第一話 祈りの剣(5)
闘争神ボンガロの使いは狼と言われる。
言われているが、使徒として描かれるその獣は、どう見ても尋常の狼とは違う。
赤黒い獣毛は長く強く。首周りはまるで獅子の鬣のようになっており。
口を閉じても露出する、巨大すぎる牙を上下に二本ずつ生やし。
細長い逆三角形の獣面は、輝かんばかりの純白だと言う。
ボンガロの代理人たる決闘神判官も、この狼という名のバケモノの似姿をとる。
赤黒い獣毛の腰蓑と鬣。
裸の全身には赤と黒のまだら模様を塗りたくる。
そして、黒く赤く禍々しい身体から浮かび上がるように、白く白く白い逆三角形の仮面。
どこから見ても怪物か怪人の類であった。
「よくお似合いです、旦那様」
「そりゃ、喜んでいいんですかね」
ロング・ザッカショーは仮面をずらして曖昧に微笑む。
見上げるシエテは花のような満面の笑み。
「まさしく、神の獣がここに降臨したかのようです」
「衣装係が頑張りましたからね」
事実、異装と言えるその格好に、ロングの容姿はよく似合う。
細く長い手足は、塗りつけた赤と黒の色彩もあって、異形の獣の手足じみて。
猫背ぎみに前屈すれば、白い面は禍々しい鬣にすっぽりと埋まる。
何より影を纏った物腰が、仮装に留まらない剣呑な空気を与えていた。
「神のご加護がある以上、わたくしの祈りなどは不要かとは思いますが……」
シエテは歳違いの夫に身を寄せる。
余人は何と言おうとも、どのような理由で彼を家に招き入れたとしても。
彼女にとって、ロングは愛しい良人に他ならない。
ちゅうと、接吻を求めて唇を尖らせる。
「行ってまいります」
その妻の額に優しく口づけして、ロング・ザッカショーは仮面を被る。
一歩踏み出したその時にはもう、ロング・ザッカショーと呼ばれた男はもういない。
そこにいるのは、闘争神ボンガロの使徒たる魔狼。神の代理人たる決闘神判官。
シエテにはそのように思えた。
(ここから、試合用のテンションに持っていかんとな)
もちろん、そんな事は無く。
ロング・ザッカショーは極めて冷静に準備をはじめる。
浅く早く呼吸する。
どくどくと、心臓が脈打つ姿を心に描き、それをさらに加速する。
腹の底から熱いものが這い上がって、脳髄を熱く、赤く染め上げる。
戦いに向かう熱狂を、自分の意志で再現する。
そして、一つ大きく息を吸い込んで。
「ップルァッカアアアアアアシャアハアアアアアアアアアアアアアア!」
腹の底から湧き上がった雄叫びは、もはや人のそれではなかった。
* *
「おお! 神前より現れしは、神の御使い! 闘争の魔狼! 異形の雄叫びを上げる決闘神判官は、本日も白き面を血に染めるまで止まりはしなぁい!!」
「良い仕上がりです。闘争神ボンガロの御姿が、決闘神判官の背後にあるのを、わしの目にはしっかりと見えますぞ!」
ロングの上げた奇声に、観客のボルテージも一気に上がる。
そもそも酒が入っている。
最初の一杯を振る舞ったのは神殿だ。
それ以降は観客の間を縫うように、酒売り達が練り歩く。
前座にやった賭け試合も、いい感じに盛り上がった。
神聖にして不可侵たる決闘神判を賭け事に使う事は出来ないが、それに付随して賭け試合を行うのは禁止はされていない。
人間同士のレスリングが2試合と、闘犬が1試合。
大変に盛り上がり、飛ぶように賭け札が売れた。
決闘神判は神事である。
つまりは祭りであるので、こういう神殿側も役得も喜捨の類として許容されている。
そういう訳で前座は大いに盛り上がり。
「ゥリュアッカァアッアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
そして出てきたのが『コレ』である。
観客たちは、やんややんやと盛り上がり、反応に気をよくしたロングの方も人間とは思えない動きで跳ね回っては観客たちにアピールする。
こういう所作の一つひとつが、決闘神判という祭りを成功に導く。
神官長達がロングを重用する理由がここにある。
「さあ、ボンガロの使徒が本日手にする凶器は何か!? 剣か? 斧か? それとも槌か!? 神の裁定やいかに!?」
魔法仕掛けの拡声器が、実況の司祭の声を闘技場に響かせる。
