1話 リリシアと冷たい養い家族
ぱしゃん。
リリシアがあっと顔を上げた瞬間にはもう、彼女は頭から水をかぶっていた。静まり返るお茶会の席。ぽたぽたと雫が前髪から落ちる。
「あらぁ、ごめんなさい!あなただったの、リリシア」
「まぁ! たいへん。なにやってるのよルーシーお姉さま、ねえリリシア、あなた大丈夫?」
ルーシー・ベルリーニとセーラ・ベルリーニ。水浸しの令嬢の遠縁にあたる姉妹はくすくすと二人で笑い合いながらこちらを見ていた。絹の手袋を嵌めたルーシーは大きめの水差しを手にしている。美しく着飾っている彼女たちはその場の誰よりも華やかな茶会用のドレスに身を包みながら、「あなたの髪飾りをお花と間違えてしまったみたい。だってあまりにも綺麗だからお水をあげなきゃと思って。ね、お姉様?」
と無邪気な表情で肩をすくめる。姉のセーラも同じく邪気のない瞳で大きく頷いていた。
「ねえ、許して?リリシア」
彼女たちは眉を下げて気の毒そうにリリシアを見ていた。その場にいた十数人の令嬢たちは互いにこっそりと見つめ合い、皆曖昧に微笑むだけだ。誰もリリシアのことを助けるものはいない。
「あなたは優しいもの。こんなことで怒ったりしないわよね」
「そうよリリシア、そんなところに突っ立ってないで早く着替えてらっしゃいな。ここは侯爵夫人のお庭よ。そんなずぶ濡れでいたら『家族』の私たちまで恥ずかしいじゃない」
セーラがリリシアに微笑みかける。そして周りの令嬢たちの方を向いた。
「さあ、わたくしたちはあちらへ。今日はとてもたくさん殿方もいらっしゃるそうよ。バルコニーで皆さま力比べをなさるんですって、見に行きませんこと?」
華やかなセーラとルーシーの姉妹はこの集団の中心だ。
「まぁ、素敵ですわ!」
「どなたが勝つのか、賭けをしませんこと?」
良家の令嬢たちは顔を輝かせてあっという間に行ってしまった。リリシアは午後の光が美しく輝く庭園でひとり、取り残された。ぽたぽたと滴が垂れる髪をそのままに呆然として立ち尽くす。使用人の一人が慌てて駆けてくる。
「お、お嬢様……いま、拭きますから」
「ええ、ありがとう」
彼女はゆっくりと顔を上げ穏やかに答えた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「今日はお天気がいいから、すぐ乾くと思うわ。気にしないで」
リリシアは庭園を照らす柔らかい日差し見て使用人に頷いた。
「わ、私侯爵夫人にお伝えして……」
「いえ、結構よ。夫人に余計なご心配をおかけしてしまうでしょうから……。今日はこれで失礼いたします」
「お、お嬢様……そんな!」
「申し訳ありませんが、馬車を一台お借りできますか?ベルリーニ家の馬車を使うと、姉妹達が帰れませんので……」
まだ新人の使用人はおろおろしてしまう。彼女は近くで忙しそうに立ち働く年かさの使用人に声をかけた。
「あの、すみませんっ、あのお嬢様がお帰りになられると……まだお茶会は始まったばかりですのに」
彼女はちらりとリリシアを見た。
「ああ。あれはベルリーニ家のリリシア様ね。……また従姉妹様たちにいじめられたんでしょう?お嬢様の言う通りにしてあげて」
「で、でも」
「いいの。あの方はまともにお茶会に参加できたことがないのよ。いつも何かしら意地悪されて……お可哀想だけど、私たちじゃどうにもならないわ」
先輩使用人は肩をすくめた。
「なにしろリリシア様はベルリーニ伯爵家の負の財産なんですから」
***
︎
リリシアは広い庭園に設られたベンチの隅に座り大人しく馬車が手配されるのを待っていた。目の前をどこかの子息や令嬢がにぎやかに通り過ぎて行く。中には不思議そうに彼女を見るものもいたが、リリシアだとわかるとたいてい顔を逸らして行ってしまった。
(今日こそは、どなたかとお友達になれるかと少し楽しみだったけれど、やっぱりだめだったみたい……)
濡れた頭を風が冷たく撫でていく。彼女はそっと胸元に手を当てた。
リリシア・ベルリーニ。彼女はベルリーニ伯爵家の養女だ。伯爵の父方の遠縁にあたる。両親が流行病で亡くなり、十才のときに伯爵の元に引き取られた。それ以来ずっとベルリーニ伯爵夫人と、その娘たちーセーラとルーシーに目の仇にされている。
