5話 突然の求婚
はじめ、それは小さな黒い点でしかなかった。
リリシアの夢の中に現れた、黒い滲み。
真っ白な空間でリリシアはただ漂っていた。穏やかな波に揺られるようにゆっくりと体が揺蕩う。心地の良い眠りにリリシアが浸っていると、そこへ黒い染みが現れたのだ。
それはだんだんと大きくなり、こちらに近づいてきた。夢の中なのに、リリシアは自分が寝ていることに気づいて目を開けた。ぼうっとした感覚のまま、その黒いモノを見つめる。
やがて、それの姿がはっきりしてくると、リリシアは
「ひっ……」と息を呑んだ。
毛むくじゃらの身体に狼の顔を持つ獣。長い腕は人間のようなのに、黒い毛に覆われている。ぎらぎらした赤い眼は、三日月のように弧を描いてこちらを見据えている。
あいつだ。
森で出会った、この世のものとは思えない醜悪な姿。
それはリリシアの身体を上から下までいやらしい目つきで眺め、一歩、また一歩と近寄ってくる。
(や、やだ……)
怖い。 リリシアは身をよじって夢から抜け出そうともがいた。でも、どれだけもがいても目は覚めない。真っ白な空間にひとり、彼女は放り込まれてしまった。
その間にも、魔獣はリリシアのそばに近づいている。まるで人間のような確かな足取りで。
「い、や……」
息が届きそうな距離まで鼻面を頬に寄せられてしまった。獣の長い手が伸びる……。
「……っ」
リリシアは小さな悲鳴をあげて飛び起きた。肩で息をしながらあたりを確かめる。
(私の、部屋だわ……)
外はまだ深夜。重たい闇があたりを支配している。リリシアは目に涙を浮かべ自分の肩を抱きしめた。全身が冷や汗でじっとりと湿っている。
(な、ぜ。こんな夢を……)
リリシアは寒さと恐怖に身震いした。それでも、夢で良かったと深く息を吐く。
きっと、あの森の出来事があまりにも衝撃的だから、こんな夢を見るのだ。
(シノたちは大丈夫かしら。私みたいに怖い夢を見ていなければいいけれど……)
あの後、修道院には森での出来事を伝えた。だが、魔物に遭遇したということはなかなか信じてもらえなかった。
「雷と風が酷かったでしょう。狼を見間違えたのでは? ともかく、無事でよかった。ほんとうに本当にありがとうございます!」
院長は心から心配し、シノたちの無事を喜んでくれたが、剣士たちについても狩人と間違えたのでは?と半信半疑のようだった。そのような黒衣の覆面剣士など聞いたことがないと首を横に振るばかりだった。だがそれも、無理もないことだ。
この森にそのような魔物の噂はこれまでなかったし、この国に魔物が巣食っているなどという話はおとぎ話でしか聞いたことがない。
リリシアも御者も無事逃げられた今では、あれが悪い夢のように思えてならなかった。少年たちだけは、「あれは本物の剣士で、本物の魔獣だよ!」とずっと興奮していたが。
(でも、あんなにはっきりとした姿を夢に見るなんて、やっぱり狼を見間違えたわけじゃないんだわ……じゃあ、本当に、あんなに恐ろしい魔物がこの世にいるということ……なの?)
リリシアは汗で湿った夜着を脱ごうと肩に手をかけた。
「痛……っ」
肩がヒリヒリとする。あれの爪が掠ったところだ。傷になり化膿でもしたのだろうか。だが、彼女の白い肩にはなんの痕跡もない。リリシアはため息をついて外を見た。
(今日はもう眠れなさそうだわ)
リリシア寝台から起き上がり、窓へ近づいた。満月へと向かう半月が鈍く空で光っていた。
だが、彼女の悪夢はその日から毎日続くことになるのだ。
**
「求婚……?私に?」
リリシアは目を丸くした。
「ああ。お前にだ、リリシア」
ベルリーニ伯爵は前のめりで頷いた。髭が興奮のせいでプルプルと震えている。リリシアが修道院へ行った日からひと月ほど経ったある日のこと。外はぐんぐんと春めいてきて、伯爵家の豪華な庭園も手入れに余念がない。リリシアは朝から一人、庭で花の蕾を見ていたところを呼び出された。はじめ、養父は険しい顔でリリシアに尋ねた。
「お前は最近しょっちゅう朝早くから庭に出ているそうだな……なにをしているんだ」
「ご、ごめんなさい。最近あまり眠れなくて……庭のお花を見ていました……」
リリシアは小さな声で謝る。別に謝るようなことをしているつもりはない。でも、伯爵の咎めるような視線にさらされるとつい先に「ごめんなさい」が出てしまうのだ。
「ふん、最高級の花の品種を集めているんだ。やたらと触ったりするんじゃないぞ。……まぁそれはいい」
伯爵はリリシアの不眠などには全く興味がない様子で、興奮気味に婚姻の話を続ける。
「娘たちにくる求婚はいずれも我が一族には釣り合わなくてな。……だが、まさかお前にいい条件が来るとは思わなかった。いずれ修道院にでも働き口を見つけてやらねばと妻と話していたところだったからな。家格は申し分ない。非常に好都合だったよ。驚くべきことに、持参金もほとんど必要ないとのことだ」
威厳たっぷりの髭を生やした伯爵の口からはあけすけな言葉が次々と出てくる。世間では人当たりもよく徳高いと評判だ。なにせ、一族とは縁を切った駆け落ち令嬢の娘を引き取ってやった心の広い人物なのだから。
だが彼はリリシアに対して冷淡だった。
「あちらの申し出で、すぐにでも婚礼式を挙げたいそうだ。ともかく、断る理由はひとつもない」
「あ、の……」
リリシアはあまりに突然のことで言葉が出ない。
(いったい、どこのどなたが……)
彼女はお茶会や夜の宴に招待されても、先日のように途中で退席することが多い。誰とも親しく話せたことなどなかった。皆、ベルリーニ家の厄介者を敬遠しているのに。そんな自分に婚姻を申し込む者がいるなどリリシア自身も驚きだった。
「なんだ? まさかお前なにか病気でも持っているのではないだろうね?」
伯爵は苛々とリリシアを見た。
「いえ、そんなことは……」
「そういえば、顔色が良くない気もするが」
リリシアは慌てて首を横に振る。
本当は、毎晩悪夢にうなされているのだ。
あの魔獣は毎夜リリシアのところへやってきた。白い空間で、黒いシミから醜い獣に姿を変え、動けない彼女のそばへ寄ってくる。そうして彼女を視線で犯すかのように睨め回すのだ。