部下の白川は話が長い
「今朝目が覚めた時から、僕は違和感を禁じ得ませんでした」
白川は、神妙な面持ちで言った。
「どういうこと?」
主任の高瀬は、入社二年目の部下の唐突な言葉に面食らった。
「いえですから、朝目が覚めた時から、違和感があったんです」
「それは分かったけど、プレゼンの準備は大丈夫なの? 資料は?」
白川は、手に持った紙束をスッと差し出した。
「それは大丈夫です。それは大丈夫なんですがね、とにかく違和感がありましてそれで」
高瀬は広い会議室をチラと見渡した。あと五分で定刻だ。部屋にはあちこちの部署から担当者が集まりつつあり、あちこちで挨拶を交わしたり、雑談が始まったりしている。
「何? もうすぐ始まるわよ。このプレゼンが大切なことは白川だって分かってるでしょう。それに関係している事なの?」
「えぇまぁかなり関係はあると思われますね。僕の主観ではありますがおそらく」
「まどろっこしいわね。何なのよ、早く言って」
白川の話は回りくどいところがある。高瀬はイライラしながらピアスのキャッチを指で弄んだ。
「まず目が覚めたら、下腹がしくしくと傷んでいました」
「下腹が」
「えぇ下腹が」
「まぁいいわ、続けて」
「えぇ続けます。とにかく朝目が覚めたら、下腹がしくしく傷んていたんです」
「はぁ、それで?」
「私は布団で横になったまま考えました。『この部分は一体何の臓器があるのだろう』と。しかし医学的な知識が無い一般人にそんなことが分かる訳がありません」
「うん。それで?」
「えぇ、答えのない問を持て余していると、カーテンの隙間から差し込んだ朝日がチラチラと眩しいことに気が付きました。僕は痛む下腹を庇いながら起き上がり、カーテンと窓を開けました。すると朝の爽やかな風が僕の頬を撫で、外に見える家々の屋根は朝日に輝いて、小鳥のさえずりが降り注ぎ、祝福されたかのような美しい朝でした。その景色の中で僕は考えました。『こんな美しい朝に、下腹が痛いだなんてまるで相応しくない。何か温かいものでも飲めばそれも治まるかもしれない』と」
「うん」
「そう考えると、昨晩母が作って置いて行ってくれたスープがまだ残っていたことに思い至りました。そこで、鍋を火にかけ、スープを温め直したのです。それを一口飲むと胃に染み渡るようで、だんだんと活力がみなぎってくるように思われました。これはチキンからじっくり出汁をとったもので、たっぷり野菜が入っていましてね。母の得意料理なんです」
「なるほど、美味しそうではあるわね」
「ええ、味もなかなかのものですよ」
「でもそれが何の関係があるの?」
「えぇ、まぁ話はこれからでしてね。何だかんだスープを飲んでいるうちに食欲もでてきて、僕はパンとゆで卵とヨーグルトとオレンジを食べることが出来ました」
「けっこう食べたわね」
「ええ、全て母のスープのおかげです。腹ごしらえが終わったところで、僕は急に気が付いたのです」
「何に?」
「今日はプレゼンの日だったと」
「えぇそうね」
「そして話は昨日の終業後に戻ります」
「戻っちゃうの? 昨日の終業後って、決起会のこと?」
「ええそうです。昨日の決起会です。高瀬主任は二十時ごろには帰られましたよね」
「うん、まぁ夫が帰ってくるまでには帰りたかったし。私、飲み会はそもそも嫌いなのよ。酔ってる人の相手するのも面倒じゃない。それにほら、今日のプレゼンの事があるから早く帰って休まなきゃと思ったし」
「やはりそうですよね」
「それがどうしたのよ。白川だって帰ったんでしょう」
「えぇ。ただすぐには帰れなかったんです。僕が店から出ようとしたら、楢崎係長に呼び止められましてね。二次会に誘われたんです」
「何でそんなことになるのよ。あの人もお酒飲めないじゃない」
「えぇ飲めません。ただ昨日は、飲めない酒を飲まされていたんです」
「何ですって!? 誰が飲ませたのよ。あの人飲むとセクハラがひどいのよ。誰か被害者出てないかしら」
「えぇそうなんです。僕もそれを心配していましてね。係長が飲み始めた頃から注意して観察していました。観察していると、楢崎係長は酔いが回って来たんでしょう。だらしなく笑って鼻の下を伸ばし、隣に座っていた総務部の華、小浜さんの露わになった脚に手を伸ばしたかと思うと、そのまま通り過ぎて、鬼頭くんが食べていた枝豆を奪ったのです」
「……小浜さんに被害は無かったってことよね?」
「えぇ。それは僕も心底安心しました。しかし楢崎係長は、かなり酔いが回っているように見えました。鬼頭くんから奪った枝豆を貪り食い、その後は空になった枝豆の鞘をいつまでもちゅぱちゅぱ、ちゅぱちゅぱとしゃぶっていました」
「その気色悪い表現いるの?」
「あぁ、申し訳ありません。僕も不快感が強かったものですから、つい」
「で? それでどうしたの?」
高瀬は苛立ちを募らせていた。定刻まであと二分だ。そろそろ全員が着席し終わている。
「えぇ、それで、決起会が終わった段階で、楢崎係長はかなり酒に酔っていたのです」
「それはさっき聞いたわ」
「話をせかさないでくださいよ、主任。とにかく、そのほろ酔いで千鳥足の係長に二次会に誘われたんです」
「それで?」
「誘われたのは僕だけでは無かったのです。係長は、僕を含め、新卒や二年目の連中に絡み、二次会に誘いました。しかし、いざ次の店に行こうという時になってみると、他のメンバーは姿を消し、僕しか残っていなかったのです」
「売られたわね」
「売られるとは?」
「いいから続けてよ。それでどうしたの」
「続けます。そういう訳で、僕と楢崎係長だけで二次会をすることになったのです。係長が連れて行ってくれたのは、いわゆるガールズバーでした」
「ガールズバー!?」
「えぇ、行きつけなんだそうです」
「知りたくなかったわね……」
「そこで、係長のお気に入りだという、カリンさんという美女が相手をしてくれまして。彼女はトークが上手というだけではないのです。その笑顔にたぶらかされましてね。気が付くと、次々新しい酒を注文してしまっているのですよ。その手管には驚きました。そして、係長はやはり酔っておられてですね。屈んだ時に一際危なげになるカリンさんの胸元に手を伸ばし……」
「サイテー」
「カリンさんにこっぴどく手を叩かれておりました。その後つねられていましたから、左手の甲に不死鳥の形の痣があるはずです」
「どうしたらそんな形になるのよ。あと安心したけど別にいらないわよその情報。それでつまりどうしたっていうの?」
「そういう訳で、しどとに酒を飲み、解散したときには深夜一時でした。終電を逃していてですね。家に着いたのは二時すぎです」
「ねぇ白川、そろそろ……」
「えぇ、そろそろ話も佳境に近づいてまいりました。それで冒頭に戻ります」
「まだ戻るの!? 白川時間が……」
「えぇ、戻ります。そして、僕は目覚めとともに違和感を感じたのです。全身を満たす倦怠感と、下腹の痛み、頭痛……それでも食べた朝食」
「白川。結局どうしたのよ! 結論から言ってちょうだい。もう時間がないのよ!!」
「えぇ、つまりね。そんなこんなで今私は二日酔いでしてね。今私の吐き気は限界を迎えつつヴォェッ」
「イヤッ!! 何でそれ早く言わないの!!? もう限界なんかい--あッ服にかけないでちょっと! いやクッッッサ!!!」
プレゼンは散々だった。