夫の変化
庭園を離れ、見知らぬ小道に入る。
夫のセヴィリスは無言でリリシアの前を歩き続けた。
彼の歩き姿は凛々しく、後ろからだと脚の長さがさらによくわかる。
(そ、そうじゃなくて……っ。どうかなさったのかしら。セヴィリス様……)
リリシアは彼に見惚れそうになりながら後を追いかけた。いつも必ずリリシアに合わせて歩いてくれていたのに、こんなことははじめてだった。心なしか、夫の背中は強張っているようにもみえる。
「セヴィリスさま……?」
リリシアは思い切って声をかけた。だが、彼は聞こえていないかのようにずんずんと歩き続ける。
「だ……旦那さまっ」
肩がピクリと揺れて、立ち止まる。そしてセヴィリスは振り返った。リリシアのほうへ戻ってくる。宝石のような翠の瞳が苛立ちで揺れていた。彼の腕が伸び、手首をきゅ、と掴む。そして、リリシアの身体はぐいっと引き寄せられた。
「え?あ、の……っ」
(ち、近い……っ)
魔印の手当てをする時以外、セヴィリスがリリシアの体に触れることはない。彼の手はいつも冷たかった。きっちりと自らの手を聖水で清めてからリリシアの肩に触れるからだ。
今手首に触れている彼の指はひどく熱い。リリシアは思わず手を引っ込めそうになる。だが、彼はそれを許さなかった。代わりにさらに力を込めて引き寄せられる。
「せ、セヴィリスさま……、どうなさったのですか?」
「……貴女の魔印の世話をするのは私の役目だ」
聖騎士長は小さな声で呟いた。
「え、いま、なんと……?」
彼はもう片方の腕でリリシアの腰をぐっと掴む。
「貴女の魔印に触れていいのは私だけだ。だから、他人に容易く触れさせてはいけない。わかった?」
抱き寄せられながら、低い声で囁かれる。声には苛立ちと、怒りと、焦りが含まれていた。
(あ……、さっきの……ダリウス様のこと)
リリシアははっと顔を上げる。少し乱れた蜂蜜色の髪が額に垂れていて、どこか野生味を帯びていた。威圧的な表情にぎゅっと心臓が縮こまる気がした。
すこしだけ、ほんのすこしだけ、ベルリーニの養父や養母の影がよぎった。
「は、はい……も、申し訳、ございません」
リリシアは肩を小さく震わせ、俯いて謝った。夫のこのような視線には耐えられない。
「ご、めんなさい、私、ほんとうに……」
子供が謝る時のような妻の震え声に、セヴィリスの表情が瞬く間に変わる。彼は慌てて手を離した。
「ご、ごめん……っ。失礼した。怖がらせるつもりではなかったんだ、ただ」
セヴィリスは焦った表情になり、地面に膝をつくと俯いたリリシアの顔を見上げた。
「なんだか、貴女と叔父上のやり取りを見ていたら、とても冷静でいられなくなってしまった。申し訳ない」
「……いえ、私こそ、考えなしでございました」
リリシアは目を逸らし、小さな声で答える。
「リリシア殿、私を見て。お願いだ。今私はとても、嫌な言い方をしてしまったね」
彼の真剣な様子に、リリシアはゆっくりと夫の瞳を見つめた。
「こういうところがまだまだ子供だと叔父上に笑われてしまうのだろうね。貴女に嫌な思いをさせてしまった。どうか許してほしい」
セヴィリスは真摯に謝っている。リリシアは戸惑ってしまう。こんなに一生懸命謝られるなんて。
「ゆ、許すなんて。そんな、ほ、本当に、気になさらないで。お気遣い下さりありがとうございます……っ」
彼女は慌てて、セヴィリスの手を握る。そして、
「私が本当に考えなしでした。ごめんなさい」
と謝った。セヴィリスもリリシアの手を握り返す。緑の小道で二人は知らず、手を握り合っていた。小鳥が、ピピ、チチ、とのどかに歌う。カサカサと草が揺れた。
しばらく見つめ合った後、二人は慌てて目を逸らし手を離した。セヴィリスは頬を赤くし、「案内したいところがあるんだ。いいかな」と言って歩き出す。
「は、はいっ」
リリシアも耳が熱いのを意識しながら、彼の横に立った。二人は、ぎこちなく同じ歩幅で寄り添う。
「……ダリウス卿は私の叔父なんだ。兄である父とは八つほど離れている。本当は、父が聖騎士長の位を退く時、あの方が次の聖騎士長に推されていた」
やがて、彼はポツポツと語り出した。
「だが叔父上は後進の育成に努めたいということで私を陛下に推薦した。それで、こんな若造が聖騎士長になることになったんだよ」
セヴィリスは少し自嘲気味に微笑んだ。
(そんなお話をしてくださるの、初めてだわ)
リリシアは目を見開き、彼の言葉に耳を傾ける。
「そ、うだったのですね……。きっと、ダリウス様は、セヴィリス様がお役目をしっかりと果たされると確信されているのですわ」
「どうなんだろうね。今の立場の方が動きやすいからだと仰っていたし、あの方は型にとらわれない奔放な方だから」
夫は肩をすくめる。
「とても貴方様のことを大切に思っていらっしゃるようでした」
「そうかい?それならもっと認められるよう、頑張らなければいけないな。ただ、」
ただ?
セヴィリスはこほんと咳払いした。リリシアは首を傾げて、夫の言葉を待つ。
「叔父上のことは心の底から尊敬しているが、その、ちょっと、あの方は女性好きで……、独身なのをいいことにそういう噂が絶えない。さっきのは……なんだか心配になってしまったんだ」
彼はそっぽを向いてぼそぼそと言った。耳がふわりと朱に染まっている。
「わ、わわたしは、っそのようなこと、心配なさらなくて大丈夫ですわ…!」
(な、何言ってるのかしら、私って……)
彼の素直な言葉をどう受け取っていいのかわからなくて、リリシアは早口でそう答えると胸にぎゅっと手を当てた。
向こうを向いたままのセヴィリスが小さく、うん、と頷いたように見えた。
しばらく二人は無言で歩く。
すると、目の前に小ぶりの建物が見えてきた。屋根の部分にもガラス窓が並んだ、温室のような造りの小屋だった。陽を受けてきらきらと輝いている。
「さあ、ここが僕の隠れ家だよ」
セヴィリスが弾んだ声を出した。