修道院の惨状
馬車の小窓から見える風景が逆戻りしていく。馬車は順調に進んでいた。グリンデルの緑深い山々や草地が遠くなる。青い空の下、街や集落が現れてはまた流れる。やがて、真っ白な建物が見えてきた。思わず身を乗り出す。
「あ、あれは……」
「聖堂だよ。私たちはあそこで婚礼式を挙げたんだ」
厳かな佇まいは瞬く間に通り過ぎていく。
リリシアは馬車の心地よい揺れを感じながら、流れる景色を不思議な気持ちで見ていた。
三ヶ月前はこの景色を楽しむ余裕などほとんどなかった。不安と緊張と、そして戸惑いでいっぱいだったから。
毎夜ひどい悪夢に悩まされていたことも、今は遠いできごとみたいに感じられる。
今、リリシアの前には麗しい青年がいる。長い足を窮屈そうに組んで、穏やかに窓の外を見つめていた。『夫』はあれからずっと、そばにいてくれる。
だが、リリシアが思い描いていた新婚生活とは全く違った。この三月は、聖騎士の砦ともいえる館で、魔印を和らげる日々だった。
それでも。
リリシアは青い空を見上げた。
(それでも私、とても幸せだわ)
たとえ、彼が責務で自分を大切にしてくれているのだとしても。これは幸せに違いないのだ。
のけ者だった自分がこんなに大切にしてもらえるのだから。
このところ何度もそう思う。むしろ、必要以上にそう思うようになっている。
(まるで、自分に言い聞かせてるみたい……)
リリシアはふとそれに気づき、小さく苦笑した。
ばかね。私。
夫がこちらを向いた。どうかした?気分が悪くなったかな? 瞳でそう尋ねているのがよくわかる。
リリシアは柔らかく首を横に振った。
(そうよ。セヴィリス様がそばにいてくださることだけで、幸せ)
途中、街道沿いの宿屋に泊まり七日ほどかけて、彼らはようやくベルリーニ領へと入った。
やがてなだらかな丘が見えてくる。レイフィル村の外れにある見慣れた鉄の門が見えてきた。
「あれが、修道院ですわ!」
きっとまた、子供達はいち早く馬車の音に気づき、誰がきたのかと好奇心をあらわにしているだろう。
楽しみになってきて、リリシアは声を弾ませた。
**
「これは……」
鉄門が開かれ、馬車が修道院の敷地へと入る。
待ちきれない様子で馬車から降りたリリシアは言葉を失った。
レイフィルの修道院には聖堂と寮、主に二つの施設がある。身寄りのない子供達を寮で育てているのだが、その建物が崩れてしまっていたのだ。
「な、に……どう、したの?なにがあったの」
もともと石と土造りの粗末な建物であったが、今は見る影もない。壁は壊れ中の椅子や小さな寝台が剥き出しになっている。
正面の聖堂には変化はなくて、暴風などによる自然災害でないことは明らかだ。何者かの手によって、故意に壊されている。不吉な予感で胸がざわざわする。リリシアは一歩、また一歩と近づいていった。
「あまり近くにいくと危ない。リリシア殿」
夫が彼女の肩に触れてそっと制した。
「でも……」
リリシアが振り返った時、数人の子供たちが聖堂から駆け出してくるのが見えた。
「お嬢様だ!お嬢様だ!!」
「リリシアさま!リリシアお姉ちゃん」
あっという間に二人は子どもたちに囲まれる。
「ああ! あなたたち!よかった。元気だった?」
リリシアは心からホッとした声になり、子供たちを見まわす。皆笑顔で元気そうだが、人数がだいぶ減っているように感じた。数人の女の子がセヴィリスのことをぽうっと見上げている。
「き、きれいなおかお……妖精のおうじさまみたい」
「リリシアさまも、とってもかわいい……前より、すっごくきれい」
「あんまり見たらしつれいなのよ!シノ兄さんが言ってた!」
好奇心いっぱいの顔はみなすこしも変わっていない。そこへ、少年が駆けてきた。
「リリシア様!」
シノだった。前に会った時よりも少し背が伸び、体つきも逞しくなった気がする。
「シノ!元気だった? あなたたちのことが気になって、会いにきたの」
リリシアは思わず手を伸ばし、少年を抱きしめた。ところがシノは慌てて飛びのく。
「い、いけません!そんなことなさったら」
彼は耳を真っ赤にして叫んだ。
「お嬢さまは、お、奥方様になったと聞きました。だから……」
もごもごと何かいうと、彼は改めて頭を下げた。
「リリシア様。あの時は本当にありがとうございました! ずっと、お礼を言いたくて……ほんとうに。ありがとう、ございました」
そして、隣に立つセヴィリスに向かっても深く頭を下げた。
「あの、ようこそいらっしゃいました。院長は足を痛めてしまって、お迎えに出られず、ぼ、ぼくが代わりにお迎えにあがりました。聖騎士様」
セヴィリスは優しく頷いた。
「ああ、ありがとう。シノ。久しぶりだね。私のこと、よく覚えていてくれた」
「も、もちろんです!デインハルト伯爵様。僕の、僕たちの命の恩人ですから!」
彼は誇らしげにその名を呼んだ。
(そうだわ、セヴィリス様はここを訪れたと仰っていた。二人はあれから会っていたのね)
森での出来事、ラギドのおぞましさが不意にリリシアを襲う。彼女は頭を振ってそれを追い出した。今はこの惨状の理由が知りたいのだ。
「シノ……あの、あなた達のおうちが……あれは」
リリシアは無惨な住まいの残骸に目を向けた。シノは
暗い目で俯く。
「この修道院は、近いうちに取り壊されるのです」
「な……んですって」
リリシアとセヴィリスは顔を見合わせた。
「シノ。院長殿にご挨拶させてもらっていいかな。案内を頼むよ」
セヴィリスは狼狽えているリリシアに気遣うように声をかけた。
「まずは院長殿に話を聞こう。なにか、事情があるに違いないよ」