有名な話。
当時十七歳という年頃だったお姉様は、まだ八歳のカイオス様との話は進められぬまま、二年後に別の人と結婚をさせられた。ずっとスティアお姉様を思い続けるカイオス様を諦めさせるための、王家の策略によって。
お姉様は家柄も人柄も申し分なかったけれど、年齢差があるために王家に受け入れられなかっただけだった。
そこで白羽の矢が立ったのがこの私、リヴェリーネ。
スティアお姉様の従妹ではあるけれど、プロポーズ事件があった八歳の時に侯爵家の養女となったので、一応侯爵家の人間ではある。
私の本当のお父様は次男で商家に婿入りして、貴族の身分は持っていない。そんな中、私はスティアお姉様の代わりになるかもしれないと連れられただけの、ただの身代わりだった。
そうして私たちは、十六歳の時に婚約した……いいえ、婚約をさせられた。カイオス様がいつまでもスティアお姉様を忘れられずにいたから、強行されただけの婚約だった。
私はなんとかカイオス様にお姉様のことを忘れもらおうと頑張っていたけど、結局は徒労に終わっていた。
それも当然のこと。私とスティアお姉様とでは、美しさが違うもの。
だからカイオス様に、『僕が望んだのは、あなたではありません』と言われるのは必然だった。
「申し訳ないが、婚約は破棄させてください。それ相応の慰謝料は用意します」
婚約して、四年。
とうとうこの日が来てしまったのだなと、乾いた息が漏れそうになる。
カイオス様がいきなりこんなことを言い出したのは、お姉様が一週間前に子どもを連れて出戻ってきたからに違いなかった。きっとチャンスがあると思ったに違いない。
嫌です……なんて言って、なんになるだろう。
この四年で、カイオス様の優しさは身に沁みてわかっている。
夜会で緊張する私に、大丈夫だと手を差し伸べてくれた。
寒がりの私が震えていると、マントを外してそっと掛けてくれた。
誕生日には必ず贈り物をしてくれて。
刺繍したハンカチをプレゼントすると、目を細めて喜んでくれた。
私の体調が良くない時には真っ先に気づいてくれたし。
困った時には、必ず助け船を出してくれたのだ。
『心配しなくていいですよ』と極上の笑みを見せて。
だから私は、勘違いをした。
カイオス様はもう、スティアお姉様のことは忘れているって。私だけを見てくれているはずだって。
そう、思い込もうとしてた。
好きだった。
一緒に過ごすうちに、少しずつ好きになってしまっていたのだ。
私は身代わりでしかないと理解していたはずなのに。
カイオス様が憂いの瞳を見せれば、それはお姉様のことを考えている時だとわかっていていたのに。
きっと、私が嫌だと言えば婚約破棄をされることはないだろう。
周りだって王子のわがままを許しはしないもの。
でも、カイオス様は心の底から破棄したいと願ってらっしゃる。止めなければいけないはずの王子の側近が、黙って見ているのがその証拠。
私が承諾……いいえ、快諾すれば、カイオス様は私から解放される。お姉様との未来を紡ぐことができる。
私は一度ぐっと目を瞑ると、カイオス様をまっすぐに見上げた。
「もちろんですわ、カイオス様。いいえ、王子殿下。ようやくこの時が来ましたのね。私も待ち望んでおりましたわ。このリヴェリーネ、喜んで婚約破棄を受け入れたく存じます」
「……ありがとう、リーヴェ。いえ、リヴェリーネ侯爵令嬢」
カイオス様の側近と私の侍女の、四人しかいない部屋での婚約破棄。
それでも私は晴れ晴れとした顔を作って笑みを見せる。
きっとこのことは王子の側近が陛下へと伝えてくれるはず。双方望んでの婚約破棄ならば、陛下も受け入れるしかないだろうから。
「お嬢様……っ」
ずっと一緒にいる侍女のメリアが焦ったように声を上げる。でも私は動じずに毅然としていた。
「メリア、侯爵家に戻りましょう。王子殿下、長い間お世話になりました。息苦しかったこの婚約からようやく解放されて、私は幸せですわ」
