7話 妖精あたまとの婚礼へ
リリシアは意味がわからず少しだけ眉根を寄せた。反対に彼女たちはさらに瞳を輝かせる。
「頭がね、妖精さんみたいにふわふわしてるってこと」
「頭がおかしいってことよ」
「まぁ、そんなはっきりと言ったら失礼よルーシー」
「ふふ。でもね、皆さんがそうおっしゃるんだから、嘘じゃないわ。夜会にはたまに参加されるけれど、誰とも踊らないし、喋らない。庭園や周りの土地をこそこそと歩いてばかりで、時には土と泥でお洋服を汚してらっしゃるのよ。たまにぶつぶつと独り言までおっしゃるらしいわ」
セーラは肩をすくめ、ひそひそ声になる。とても嬉しそうだ。
「もうあれは不気味よね。何かに取り憑かれてるんじゃないかしらって、もっぱらの噂よ。はじめは皆さまもそのお美しさに憧れたのだけど、だんだんと寄りつかなくなって……お顔が綺麗なだけに余計こわいの」
「それにね、デインハルト家は昔からある由緒正しいお家だけど、すごく謎めいてるの。森の中に引っ込んで暮らしている一族なのよ。その中には、気が触れる方も多いんですって。今ではね、あの方のことは誰も話さないわ。だって関わりあったら怖いもの。陛下の覚えはいいらしいけど、きっとそんなの嘘だわ」
ルーシーの声はひそひそ話からだんだんと大きくなる。
「グリンデルは広いけど森ばっかりの野蛮な土地と聞いたわ。お父様が詳しく話したがらなかったのもわかるでしょ」
二人は勝ち誇ったように手を握り合った。
「あんたはそんなとこにお嫁にいくのよ。稀代の変人のところへね! 愉快でしかたないわ」
「リリシア。ベルリーニ家のはみ出し者のご令嬢。あなたにお似合いね。せいぜいお幸せに」
二人は腕を組み、高らかな笑い声をあげ去っていった。後に残されたリリシアは、再び肩の疼きを感じながら彼女たちの後ろ姿を呆然と見つめるしかできなかった。
こうして早春の三月、伯爵令嬢リリシア・ベルリーニはグリンデル領主、セヴィリス・デインハルトへと嫁ぐことになった。
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婚礼はデインハルト一族の習慣に則り、千年もの歴史を持つという真っ白な造りの聖堂で行われた。デインハルト家は国王の一族と同じくらい古い歴史を持っているが、王都での華々しい生活を好む貴族階級とは違い、どちらかというと地方に身を置きながら王国を支える武骨な一族でもあった。ルーシーが言った、謎に包まれているというのは本当で、厳粛で地味という以外、王都の貴族たちはデインハルト家のことをそんなに詳しくは知らない。今回の婚礼式も華々しいというよりは少人数で慎ましく厳かに行われたのである。
だが、地味な式にもかかわらず、聖堂には王家からの贈り物が飾られていた。王家の紋章を精巧に彫刻した見事な銀の盾は、それだけで白い聖堂の中に威光を放っていて、招待されたベルリーニ伯爵は度肝を抜かれたようだった。普通、よほど名のある諸侯でない限り、国王の紋章など賜ることはないからである。
とはいえリリシアはそれどころではなかった。
何もかも初めてであり、ベルリーニ家を出発する馬車に乗っている時から緊張していたので式が華やかだろうが慎ましがろうが、とにかく粗相のないようにするのに必死だった。
それに、一番の問題は彼女の不眠が続いていたことだ。きちんと寝ようなどと決めてはみたものの、薬草茶や快眠に効く運動など自分なりに調べても全く効果はない。醜い獣人の接近は一日一日と近く、長くなってきていた。
(このままでは、あれに触れられてしまう)
リリシアは今朝も恐怖で寝汗をびっしょりかいて飛び起きた。肩が疼く。眠るのが怖い。
リリシアは寝台の上で膝を抱え顔を埋めた。どうしようもない孤独と不安が襲う。
家族に冷たくされてきたとはいえ、この部屋は彼女だけの安らげる空間だった。だがもう見知らぬ館で、見知らぬ人物ー変人かもしれないーにつくす生活が始まるのだ。
おそらくこれは、嫁ぐことが決まった女人なら誰もが経験する憂いなのだろうが、彼女にそれを教える人はいない。「大丈夫、なにもかもうまくいくわ」とリリシアを励ます言葉はこの家のどこからも聞こえてこなかった。
その代わり。
リリシアはいつものように胸のペンダントを握りしめた。とてもあたたかい。彼女は朝の日差しに金の石を掲げてみた。蜂蜜色に輝く石は、父と母の面影を運んでくれる。大丈夫よ、と言ってくれている気がした。
(そうね。がんばるわ)
誰もいない部屋で彼女は一人、頷いた。
扉が開く。
「さあ、長い一日の始まりですよ。リリシア様」
***
そこからは怒涛の時間で、馬車に乗り込んでからのリリシアはほとんどなにが起きているかわからないまま聖堂についてしまう。終始分厚いヴェールをかぶっていたので周りの状況がよくわからなかったのもあって、婚礼式はあっという間にはじまりそして終わってしまった。
