10話 聖騎士とは
リリシアは目に見えて怯えた顔になった。一番の悩みの種をずばりと言い当てられたからだ。揺らぐ蝋燭の灯りで、セヴィリスの緑の眼はリリシアを捉えて離さない。帽子やヴェールや白粉で隠した隈だけではなく、自分の何もかもを見透かされている気になった。
(この方は、どうして……知っているの?)
リリシアは震える瞳で首を横に振った。毛むくじゃらの魔獣がいやらしい目で迫ってくるのです。などと誰がめでたい結婚式の夜に打ち明けられるだろうか。
「いえ、夢など……そのような……、ことは」
「大丈夫。隠さなくていい。なによりも、その印が雄弁に語ってくれる。あなたは毎晩のように悪夢を見ているんじゃないかな」
セヴィリスは穏やかな声でリリシアを気遣ってくれる。過敏になっている神経を安らかに包むように。
彼女は胸のあたりをぎゅっと掴み、ゆっくりと頷いた。
「ゆ、夢は、みています……、とても、嫌な夢……。でも、なぜ貴方様がそのことをご存じなのか、ぜんぜん、わかりません。この奇妙な印のことだって……自分でもわからなかったのに」
彼は少しだけ言いにくそうに切り出した。
「その印をつけられた時に、私もいたから。……貴女は気づいていないかもしれないが、私たちは初対面ではないんだ」
リリシアは思わず大きな声を出した。
「や、やっぱり…!……森でお会いしたのは、貴方様でしたのね?」
馬車で感じたことは間違いではなかったのだ。印のことはわからないが、リリシアははっきりと確信した。
彼は驚いたように目を瞬かせた。
「やっぱりって……、知っていたのかい?」
「ええ、だって、あのような体験、忘れたくとも忘れられるはずはありませんもの。でも、あの……貴方様かどうか自信はなくて……とても、その。勇猛な印象だったものですから、人違いかと」
森で少年と自分の命を救ってくれた剣士はやはり、今目の前にいる青年だったのだ。
「あ、ああ……。私はよく、剣を持つと印象が変わると言われるんだ。だからかな」
セヴィリスは少しきまり悪げにそういうと、
「でも、それなら話は早いね」と苦笑いした。
「あの時はっ……ほんとうにありがとうございました」
リリシアはあわあわと頭を下げる。こんな所で再会するなど思ってもみなくて、何から話していいのかもわからなくなってしまう。
「私こそ、危ないところを貴女に助けてもらった。感謝する」
二人は、改めて目を合わせた。夫婦となったその夜に、なんともぎこちない再会の挨拶をしていることがリリシアにはとても不思議に感じられた。
セヴィリスは改めて話を続けた。
「我々デインハルト家は、古来よりこのグリンデル領で魔を屠る命を負っている。『聖騎士』と呼ばれる血筋なんだよ。私は少し前に首領を引き継いだんだ」
聖騎士についてはご存じだろうか?と青年はリリシアに尋ねる。
リリシアは曖昧に頷いた。
聖騎士ーー。はるか古、魔物がこの国を跋扈していた時代、人を守るために剣となり盾となり戦ったという聖なる騎士たちのことだ。だが既に神話の時代は終わり、人間の世となった今ではその伝説だけが各地に残っているだけだ。リリシアは幼い頃、眠る前にいくつも聖騎士の冒険話を両親にねだったものだ。
「聖騎士……様? それは、おとぎ話では……?」
セヴィリスは柔らかく首を横に振った。
「はは。まぁ、大抵の人にとってはお伽話の登場人物でしかないよね。でも、聖騎士は今でもいる。だって、君が森で遭ったのは間違いなく魔物だっただろう?」
リリシアは頷いた。あのような禍々しいものは、この世のものではない。
「だから、……この地に魔物がいる限り、聖騎士の役目は終わらないんだよ」
セヴィリスは重々しくそう言う。
「で、でも。ほ、ほんとうにそんな、ことが……?」
リリシアは戸惑いと驚きで何度も瞼をぱちくりとさせた。やはり信じがたい。そんな話は、ベルリーニ家の食卓でも、誰の噂話でも聞いたことがない。
「あの日は、魔物……それも人型のものが出るという噂を辿って私たちは森へ向かっていたんだ。でも、間の悪いことに、あの少年たちが先に遭遇してしまった」
あの時の恐怖がまざまざと蘇る。リリシアは知らず、自分の肩を庇うように身を縮めてしまう。
「怖い思いをさせてごめんね。私たちは、あれを、ラギドを追ったのだけれど、奴は姿をくらませてしまったんだ」
セヴィリスの剣によって魔物は深い傷を負った。だが滅することはできなかったのだという。
「そ、そうだったのですね……でも……」
リリシアは思い切って尋ねてみた。
「セヴィリス様。あの魔物と、この婚姻と、なにか関係があるのでしょうか」
「ああ。大いに関係がある。貴女の、その印だよ。これは魔印といって魔物が気に入った獲物につける呪なんだ」
「呪……?」
「そう。奴は君に印をつけた。必ず手に入れようとやってくる。夢はあの魔獣の意思の表れだ」
リリシアは思わず肩を庇った。これが、印?