「そうですか。長く縛り付けてしまい、申し訳ありませんでした」
「殿下もどうぞ、幸せをお掴みくださいませ」
「……ええ」
私は悪の令嬢を演じるように、傲慢にそう言ってみせた。
好きだったなんて知られてはいけない。幸い、私はそういう言葉をカイオス様に伝えたことはなかった。
自分の気持ちを伝えて、『あなたはただの身代わりだ』と言われるのが怖かったから。
現実に目を瞑って、甘い夢を見ていたかった。だからずっと黙っていたけど。
もう、その夢は儚くも消えてしまった。
カイオス様の顔を見ていては景色が滲んでしまいそうで、私はすぐさま王宮を出ると、メリアと共に馬車へと飛び乗る。
家に着いても、すぐにお義父様に事情を話す元気はなく、自室へと引き篭もった。
メリアが温かい紅茶を持ってきてくれても、目の端に入れるだけで手を伸ばす気力も起こらない。
「お嬢様……」
「ごめんなさい。せっかく淹れてくれたのに……あとでいただくわ」
「お嬢様、どうか我慢なさらないでくださいませ」
「……え?」
メリアは床に膝をついて、椅子に座る私の手をぎゅっと握った。
「このメリアにはわかっております。お嬢様は……王子殿下のことが、お好きだったのでしょう?」
メリアが覗き込むようにして、私に問いかける。
私が侯爵家に来た時からずっとそばにいて、見守ってくれているメリア。
彼女のまっすぐな、でも優しい瞳が視界に入るだけで、私はたまらなくなって──
「メリア……っ!」
我慢していた涙が、ぽろりと滑り落ちる。
ずっとずっと心の内に秘めていた、この熱い思いが。
もうカイオス様と私を繋ぐものはなにもないのだと思うと、絶望感が一気に押し寄せた。
「メリア。私……私、ずっとカイオス様のことが……っ」
「お嬢様……お嬢様は、お優しすぎます……」
姉のような存在のメリアの言葉に、私はさらに涙腺を決壊させた。
カイオス様と一緒になれると思っていたのに。
たとえ、お気持ちがスティアお姉様にあったとしても。
身代わりでいいから、カイオス様のおそばに居させてほしかった──。
「うあ、うぁあ……っ!! メリア、メリアぁあああ……っ」
「大変、ご立派でございました……っ! お嬢様、わたくしはわかっておりますから……!」
メリアの優しさに私が抱きつくと、彼女も私をぎゅっと強く抱きしめてくれて。
私は悲しみを吐き出すかのように、メリアに縋り付いて泣いた。
カイオス様。
カイオス様──。
どうして私ではダメだったのでしょうか。
私ならばカイオス様を一生愛し続けたのに──。
『リヴェリーネ。僕が望んだのは、あなたではありません』
その言葉を思い出すと、息ができないくらい苦しくて悲しくて。
涙は、眠るまでずっと流れ続けていた。
***
私は、スティアお姉様が大好きだ。
美人で、優しくて、溌剌としていて、真夏の空のような明るさを持った元気な人。
そんなお姉様が離縁して出戻ってきた時も、『ようやく離婚できたわ!』と嬉しそうで安心した。
私にとっては姪っ子と甥っ子になる子どもたちも、両親の離婚をちゃんと受け入れているようで、少しずつ馴染んできている。
王家からは私とカイオス様の正式な婚約解消の書類が届いて、一時期はごたごたしていたけど。
婚約が白紙に戻されると、カイオス様はほぼ毎日と言っていいくらいに侯爵家へと顔を出し始めた。
結婚してほしいと。二人の子どもも愛すると。こうなったのは自分のせいだから責任を取りたいと。
もちろん私にではなく、スティアお姉様に向かって。
お姉様は困惑気味で、それらを丁重にお断りしている。
『正直、男の人はもうこりごりなのよね』とカイオス様がいないところでそうこぼしていた。
カイオス様は婚約破棄をした私に対しても気にかけてくれた。
きっと、お姉様を口説きに来たついでだろうけど。
『困っていることはないだろうか』
『誰かになにか言われることがあったら、すぐに教えてほしいのです』
『紹介してほしい人はいないのですか?』
