第一話 祈りの剣(4)
分かってはいなかった。
「……怖い……」
ルーサー・エストレは、びっくりするほど箱入りのお坊ちゃんだった。
何しろ礼法を教える家柄である。
公式に行われる催事は、相応の礼儀と公正さをもって行われるものだと思いこんでいた。
先代は、それなりに物事を知った人であったが、それを教える前に儚くなられた。
つまりはルーサーは、甘やかされて育ってきた。
「……なんだこれは……どうしてこうなった……?」
決闘神判当日。巷の噂は最高潮に達していた。
真偽曖昧な話が飛び交い、無責任な下馬評が次々に披露される。
「――このような事に触れるのは本意ではないのだが」
そのような前置きをして、有象無象が一言物申してくる。
とある剣の大家は激怒し、スパダ派の誰がしは流派を上げて激励した。
城下町の全てが、この決闘神判に注目し、好き勝手に囃し立てている。
そのように、ルーサーには思えていた。
でなくても、事はすでにルーサー一人の問題では済まなくなっていた。
貴族の誇りだ、剣術流派の意地だのと、見た事も無い連中が、昼夜を問わずエストレ子爵邸に押し寄せて。
「一手ご指南」
などとやり始める。
ここ数日間、ルーサーがまともに寝られた夜はない。
真剣勝負の経験なんて、彼には無い。
剣術にしても、父親から礼法の一つとして叩き込まれただけのもの。
先の襲撃を実戦経験と呼ぼうにも、何だか分からない間に戦線離脱を余儀なくされた。
だからこそ、真剣勝負というだけで腹の底から恐怖が湧いてくるというのに。
それに加えて、他人の期待や無責任な雑音がいつの間にか両肩にのしかかって来る。
吟遊詩人は無責任な物語を謳っていた。
すでに決着を迎えた事になっている歌まである。半数はそうだ。
耳を塞いでも周囲の雑音は入ってくる。
親類縁者や主君筋の者たちが心配や興味本位で声をかけてきては、耳を塞いだままでもいられない。
響く雑音が耳の奥で反響して、目を瞑ると頭の中で木霊する。
「くそ……くそぅ。ロング・ザッカショーめ……卑劣なヤツだ……っ!」
これらはきっと、ロング・ザッカショーの計略に違いない。
ルーサーを精神的に追い詰めるための計略に違いない。
「若さま。ご準備を」
足元がふわふわとする。
自分が立っているのか座っているのかも定かではない。
自分がいま、どこにいるのか。これから何をしようとしているのか。
それすらも定かではない。
見知った召使い達が、忙しそうに動き回っていた。
気付けの火酒を盃に注ぎ、負傷した時のための包帯や傷薬をいつでも使えるようにと箱に詰め。
家伝の兜を鏡のようにピカピカに磨き直し。
この日のために仕立て直した鉄鱗の鎧を着付けて……。
その光景を、ルーサーは他人事のように眺めていた。
決闘の準備を続ける自分を、頭の上から眺めているようだった。
刃先を潰した無骨な剣を手に握らせられて。
煽った盃の強い酒精に喉を焼かれて。
ようやく。
ようやく、今まさに決闘神判に向かう事を思い出す。
控室の扉を開けて、通路をしばらく進むだけで、決闘神判が始まってしまう。
その事に気付くと、強く、大きく、地響きのような歓声が聞こえた。
決闘神判という絶好の見世物に、城下町の民草どもが押し掛けている。
酒でも入っているのだろう。
興奮し、熱狂した声は、それだけで全身を震わせるほどだった。
「ご武運を」
短く囁く者がいた。
果たして誰だっただろうか、とルーサーはぼんやりとした頭で考える。
わぁわぁと響く歓声と、どくどくと脈打つ心臓の音にしか意識がいかない。
控室の扉が開く。
通路に自分自身の足音が反響している。
薄暗い通路の先に、光が見える。
僅かに覗く、丁寧に整えられた砂の地面。
響く歓声は、もう嵐のよう。
それが、どんどんと近づいてきて。
そして、闘技場に決闘神判官が立っていた。
怪物だった。
「ップルァッカアアアアアアシャアハアアアアアアアアアアアアアア!」
本当に怪物がそこにいた。