「魔印は少しずつ君を侵食していく。生気を奪って成長し、やがて君の身体と魂を喰らうんだ。そうすると、身も心もあの魔物のものになってしまう」
セヴィリスの言葉は地の底から聞こえる不吉な予言のようにリリシアの体を這い上がる。彼の話は冗談でも世迷言でもないと、自分の肩の疼きが教えてくれる。リリシアは心臓がギュッと掴まれた気分になって胸を押さえた。
(な、なに、そんなこと……。ど、して……どうしたら、いいの)
いつもは安心できるペンダントさえ肌に冷たく感じられてしまう。
リリシアはかたかたと震える手で、とっくに冷めてしまったティーカップを寝台の側の台に戻した。
そこへ、セヴィリスの手がふわりと重ねられる。
「……あの魔物を倒しきれなかったのは私の責任だ。だから貴女をこの屋敷に迎えた」
「そ、れは、どういう?こと?」
朧げだった話の輪郭が少しずつ、少しずつはっきりしてくる。
「このグリンデルの地で貴女を守る。そのために貴女に求婚した。それが私の聖騎士としての責務だ」
「え……?ち、ちょっと……おまちください……そ、そのようなことで?私と……?」
婚姻をなさったというの?彼女はあっけに取られた口調でセヴィリスを見る。驚きすぎて肩の疼きなど、どこかへ飛んでいってしまった。
だって、それではこの方に利益など何もないではないか。
彼は少しむっとしたように口をへの字にした。
「そうだよ。これが一番手っ取り早い方法だったからね。でも、貴女を守るというのは『そんなこと』じゃない。貴女の魂にかかわることだ。聖騎士は魔物から人々を守り抜くのが使命だ」
「で、でも……っ」
リリシアはなおも言い募る。
「……もちろん、この婚姻が国の常識の範疇ではないことは承知だけれど」
彼は小さくため息をついた。
「セヴィリス様……」
「この数百年、国では聖騎士の存在は公にはされていない。あらぬ恐怖を煽らないためにと、国王陛下と聖教会の間で取り決められているからね。魔印に侵された令嬢を保護し守るために、聖騎士団の者で相談して決めた。……ともかく、こうするのが最善なんだ」
彼はやけに熱のこもった早口で喋ると、ふ、と言葉を切った。
「でも、貴女にとっては理不尽なことかもしれないね……申し訳ない。危険な目に遭わせたうえに、聖騎士の義務などに巻き込んでしまって……」
セヴィリスはしゅんと項垂れた。その姿さえ悩める精霊の王子のようだ。
「いえ、そんなこと……」
言いかけて、リリシアは言葉につまる。自分の肩をもう一度確かめた。今ではなんとも不吉な印に見える。
(私の身を守るために求婚なんて……セヴィリス様はそんなご決断をなさったということ?)
リリシアに限らず、貴族令嬢には将来を選ぶ自由はほとんどないに等しい。のけ者扱いだったリリシアは特に。だから、彼女は自分を望んでくれたことがほんとうに、純粋に嬉しかった。だがセヴィリスは、責務のために彼女を伴侶に望んでいた。
(なんだかとても、申し訳ないわ……)
彼女は俯いた。不本意なのは、彼の方ではないだろうか。だが、セヴィリスは慰めるようにリリシアに告げる。
「魔印の手当てができるのは私たち聖騎士だけなんだ。それでも、一時的に和らげることしかできない。これからも、満月の晩が一番痛みがひどくなると思う」
彼は椅子から立ち上がり、胸に手を当てた。
「必ず。あの魔物、ラギドを倒し貴女の魔印を取り除く。なんでも望みを言ってほしい。貴女がここで快適に過ごせるように、みんなでがんばるから」
あの時リリシアは少年たちを守る為に無我夢中で魔物に立ち向かった。そのせいでアレに目をつけられたことになる。
行動したことを後悔はしていないけれど、でも。
リリシアの中で色々な気持ちがぐるぐると回る。
「あの時の、……私の、不注意のせいで、このようなご迷惑を……ほんとうに申し訳ありません」
「そんなことはない! あの場でラギドを倒せば魔印は消えていた。これは私の落ち度だよ。貴女が気に止む必要はないんだ」
セヴィリスはさらに申し訳なさそうに眉を下げた。
「ラギドは深傷を負い、姿をくらませている。傷が癒えるまで数ヶ月はかかるはずだ。本当は棲家を探し出して叩きたいのだが、闇に紛れてしまった魔物を見つけ出すのはとても困難なんだ。動き出すのを待つしかないのだけれど」
「大丈夫だよ。貴女にとって望まぬ婚姻であることはわかっている。その、ふ、夫婦生活を送るつもりはないから、安心して」
彼はリリシアの夜着ーーほどきかけた胸のリボンがはらりと垂れているーーを見ないようにして、後ろを向いた。
「ここは今日から貴女の住まいだ。好きに過ごしてくれていい。もちろん、魔物を倒したからといって離縁したりなどしない。魔印が消えて元気になったら、愛人を作るのもいい。私は子供も望んでいないから」
とにかく貴女の人生を、命を守るのが私の、聖騎士としての責務なんだ。
彼はしっかりとした口調でリリシアにそう告げた。一瞬、瞳がめらめらと燃え上がったように見えた。彼の瞳はリリシアを通り越し、その後ろに巣食う魔へ向かっている。リリシアはそこに、底知れぬ敵意を感じた。
「……今日は疲れたよね。おやすみ。ゆっくり休んで。そのお茶にはよく眠れるような調合にしてあるから」
穏やかに微笑むと、夫は中扉の向こうの自室へと消えていった。一人残されたリリシアは混乱と、不安と、安堵と、なぜだかわからないけれど、少しの寂しさを感じながら閉じた扉を見つめていた。
(な、なんてこと……)
分厚い布がかけられた窓の外で、丸い月がグリンデルの黒い森を照らしていた。
そして、リリシアはその夜、本当に久しぶりに夢のない深い眠りにつくことができたのだ。