『あなたは寒がりなのだから、我慢せず厚着するのですよ』
『僕はあなたに幸せになってもらいたいんです』
優しい言葉をかけられると、胸が疼いた。
もう接点はなくなると思っていたのに毎日顔を合わせるものだから、忘れられるわけがない。
いくら好きになっても無駄だと言い聞かせたけど、心は言うことを聞かずに恋しさだけが募っていく。
そして今日も、カイオス様はお姉様を口説きにやってきていた。
「どうしても僕と結婚してはくれないのですか。必ず大切にします!」
「王子殿下。何度いらっしゃっても、私の気持ちは変わりませんわ」
「では僕は、あなたにどう償えばいいと!?」
玄関のホールで、カイオス様を通しもせずに言い合いをしている。
けれどいつもの話し合いと今日は違っていて、私は近づき過ぎずに二人を見つめた。メリアも私の後ろでなにも言わずに控えてくれている。
「償う? 王子殿下は、私に償いをしようとしてくださっているの?」
「あなたが……あの男の元へ嫁ぐことになったのは、僕のせいです。酷い仕打ちを受けていたと聞きました。でも僕は、助けることもできなかった……!」
酷い仕打ち。暴力でも振るわれていたのだろうか。
離婚の理由を聞いても、お姉様は『性格の不一致よ』と眉を下げて笑うだけだったから、全然気づかなかった。
「いいえ、殿下は助けてくださいました。あの人との離婚が成立したのは、王子殿下が手を回してくださったからだとわかっています。本当に感謝していますの」
「それでも、長い間苦しませてしまいました。僕はその責任を取らなくてはなりません。あなたを一生幸せにする義務が、僕にはあるのです」
カイオス様の真剣な瞳が、お姉様に向けられていた。
一生幸せに。
そんな言葉、私は言われたことがない。
当然だ。私はただの、身代わりだったのだから。
いいえ……身代わりにすら、ならなかったのだから。
つつぅ、と涙がこぼれ落ちる。
後ろに控えていたメリアが「お嬢様……」と僅かに声を上げ、カイオス様とお姉様が私に気づいてしまった。
「リヴェリーネ? あなた、どうして泣いて……」
そこまで言ったお姉様が、ハッと気づいたようにカイオス様を見た。
そのカイオス様は目を見開いたまま、私を見つめている。
やだ、恥ずかしい。
それに私がカイオス様に恋していることを気づかれてはいけない。
「ごめんなさい。目にゴミが入ってしまったみたいで……」
下手な言い訳をしながら、ハンカチを取り出そうとするけど見当たらない。淑女の嗜みを忘れるなんて、今日はなんて日なの。
重ねて恥ずかしい思いをした私は、部屋に逃げ帰ろうとした。
「これを使ってください。リーヴェ……リヴェリーネ侯爵令嬢」
ツカツカと歩み寄りながら取り出したのは、白いハンカチにカイオス様の名前の刺繍が入ったもの。
受け取って確認すると、間違いなく私がカイオス様に贈ったものだった。
「どうして、これを……」
「あなたからの初めてのプレゼントでしたから。今でも大切に使わせてもらっています」
刺繍をしただけのただのハンカチを。
今でも、大切に。
どうして、と聞きたかったのに、声が出てこない。
また涙が溢れて、私はそのハンカチで雫を拭う。
婚約破棄した相手のものを、大切にするだなんて。
嬉しいけれど、理解ができない。
「ありがとうございます。けれどこれは、こちらで処分しておきますわね」
「……処分? なぜ」
「なぜ?」
なぜとは、また不思議なことを言う。元婚約者にもらったものなど、普通は処分してしまうものだと思うのだけれど。
「もうこんなものは、必要ありませんわよね?」
「やめてください。あなたからもらった、大切なものだと言ったはずです」
ハンカチを持った手首をそっと握られる。手が触れ合うのは初めてじゃないけど、久しぶりすぎて。
私の顔に熱が集まる。だめ。変に思われてはいけないというのに。
「……リーヴェ」
私の愛称を呼ぶカイオス様は、少し驚いた顔をした。
まさか……気づかれてしまった……?
