6話 突然の求婚②
リリシアはあれに触れられるギリギリのところで目を覚ます。冷や汗をどっさりとかいて。心臓はどきどきと変な動きをしていて、夢のことを思うと吐き気がおそう。一生懸命深く息を吸って、あの魔獣の息遣いを身体から追い出そうとするのだ。
そうしてまだ夜明け前に起きだし、衣を替えて気を晴らすために外へ出る。咲き始める花を見つめていれば、少しずつ気分がおさまってくる。そんな生活がもう半月も続いていた。夜、ほとんど眠れていないため、日中もぼうっとしてしまうことが多い。いま、彼女の暮らしはあの魔獣の夢に支配されているようなものなのだ。
あの日のことは屋敷では話していない。御者にも黙っていてほしいと伝えてある。伯爵や夫人にあの騒動を知られたらこの先修道院の訪問まで禁じられてしまうかもしれないと思ったからだ。それに、ルーシーたち姉妹はリリシアの楽しみを奪うこと自体を楽しんでいた。
「あの、お相手は、その、どんな方なのでしょうか?」
リリシアは伯爵の鋭い目を避けて話を逸らす。口籠もりながら尋ねた。養父の威圧的な態度はいつも、リリシアを幼い少女の頃に戻してしまう。あの頃から威厳のある髭も冷たい態度も怖くて怖くてたまらなかったのだ。
「そんなことを知ってどうする」
「それは、夫になる方のことですから……」
彼はリリシアの言葉を苛立たしげに遮り、そして言い含めるようにゆっくりと続ける。
「いいか、リリシア。相手がどんな素性だろうとお前に選択権などないのだよ。十年前、養女としてお前を引き取った恩を忘れたわけではあるまい?」
「も、もちろん、とても感謝しております」
彼女は慎ましく目を伏せた。伯爵家は本意ではないにせよ、まだ財産の管理もできない幼く寄るべのない自分を引き取りこの歳まで邸においてくれた。そうでなければリリシアは身を売って生活することになっていただろう。
あの時リリシアを引き取ろうと申し出ていたのは、身寄りのない女の子ばかりを育て、売春婦として働かせると悪名高い商人だったからだ。
とはいえ伯爵としては、「ベルリーニ卿は駆け落ちした令嬢の幼い血縁を見捨てた、血も涙もない人物」という噂を立てられたくない、という保身の一心でリリシアを引き取ったにすぎないのだが。
「ならばあれこれ詮索するのはやめて、婚姻生活がうまくいくよう考えなさい。そんな顔色で嫁いで、不健康な女はいらぬとでも言われたら大変だからね。それと、式はひと月後。あちらの領地にある聖堂で行うそうだ」
「ひ、ひと月……?」
伯爵は尊大に頷いた。 リリシアには一応両親が残した財産がわずかばかりだがある。伯爵はそれを持参金に充てるつもりだった。ベルリーニの支出は極力少なく、早々に厄介者払いができる。彼は妻が毎日のようにリリシアとその父親について恨み言をいうのに辟易していた。
「さて」
養父はリリシアを冷たい目で見る。その目はこれ以上の質問は許さないとはっきり言っている。
「なにか問題でも? こちらが準備するのはお前の身体だけだ」
「あの、お、お話を受けていただいたのは本当にありがとうございます。でも、あの、せめて旦那様となる方のお名前を教えていただけませんか?」
リリシアはもう一度縋るように尋ねた。
伯爵はしかたない、といったふうに大きく息を吐くと
「セヴィリス・デインハルト卿だ」
と早口で答えた。
「デインハルト伯爵家の二番目のご子息で、先日グリンデル地方の領主となった」
グリンデル地方はこの国でも有数の山林地帯だ。山の向こうは未開の地と言われている。
「セヴィリス・デインハルト、さま……」
彼女は夫となる人の名前をそっと口に出してみた。伯爵はそれ以上なにも答えず、リリシアを追い立てるように辞去させた。
**
(本当に、わたしが結婚を……?)
自室へと戻る廊下をゆっくりと歩く。突然身の上に起こった出来事にリリシアは半ば放心状態だった。
(デインハルト卿……セヴィリスさま)
リリシアはもう一度心の中で未来の夫の名を呼んでみた。全く心当たりのない名前だ。デインハルト伯爵家というのも彼女の記憶にはない。
(どんな方か、わからないけれど、でも……)
今まで数えるほどしか出席できなかった夜会や滅多にない式典などで自分を見かけたのだろうか。リリシアが養女であることは高位の貴族なら少し調べればすぐにわかるはずだ。それでも、望んでくれたのだろうか。リリシアは嬉しいような、騙されているような、不思議な気持ちになる。ただ彼女はしっかり心に決めた。
(ちゃんと寝なくちゃだめだわ。こんなふうに毎日怖い夢ばかり見ている妻など、きちんと役割を果たせないもの)
リリシアが密かに心の中で頷いていると、目の前に二つの影が落ちた。
「あーら。やっぱり。この子ったら喜んでるわ。お姉様」
「それは当然よ。だって、私たちの中で一番早く結婚が決まったんですもの、ねえ?リリシア。嬉しいわよねえ?殿方に見初められて、私たちより価値があるってことですもの」
廊下の中央で姉妹が目を細めてリリシアを見ていた。
「え?そ、そんなつもりでは」
「いいのいいの! 気にしないで。私たちも喜んでいるの。ほんとよ」
「そうそう、あなたが幸せになってくれると嬉しいわ」
「お二人とも……ありがとうございます!」
リリシアは嬉しくなって思わず顔を綻ばせた。まさか、この二人にそんな言葉をかけてもらえるとは思わなかったのだ。リリシアの素直な反応に姉妹は顔を見合わせいつものようにくすくす笑い出した。
「でもね、リリシア。すこしだけ、私たち心配してるのよ。……お父様、お相手のこと何にも知らせてくれなかったんじゃない?」
リリシアは頷いた。
「は、い。そうなんです。お名前だけは教えてくださいましたけれど」
「デインハルト伯爵家でしょ。うちよりも少し上かしら?なにしろ広大な領地をお持ちなのよ。館もたくさんあるって聞いてるわ。よかったわねえ」
彼女たちはにやにやとしている。なんだか含みのある言い方に、リリシアは首を傾げた。
「あの、もしかしてお二人はデインハルト卿のこと、ご存じなのですか?」
「ええ、もちろんよ。有名ですもの」
「有名……そうなのですね。わ、私あまり他所の方のことは知らなくて……よろしければ教えていただけませんか?」
リリシアは勢い込んで尋ねた。
「もちろんよ。セヴィリス様はデインハルト家の次男でいらっしゃるわ。二十四歳だったかしら。すっごくお綺麗な顔をされているの。目鼻立ちが整って、まるで絵画のようよ」
「そうそう、とても綺麗な瞳だったわ。初めて見たときびっくりしたもの。太陽のような金髪に、背もすらりと高くて……初めて夜会にご出席された日には、それはもう注目の的だったのよ」
二人はうっとりとデインハルト卿の容姿を伝えてくれる。かなりの美青年のようだ。ただ、リリシアが知りたいのは容姿よりもその性格だった。これからずっと将来を共にするのだから。
「あの、お話しされた感じとか……」
そこで二人は顔を見合わせた。
「お話しはしたことないわ。あの方はダンスも踊ったことないわ。……あのね、セヴィリス様にはあだ名があるのよ」
「あだ名ですか?」
そうそう、と二人は大きく頷き声を合わせた。
「『妖精あたま』よ」
(よ、妖精……あたま?)