かろうじてリリシアが顔を上げられたのは聖堂での誓いの儀式だった。花嫁の純潔の象徴である真っ白な布を外されるときに、リリシアは新郎の指がかすかに震えているのを見た。
それは、彼女にとってなんだかとてつもなく神聖なことに思えた。
(私は、本当にいまから、この方の妻になるのね)
ぎゅっと胸が熱くなる。叶うならば、父と母のように仲良くなりたい。リリシアは聖堂に飾られている女神像へ心を込めて祈った。
(どうかこの方をお支えできるよう、お力をお貸しくださいませ)
ベルリーニ伯爵夫妻は式が終わると宴の誘いも断りそそくさと馬車に乗り込み家路についてしまった。
「我らは森の道に慣れておりませんのでな。お誘いはありがたいがこのまま帰らせていただく」
一族のお荷物であるリリシアと別れを告げた彼らの晴れやかな態度といったら! 寂しさの一欠片も見せないその姿はかえって清々しいくらいだった。
こうして本当に一人になったリリシアは、新郎と一緒に聖堂から屋敷へと数刻かけて向かうことになった。
四頭立ての清楚な白い馬車に乗り込んだ新郎新婦は聖堂のある街を抜け、豊かな田園地帯を走っていく。今日は一日中白いヴェールを被っていたリリシアはようやく、グリンデル領へ向かう馬車のなかで夫となった青年とまともに向き合うことができたのだ。
セヴィリス・デインハルトはセーラたちの言う通り、美しい青年だった。首すじに添うくらいの少し長めの金髪は蜂蜜のように艶があり、緑の瞳をより引き立てている。目鼻立ちは完璧に整っていて、目元にあるぽつんとしたほくろが妖艶さを漂わせる。長いまつ毛に縁取られた瞳は謎めいていて心の底まで見透かされそうだ。吸い込まれそうな彼の瞳にドギマギしながら、リリシアは頭を下げた。
「リ、リリシアです。よろしくお願いします……」
緊張で頬が引き攣る。それでもリリシアは微笑もうとした。
「セヴィリス・デインハルトだ。よろしくね」
彼は穏やかな声で返してくれた。そして、にっこりと笑ったかと思うとすぐに馬車の外へ顔を向けてしまったのだ。小窓に肘をついて頬に手を当ててしまって表情がよく見えない。でも、形の良い耳が赤く染まっている。もしかして、照れているのだろうか。リリシアは自分までなぜか恥ずかしくなってしまい下を向いて俯きかけた。
だがそのとき、ふっと記憶が蘇る。
(この方のお声……聞き覚えがあるわ)
リリシアははっと顔を上げた。
(似ている……あの森で……、魔物から助けてくれた剣士様)
あのとき、見知らぬ剣士は覆面をしていて顔が見えなかった。だが、瞳の色とそしてこの声は紛れもない。
「……っあ、のっ」
リリシアは思わず身を乗り出した。
(で、でも……っ雰囲気がぜんぜん違う、かも)
窓の外を見つめ続けているセヴィリスの横顔は穏やかで麗しく、まるで神話の住人のようだ。
リリシアは雷鳴と風の唸り声の中に立つ剣士の姿を思い浮かべた。激しく燃える闘気を纏い、魔物に一歩も怯まず向かっていった雄々しい姿は目の前の端麗な青年と同じとは思えない。
(やっぱり、人違いかもしれない)
「なにか?」
セヴィリスがこちらを振り向いた。長いまつ毛が憂い気に上下する。リリシアは小さく首を横に振った。
「い、いえ……」
(ど、どっち……? わからないわ)
リリシアがぐるぐると考えてしまっているうちに、馬車の外で緑はますます濃くなり山が近くなってきた。
「もうすぐ着くよ。私は街と森に二つ屋敷を持っているんだけど、貴女には森の方に住んでもらおうと思っている。少し不便だけれど、ごめんね」
「と、とんでもない、ことです」
彼は美しい印象に似合う優しげな話し方をした。
(や、やっぱり、違う方よね?)
リリシアは曖昧に頷く。思わず彼をじっと見つめていたらしい。
「どうしたの? もしかして、長い道行に気分が悪くなってしまったかな」
彼は心配そうにリリシアの顔を覗き込む。緑の瞳に見つめられ、リリシアは再び吸い込まれそうになってしまう。
「顔色があまり良くないようだ、やはり……」
彼が呟き、何かを言いかける前にリリシアは慌ててかぶっていた白い帽子のつばを深くおろした。
「いえ、すこし、緊張してしまって。申し訳ありません。なんともありませんわ。そ、それより、とても美しい景色ですね」
彼女は顔を逸らし馬車窓の外を見る。
(やっぱり、顔に出てしまっていたのね。おしろいでは隠しきれなかったみたい)
侍女が彼女の隈を隠すためにいろいろ塗ってくれたのだが、あまり効果がなかったようだ。ヴェールをとり、帽子に変えたとしても、館に着けば彼女の不健康な様子は皆に知られてしまう。
(でも、娶った妻が魔獣の夢をみるなんてこと、不吉すぎる。そんなこと打ち明けられないわ。追い出されてしまう……)
「そうだね……この森は美しい」
セヴィリスは何かを考えるようにリリシアをしばらく見ていたが、それ以上はなにも言わなかった。