「お、お放しくださいまし……! 私たちはもう、婚約者ではないのですから……っ」
「……失礼」
なぜか苦しそうに見えるそのお顔。意味がわからず、私は疑問をぶちまける。
「カイオス様は、スティアお姉様を幸せになさるのでしょう!? ならば、もうこんなものはいらないはずです!」
「あなたとの思い出を、とっておくことすらいけませんか」
「それは……普通に考えて、ダメなこと……だと思いますが……」
ダメなこと、なのだろうか。自分で言っておきながら、自信がなくなってきた。
ちらりと斜め後ろに控えているメリアに助け船を求めると、彼女は一歩前に出てカイオス様を見上げる。
「失礼ながら申し上げます。過去の女性のものを持つというのは、妻となる女性にとっていい気はしないでしょう。捨てろとは申しませんが、人前で大切にしているなどと言うものではございません」
「いえ、私は別に妻にはならないけどね」
スティアお姉様が後ろで私たちを見ながら呟く。
カイオス様はメリアの話を聞いて、バツが悪そうに眉を下げた。
「そうですね。僕の配慮が足りませんでした」
そう言いながらもカイオス様は私からハンカチをさっと取り上げ、ポケットへとスマートに入れてしまった。
たった今、メリアに咎められてカイオス様も反省の言葉を述べたというのに、私はその行動に違和感を持った。けど不思議に思ったのは私だけじゃないようで、スティアお姉様が驚いたように目を見張った後、フフッと妖しい笑みを見せている。
「なーんだ、そういうことね」
まるですべての謎は解けたとでも言うように、お姉様は晴れやかな顔をした。
一体、なにがわかったというのだろうか。
「王子殿下。もう罪悪感に縛られるのはおやめいただきたいわ。本当はもう、私なんかに興味はないのでしょ?」
「……お姉様?」
一体なにを言っているのか、スティアお姉様は。
カイオス様はずっとお姉様を気にしていた。それは私が一番よく知っている。
その、はずなのに……カイオス様はなにかを飲み込むように、ぐっと奥歯を噛み締めていた。
「僕が子どもだったせいで、スティア……あなたの人生を狂わせる羽目になってしまったのです」
「仕方がないわ。殿下は子どもだったのですから」
「だから僕は、あなたを幸せにする義務が──」
「義務なんかで幸せになんてなれると思って?」
お姉様は凛と背筋を伸ばしたまま、カイオス様を見据えていた。
「それでも僕は、責任を取らなくてはいけない立場にあります」
「責任を取るべき相手を間違えてはなりませんわよ、王子殿下」
スティアお姉様のきつい物言いに、ひやひやする。カイオス様もその端正なお顔を少し歪ませて、それでも真っ直ぐにお姉様の言葉に耳を傾ける様相を見せた。
「私は今、幸せなんです。あの人と離婚できて、かわいい子どもたちとも別れずにすみましたから。だからもう、王子殿下が気になさることはなに一つありません」
「スティア……」
「お気にかけていただいたこと、感謝していますわ。どうか、今後はご自身の幸せをお掴みになって。それでは御前を失礼いたします」
お姉様は綺麗なカーテシーを見せると、そのまま颯爽と部屋へと向かっていってしまった。
それを目で追っていたカイオス様だけど、追いかける様子はない。
「いいのですか、王子殿下! お姉様を追いかけなくて……」
「ええ。未練は元々ありませんので」
「……は……?」
未練が、ない?
理解のできない言葉に、私は眉を寄せた。
「カイオス様はいつもお姉様を思い出して、つらそうなお顔をしていらっしゃったではないですか!」
「当然です。僕のせいで無理やり婚姻を結ばされ、あの家でずっと虐げられていたんですから。スティアを思い出さぬ日はありませんでしたよ。必ず救い出して幸せにすると、昔から決めていた。それが僕の望みでした」
揺るぎのない瞳。知っていたけど、カイオス様はとても真面目な方なのだと再確認させられる。
「リーヴェ。あなたにも申し訳ないことをしました。貴族の世界に足を踏み入れさせることになり、僕の婚約者にさせられ自由を奪ってしまっていた。今からでも好きに生きてもらえればと思っています」
そして、優し過ぎる。
強制的に養女にさせられて、カイオス様の婚約者になった私のことまで、ずっと責任を感じていたのかと。
婚約を破棄することによって、私を自由にさせられると……そう、思って。
でも、私は……っ
「お嬢様」
振り向くと、メリアが胸の前で拳を作ってこくんと強く頷いていた。
これは……勇気を出せということ?
