3話 魔物の爪痕と剣士の大剣①
ひとりの少年が茂みから飛び出してきた。頭に枝や葉をひっつけている。
「シノ!」
「り、リリシアお嬢さま!」
泥に塗れた顔で少年はこちらに駆けてくる。その後ろにもう一人くっついていた。二人の顔には恐怖がこびりついていた。
「あ、あの子たちです!よかった、二人とも」
リリシアは両手を広げて二人を迎えた。だが、彼らはものすごい形相で首を横に振る。
「は、はやく逃げないと! あいつがくる……っはやく……っ」
「あいつ……?」
「狼なんだろう! お前たち、早く馬車に乗りなさい!」
御者は慌てて馬の繋ぎ紐を解きにかかる。
「ち、ちがう……っ、化け物だ、怪物だよっ!」
「怪物?」
「そうだよ!あんなけむくじゃらの……見たことない……」
少年たちはガクガクと震えている。まともに喋ることが出来なさそうだ。
(雷のせいで、何か恐ろしいものを見たのかしら)
リリシアは彼らの手を取る。
「大丈夫、大丈夫よ、さあ、乗って。帰りましょう」
二人を馬車へとつれて行こうとしたとき、一陣の風が彼女の前を通り過ぎた、風にのって嫌な臭いが流れてくる。鼻をかすめる獣くさい匂いと、鉄の匂い。地を這うような低い声はどんどんと大きくなって、やがて狂気じみた咆哮へと変わる。恐怖が、リリシアを一瞬で捉えた。
(なに、この唸り声。こんなの……聞いたことがないわ)
「うわぁぁ、き、きたっ! お、追いかけてきたっ」
少年たちは木の間を凝視して腰を抜かし、ぺたりとお尻をついてしまう。
やがて、ゴロゴロと鳴る雷とともに「あいつ」が姿を見せた。
真っ黒い炎のような塊がこちらに向かってくる。人とも獣とも違う異形の魔物。真っ黒な炎にみえたのは、その獣が纏う体毛だった。尖った耳に狼のような鼻面。二本の脚と長い腕を持つ大の男よりはるかに大きな魔物が、リリシア達の方へずんずんと地面を踏みしめてやってくる。その不気味な怪物の背後には狼が数匹、従うようについてきていた。リリシアの頭の中で警鐘が鳴り響く。
「ひ… 」
息がうまく吸えなくて、肩がやたらと小刻みに震える。
御者はよたよたとあとずさり、逃げるのに必死だ。
「あんたがた、早く、早くこっちへ!」
「う、動けないよおっ、」
リリシアは少年たちを必死で起こそうとしているのだが彼らは恐怖で混乱していて体が動かない。魔物は黒い煙を纏い、どんどん近づいてきた。長い毛むくじゃらの腕の先には、ぎらぎらと鋭い爪が光っている。あれを頭から振り下ろされれば服など通り越して肌を裂かれてしまうだろう。
このままではみんな死んでしまう。
リリシアの視界は恐怖でくにゃりと歪み始めた。足がガクガクと震える。
(しっかりして……!立つのよ)
彼女は胸のペンダントを固く握りしめた。そして、ぎゅっとくちびるを引き結びすっくと立ち上がった。少年たちの壁となって両手を広げる。
「今のうちに逃げなさい! 二人とも!はやく!」
リリシアは大きな声で叫び、魔物を睨みつけた。
(怖い……怖くて倒れそう。でも)
この子たちを逃さなければ。その一心で両足を踏ん張る。魔物がにやりと笑ったように見えた。そして、長い腕がゆっくりと伸びてくる。その瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
「……っ」
「リリシアさまっ」
魔物の長い爪が彼女の肩をかすめたのだ。気づくと目の前に恐ろしい獣の顔がある。それは真っ赤に濁った瞳でリリシアの肩を、首筋を、胸元を、舐めるように確かめて行った。まるで人間のようなその仕草にリリシアはぞっと肌が粟立つのを感じた。
(なにこの生きもの……気持ち、悪い……)
それでも彼女は獣から目を逸さなかった。魔物の眼が半月形に歪む。睨みつけられても、嬉しそうに笑っているのだ。
もう一歩、異形が近づく。
その刹那、魔物がぴくりと動きを止めた。一瞬それは怯んだように見えた。すると、リリシアの目の前で雷のような閃光が走った。とたんに魔物はぐらりと体勢を崩しリリシアの視界から消えた。
(な、なに……)
瞬きするまもないほどの短い間。
見ると彼女の足元で魔物は背中から血を流しどさりと頽れている。彼女の前には黒い外衣を羽織った人物が立っていた。手にした大きな大剣からは、黒い血がぼとぼとと滴り落ちている。鼻から下を黒布で仮面のように覆っており、顔はほとんどわからない。
「ラギド、お前の相手は私だろう?」
剣士は低く鋭い声を魔物に投げつけた。人の体を持った獣はよろよろと立ち上がり、ぐるりと振り向いた。そして忌々しげなうめき声をあげる。
黒い外衣の男はさらに大剣を振り上げ、刃先を煌めかせて魔物へと突進してゆく。
(け、剣士さま……? 一体どこから)
リリシアたちの前で、魔物と剣士は激しくぶつかり合った。彼女はその間に急いで少年たちを起こし、馬車の方へと連れてゆく。
「だ、だれ? あれ」
「剣士だ!すごい…!」
「いいから、早く馬車へ!」
「かっこいい……」
突然現れた雄々しい剣士に二人は興奮してしまい、彼から眼が離せない。リリシアはとにかく二人を無事に逃すことに集中していた。とうとう馬車まで着いたとき、二人が叫び出した。
「あっ、後ろに狼がたくさん来た!」
「やられちゃうよ、あの剣士様!」
リリシアははっと振り向く。魔物とやり合う男の周りを大きな狼たちがじりじりと近づいていた。これでは、明らかに剣士の方が不利だ。
(ど、どうしよう…!このままじゃ、あの方まで…!)
リリシアは必死に頭を巡らせた。そして、馬車にかけてあるランタンを掴む。太い蝋燭が赤々と燃えている。
彼女はランタンの覆いを外しながら、魔物と狼の元へ走っていった。
「……っ、なにしているんだ!早く逃げろ!」
男は驚いてリリシアに叫んだ。
「でも、狼が……っ」
「こちらに来るな!」
ランタンを振りまわし、炎で狼を追い払おうとするリリシアに剣士の怒声が響く。
「だ、だって!ほ、放っておけませんわ」
「は?貴女は何を言ってるんだ。これは我らの責務だ」
獣たちはリリシアの掲げる炎に怯えはじめた。
「責務? そちらこそ、なにをおっしゃっているかわかりませんわ……早く、はやく皆で逃げましょう!」
強い風に逆らうように、リリシアは叫び返す。その剣幕に剣士は目を見開いた。魔物は耳障りな咆哮を空に轟かせている。
「私は逃げない」
剣士は小さく呟くときっと顔を上げ、体勢を立て直した。そして再び異形へ剣を突き立てるため、向かっていった。