雑音まじりのその声は、興奮する観客をさらに煽り、熱くさせる。
「この選択が重要です。神判決起人をどのような手段で血祭りに上げるのか。神、ボンガロ自らによる宣言なのですから」
神官長は低く、よく通る声で解説をする。
長く説法で鍛えた喉は流石の一言で、一言一句が聞き取りやすく、耳に心地よい。
「さあ、注目の武器選択は……おおっとぉ! 痛ったぁ! これは痛そうな得物だぞぉ!」
ロングが手に取ったのは、常人の背丈ほどもある長柄のハンマー。
しかし、その叩き面は針山のようにいくつもの尖り面が付いていて、見るからに当たった時の痛みを想起させる。
「ハンマー……と言うよりは、肉叩きですな」
「しかしこの肉叩き。あまりに巨大じゃありませんか?」
「いやまったく。使う機会があるとすれば、ドラゴンでも獲れた時くらいでしょう」
ハッハッハと冗談めかす神官長。
その間も、ロングは手にした巨大肉叩きを掲げ、それから観客一人ひとりに見せるように、ゆっくりと巡らせる。
迫って見るほどに、ギザギザの叩き面の凶悪さが、鉄の匂いに混じって漂って来るようで、観客たちの背筋に心地よい怖気が走る。
「なるほどなるほど。さしずめ『竜肉潰し』! これを手にした決闘神判官! 対する決起人、ルーサー・エストレが頼るのは、手にした剣ただ一つ!」
「それと、身に付けたスパダ派の剣技ですが。さて、神の恩寵の前にどれほど役に立つかが見ものです」
「さて、対面側からは神判決起人ルーサー・エストレ! おーっと、こちらは対照的に棒立ちだ!」
ふわふわととした足取りのルーサーが対面側から入場する。
立ち姿は棒立ちで、右手には指に引っ掛けるように剣を下げている。
その姿は、刑を宣告された罪人のようである。
「いえ。これは四方八方に意識を遊ばせ、しかして一意に専心する達人の所作でしょう」
すかさず神官長のフォローが入る。
「なるほど。第一印象で決めつけてはならない難敵という事ですね!」
「激戦が期待できますよ」
長い経験と、深い知識に裏付けられた説得力と納得させる声の圧。
並の神官ではこうは行かない。
咄嗟にこういう事が出来るから、神官長は長らく神殿の長として君臨出来るのだ。
「両者ゆっくりと向かい合い、闘争神ボンガロに神判開始の祈りを――」
瞬間、ロングは走り出す。
神判開始の宣誓を待たず、赤黒のまだら模様に塗りたくられた長い腕を、投げつけるようにルーサーの兜の上に叩きつける。
突然の衝撃に、跳ねるように退くルーサー。
その胸元に、追撃の前蹴りが飛ぶ。
バランスを崩し仰向けに倒れるルーサー。それに怪物と化したロングが馬乗りになり……。
「不意打ち! 不意打ちです! 掟破りの決闘神判官による不意打ちが炸裂!」
「これはいけませんね」
「見届人達によって両者が引き離されます。猛っています。本日の神の使徒は猛っているぞぉ!」
闘技場に控える神官たちが、暴れるロングを引き剥がす。
もちろん仕込み済みの事であるので、その動きに淀みも動揺も無い。
神官たちに数人がかりで抱きかかえられ、奇声を発しながら宙を蹴るロング。
その姿に、観客達もヒートアップ。
「汚ねえぞ!」
「卑怯者!」
「神に謝れ!」
「不意打ちされる方がトロいんだよ!」
「殺せー!」
楽しげな罵詈雑言が観客席から降ってくる。
ぎゃあぎゃあと上がる歓声は、天地を響かせるかのようで。
その声に、ロングは一転として直立し、それから胸に手を重ね、恭しく頭を下げる。
「てめぇえええええええ!」
「ふざけんじゃねえぞぉ!」
「ナメてんのか!」
「いいぞ! もっとやれ!!」
その仕草一つ一つが観客達の興奮を沸き上がらせる。
観客たちは立ち上がって声を上げ、手にした酒盃を闘技場に投げつける。
「物は投げないで下さい! 物は投げないで下さい!」
「暴動になるかもしれません。これは大変な事ですな」
言葉の割には落ち着きはらった司祭と神官長。
ロングの行う決闘神判は、いつもこんな調子である。いちいち動揺なんてしていられない。
「さて。宣誓前の衝突もありましたが、両者向き合い。決闘神判、今開始!!」
「闘争神ボンガロの名において、決闘神判の開催を宣言いたします」