カイオス様はお優しいだけで、私に興味はないというのに?
「む、無理よ、メリア……」
「今言わねば、一生後悔なさいますわ」
メリアの目力に押されて、私は視線をカイオス様へと向けた。
一生後悔する。それは嫌だ。
私は弾かれたようにその名を口にする。
「カイオス様……っ!」
王子殿下と言われなかったカイオス様は、ほんの少し驚きを見せた後、優しく微笑んだ。
「なんでしょう」
「私をもう一度、リーヴェと呼んでいただけませんか!?」
「……リーヴェ?」
首を傾げながらカイオス様は呼んでくれたけど……そういう意味では、ないの。
「私は……カイオス様の婚約者になった時、リーヴェと呼んでくださって嬉しかった……そして、呼ばれなくなった時は悲しかったんです!」
嘘偽りのない、私の気持ちを。
困らせるだけかもしれないけれど、どうか知っていてほしい。
「私は所詮、お姉様の身代わりだから……愛されることはないってわかってたのに、私は……カイオス様を愛してしまっていました……っ」
「……」
カイオス様が目を見開いたまま固まってしまった。
今さらこんなこと言われても困るに決まっている。
もう私たちは婚約者でもなんでもない。ただの他人なのだから。
それでも、私の気持ちを最後まで。
「この四年間、私はとても幸せでした…… 初めて人を愛する喜びを教えてくださったカイオス様に、感謝いたします……!」
私は涙をこらえようと唇を噛む。
そんな私をメリアは後ろから抱きしめてくれた。
「よくお伝えなさいました、お嬢様……!」
「メリア……う、うぅう……っ」
メリアの温かさに触れて、私は我慢できずに涙を滑り落とす。
床にいくつもの水玉模様が描かれた。
「リーヴェは……僕を恨んでいると思っていた」
じっと静かに聞いてくれていたカイオス様の言葉に、私は視線を上げる。
そしてこくんと頷いて見せる。
「そう……ですわね……いきなり養女に出されることになったのも、令嬢としての振る舞いを身につけさせられたのも、恋愛を禁じられて勝手に婚約させられたのも……全部カイオス様のせいだと思っていましたから」
「合っています。それは全部、僕のせいですから」
そうだった。私は最初、なんて迷惑な人なんだって、そう思っていたのだ。
でも婚約して、交流が始まると……人に気遣いができる、底抜けに優しいお人好しだとわかった。
私に対してもお姉様に対しても、ずっとずっと引け目を感じていたんだ。カイオス様は……。
ならば。
それならばきっと、私がもう一度婚約者になってとわがままを言えば、カイオス様は応えてくださるだろう。
お姉様に対して責任を取ろうとしていたのと同じように。
愛していると告白した私の気持ちを、蔑ろにはしない。それどころか、きっと尊重してくれる。自分の人生を犠牲にしてでも。カイオス様は、そういうお方だから。
じゃあ、カイオス様の幸せはどこにあるのだろう。
王子として生まれて、好きになった人とは引き離され、周りに決められた私と婚約させられて。罪責感だけで結婚できてしまうような、優しい人。
きっとカイオス様は、責任を取ると言ってくれる。だからこそ、私はそれを断らなきゃいけない。
カイオス様にこそ、幸せになってもらいたいのだから。
「リーヴェ。勝手を言います。もう一度、僕の婚約者になってもらえませんか」
ほら、やっぱり。
カイオス様は私に責任を感じている。
私が勝手に愛してしまっただけだというのに。
思わず荒んだ笑みを漏らすと、カイオス様は端正なお顔の眉間をほんの少しだけ寄せていた。
「いけませんか。リーヴェが僕のことを愛してくれているというのなら」
「愛しております。けれど、責任をとってほしいとは思っていません」
「お嬢様……!」
メリアが私の手をぎゅっと握った。『結婚できるチャンスなのに、どうして』と顔に書いてある。
私はそんなメリアを見て、にこりと笑みを見せた。
