9話 セヴィリス・デインハルト
(せ、セヴィリス様?)
焦りを含んだ声が聞こえる。
(大丈夫……?)
扉の向こうにいるはずの彼がなぜそんなことを叫んでいるのか。リリシアの様子など知るはずもないのだ。
くらくらしながらもリリシアが「だ、だい、じょうぶ、です……」と答えたとき、大きく扉が開かれ青年が飛び込んできた。その場で倒れそうになっているリリシアを間一髪で抱き止める。
「ああ、……やっぱり」
彼はそう呟くと、リリシアをゆっくりと寝台へ横たわらせる。
「……ごめん。早めに宴を抜け出そうとしたんだけど」
なぜか彼は悲しそうに謝ってきた。
「せ、セヴィリスさま……?な、なにを」
リリシアは彼の言っていることが全くわからない。ただ、肩が焼けてしまいそうに熱い。
「今夜は満月だ。影響が出ても無理はない」
彼は優しくリリシアの肩から白い絹衣をずらした。
「あ……」
「ごめん、少しだけみせてほしい」
彼はリリシアの熱を持った肩を一目見ると一段と厳しい表情になった。
「ラハルト!薬壺を持ってきて」
扉の向こうへ大声で叫ぶ。瞬く間に一人の青年が現れ、セヴィリスに銀器を渡す。
「ありがとう。それと、後で温かい飲み物を頼む」
彼はそっと薬壺の中身を彼女の肩へ塗り始めた。軟膏だろうか、ヒヤリとした冷たさが気持ちいい。リリシアは知らず、そっと息を吐いた。
「痛くない?」
「は、い……」
晴れて夫婦となり花で飾られた二人の部屋に、薬草のつんとした香りが漂いはじめる。
「これで楽になるはずだから、匂いはちょっとアレだけど我慢してほしい」
セヴィリスは真剣な瞳で彼女の手当てをしている。リリシアは彼にされるがままになりながら、頭のなかでは疑問がぐるぐると回っていた。
(こ、こんなの、申し訳なさすぎるわ、初夜だというのに旦那さまにこんなことを……)
そう思うといてもたってもいられなくなり思わず彼の手を解く。セヴィリスが驚いて顔をあげた。
「ご、ごめん、痛かったかな」
リリシアは深く頭を下げた。自分は初夜になんという失態を犯してしまったのか。
「も、申し訳ありません!このようなこと、お手を煩わせてしまって! あの、肩は本当に大丈夫ですから、その……」
早く花嫁の義務を果たさなければならない。でなければ失望され、この家で居場所をなくしてしまうかもしれない。リリシアは自分で寝衣の胸のリボンを解き始めた。
「は、はやく、はじめましょうっ」
けれども震える指は上手く動いてくれない。
(ち、ちゃんと、脱がなくちゃ……)
「だ、だめだよ。そんなことしたら……」
きゅ、と彼の手がリリシアの指を握った。
「え?」
セヴィリスは美しい顔に焦りを浮かべてリリシアの動きを止めた。
ど、どういうこと?そんなことって?
「ちゃんと薬で『魔印』を抑えないとどんどん君は蝕まれてしまうんだから。とにかく、今夜は静かにゆっくり休んで」
「……え?」
まいん? むしばまれる? ゆっくり休め?
訳のわからない単語が夫の口からぽんぽん出てくる。
「あの、初夜……、あの、はだかで、あの、わたしの、旦那さまの……」
リリシアは自分の胸元を見下ろし譫言のように口走る。セヴィリスは彼女の唇を慌てて手で覆う。頬が真っ赤だ。
「だから、僕は君とその、そういうことをするつもりはないんだ」
ぽかんとしている新妻に、夫となった青年はひどく真面目な顔で言い放った。
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「ほんとうは式の日取りをもっともっと早くしたかったんだ。そうすればいろいろ準備できたからね。やはり満月の婚礼はよくなかった」
寝台のクッションを背もたれにしてリリシアを楽な姿勢に休ませると、セヴィリスはその側へ椅子を持ってきて腰掛けた。長い脚をそろえて、膝の上にぎごちなく両手の拳をのせている。
セヴィリスがリリシアと初夜を迎えるつもりはないと言い切ったとき、ちょうど彼の従者であるラハルトがお茶を持って入ってきたのだ。
そうして今リリシアはティーカップを手に、改めて夫の話を聞いているのだ。
もちろん彼女は新郎の話を半分も飲み込めていない。ぽかんとしたままだ。
(し、初夜、は?なし? そういうことをするつもりはない……?)
この気持ちがそのまま、リリシアの寝不足気味の顔に表れている。
セヴィリスはそんなリリシアの視線に一瞬きまり悪げに目を逸らす。そして、こほんと咳払いをした。
「ええと、肩はどう? 痛んだり変な感触はまだある?」
「い、いえ、だいぶ良くなりました」
「めまいや頭痛は?」
彼女は素直に首を横に振る。
「もう大丈夫です。ほんとうにありがとうございました。お世話をおかけしてしまって……こんな日に」
「貴女が謝ることじゃないよ。その症状は私の責任なんだから」
目の前の美青年は濃いまつ毛を伏せた。
「あ、の……。どういうことなのでしょうか……」
彼女は小さな声で、おそるおそる尋ねた。こういう場合、リリシアはとても過敏になる。尋ねたいことがあっても、相手はたいてい自分の都合で話を打ち切ったり、馬鹿にしたような視線を送ってくるからだ。少なくともベルリーニ家では彼女の疑問や意見をまともに取り合ってくれる人間はいなかった。
だからつい、こわごわと相手の様子を窺ってしまうのだ。
セヴィリスは慌てて彼女を宥める。
「ごめん。これでは説明不足だね。まず、どこから話したらいいだろうか」
彼はしばらく考えてから、リリシアの肩に視線を寄せた。
「貴女の肩なんだけれど、もう一度よく見てほしい」
彼の眼差しは真剣だ。リリシアは素直に従ってランタンの光の下で絹布を外し露になった自分の左肩を見てみる。すると、いつのまにかそこには奇妙なアザができていた。肩口に爪で引っ掻いたような歪な円が描かれているのだ。
一粒のブドウくらいの大きさの、ただの歪んだ円。なのにそれは見ているだけで気分が悪くなるような禍々しさを纏っている。
リリシアは眉を顰めて呟く。
「こ、れは……?こんなの、今までなかったのに」
「いや、この印は少し前につけられたはずだ。……身に覚えはないかな?……それに、最近良くない夢を見たりしないかい?」
「え?」
彼女は口を覆って、セヴィリスを見る。
「夢……って」
(なぜ、そのことを……)