「あなたの父親はね、孤児院出のくせにベルリーニ伯爵家の令嬢をたぶらかした野蛮で下卑な愚か者よ。家に泥を塗った男の娘がここに足を踏み入れるなど、本来ならあり得ないことなのよ!」
ベルリーニ夫人は十歳のリリシアにそう言い放った。両親を亡くしてまだ呆然としている幼い少女は、夫人の剣幕に震え上がった。なぜ、見知らぬ女の人がこんなに怒っているのかわからなかったのだ。女の人の後ろには同い年くらいの少女が二人、じっと自分のことを睨んでいた。
その時からリリシアの素朴で幸せな生活は一変した。
少しだけ東部の訛りのあったリリシアは徹底的に王都の言葉を教え込まれた。ベルリーニ夫人はリリシアの家庭教師に鞭打ちを許した。そして少しでも発音を間違えたり、できない問題があると何時間も「お仕置き部屋」に閉じ込めたのだ。
お仕置き部屋は、離れにある誰も使わない衣装部屋だった。黴臭く薄暗い部屋で幼い少女はひとり怯えて過ごした。そんな生活は少しずつリリシアから快活さや笑顔を奪っていく。だが彼女はそれでも誰かを憎んだりうらんだりすることはしなかった。両親が自分を愛してくれた思い出が彼女をしっかりと支えていたからだ。
リリシアの父はとある村で薬師をしていた。避暑のためその地を訪れたベルリーニ家の面々は狩りに興じる。リリシアの母は活発な令嬢で、彼女も狩りに張り切って参加したのだ。だがそこで怪我をしてしまう。大慌てで呼ばれた若い薬師は令嬢を治療し、そこで二人は激しい恋に落ちる。伯爵一族の強い反対を押し切り、二人は駆け落ちしたのだ。
「父様はね、とっても優しくて穏やかで、私は一目で大好きになったのよ。立派な服が濡れないようにびくびくしながら舟遊びを楽しんでいる殿方とは大違い。だから絶対離れたくなかったし、どこまでも一緒に行きたかったの」
リリシアの母はいつも嬉しそうに話してくれて、そしてそのそばには照れ臭く笑う父がいた。
「だから、あなたは宝物よ。リリシア」
暮らしは決して豊かではなかったが、大切に育ててくれた父と母。だが、駆け落ちした母のことを伯爵家は決して許さなかったのだ。流行病で急逝した両親の唯一の親戚として嫌々ながらリリシアを引き取ったベルリーニ夫人は、彼女を見るなり低い声で伝えた。
「お前を愛するものなんて、この館にはいないわ。覚えておきなさい。この恥晒しの娘」
幼い頃に何度も言われた、夫人の鞭のような声が今でも頭に響く。リリシアはぎゅっと目を閉じ、胸元のペンダントを握りしめた。
「あなたも恋をして幸せになってほしいわ、ね、リリシア」
肌身離さずつけている父からの贈り物のペンダントは、彼女の宝物だ。辛いときにこれを握りしめると優しく愛に満ちた母の声が甦る。リリシアは安らかな気持ちになれるのだ。
「馬車が参りました、ベルリーニ嬢」
侯爵家の侍従がおずおずと声をかける。リリシアは肩掛けを羽織り立ち上がった。
「ありがとうございます。侯爵夫人にはせっかくお招き頂きましたのに申し訳ありませんとお伝えください。皆様には気分が悪くなったと……お願いします」
「あの、良ければ今からでも参加なされば……皆様お待ちでございますし」
侍従は口ごもりながらも気を遣ってそう言葉をかけた。本当は誰も彼女がいなくなったことを残念になど思っていない。リリシアにはそれがよくわかっていた。
「お気遣いありがとう。でも大丈夫、私がいない方が皆様楽しく過ごせると思うわ」
彼女は丁寧に頭を下げると賑やかな茶会を後にして、馬車へと乗り込んだ。湿った髪を拭きながら窓を開けて馬車に揺られるうちに、髪はすっかり乾いてきた。
(いつか、私もお茶会を心から楽しむことができるのかしら……。おしゃべりしたり、カードゲームをしてみたり……)
年頃の令嬢は皆、友人たちと毎日いろんなところに招待されそのようなことに勤しんでいる。そうしていつか家の定めた男性と婚礼をあげるのだ。
だがリリシアは自分にそのような未来があるとは考えにくかった。
「お前のためにわざわざ持参金を持たせて嫁がせるようなことはしたくない」
そう伯爵にも夫人にも言われていたからだ。もうすぐ二十歳を迎えるリリシアはこのことを考えると少しだけ不安になる。だが彼女は気を取り直して御者へ声をかけた。
「あの……少し寄り道をしたいのだけれど、構いませんか?」