「いいのよ、メリア。カイオス様が私に自由を与えてくださったように、私もカイオス様に自由になっていただきたいの。スティアお姉様への罪悪感も私への罪悪感もすべて払拭して、ようやくカイオス様は本当にお好きな方と向き合えるんだわ」
ここで邪魔をしてはいけない。
カイオス様にだって、幸せになる権利はある。
もしここで私が元に戻っては、意味がなくなってしまうから。
「気持ちを伝えられてすっきりいたしましたわ。どうかカイオス様、素敵な恋をなさって幸せなってくださいまし……」
最後までお姉様のように凛としていたいと思っていたのに。情けなくも、声が震えてしまった。
カイオス様といつか結ばれるであろう誰かへの嫉妬が止まらない。
彼の隣に立つのは私でないことが、やたらと寂しくて……息が吸えないほど、胸が締め付けられる。
「リーヴェ」
「はい……」
「僕はもう、恋をしています。あなたに」
「……はい?」
予想外の言葉を受けて、私は令嬢にあるまじき調子外れの声を出してしまった。
口を開けたままぽかんと見上げると、カイオス様は困ったように眉尻を下げて少し微笑んでいる。
「僕なりにあなたを大切にしていたつもりです。気づかなかったでしょうか」
「いえ、それは……もちろん気づいておりましたけれども」
今度は嬉しそうに微笑まれている。
カイオス様は婚約してからずっと、私を大切にしてくれていた。誰よりも私がよくわかっている。だけどそれは、私への罪悪感からだったのでは?
ちょっと頭の整理が追いつかない。
カイオス様が恋をされておられた。誰に。私に。
……なんの冗談なのか。
私は混乱した頭のまま、口を開いた。
「そんなに無理して責任を取る必要はありませんわ。カイオス様の思うまま、自由にしていただければ、それで」
「ありがとう。自由にさせてもらうよ。もう一度リーヴェに婚約者になってもらいたい」
それでは話が戻ってしまっているのですが……!?
「お待ちくださいまし! カイオス様はあの時、望んだのは私ではないとおっしゃっていたではありませんか!」
「スティアを救うのが僕の長年の望みでした。それを否定はしません」
「なら……っ」
「だけどスティアはもう幸せだと言う。僕の望みはもう、叶っていたんです」
ほっとしたような、大きな荷物をようやく下ろせたような、晴れ晴れとしたそのお顔。
私との婚約も破棄して自由になれた今、再び荷物を背負う意味は……ない。
なのに、もう一度私との婚約を望んでいるということは、カイオス様は本当に私のことを……?
「だから、ようやく素直になれる。僕が今、心から愛している人は……リーヴェなのだと」
カイオス様の甘く優しいお顔を見ていると、勝手に手が震える。
隣でにっこりと微笑んだメリアが、そっと立ち去ってくれた。
二人きりになった私たちは、どこか緊張していて。
「ほ、本当に本当なのですか? 一体、いつから……」
「刺繍のハンカチをプレゼントしてくれた時には、恋に落ちていました。だからこそ、望まない結婚を強いられるあなたとは別れるべきだと……僕はスティアを幸せにしなければいけないのだからと、自分の心を偽っていたのですが……」
「私がカイオス様を好きになるのは、想定外でしたのね?」
「嬉しい、想定外です……っ」
いつも穏やかで凪いだ湖面のようなカイオス様が、喜びを溢れさせている。
本当だ。本当に、カイオス様は私のことを……こんなにも。
「カイオス様……いいのでしょうか……」
「なにがです?」
「もう一度、私が婚約者になっても……!」
見上げた瞬間、ぽろっと溢れ落ちる涙。
カイオス様は刺繍いりのハンカチを取り出すと、私の涙を優しく拭いて──
「今度はちゃんと結婚までいきましょう。生涯、大切にします」
そう、約束してくれて。
私たちは視線を重ねると、恋する瞳で微笑み合った。
お読みくださりありがとうございました。
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