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惨害

作者: もりお@辞書引き短編小説

ドッカンぐらぐら。1995年1月17日、兵庫県神戸市。

当時2歳そこらの私は、まさに渦中でこの惨害を体験したのにも関わらず、まったくと言っていいほど覚えていない。


「阪神淡路大震災」そう聞いて思い出すのは、物心ついた時から毎年学校で冬休み明けに行われる追悼行事と、父の背中くらいである。

震災当初、私は神戸市須磨区のマンションで両親に育てられていた。このマンション自体は、今でも幼少期の記憶ほとんどにキャンバスのように存在しており、いたる思い出の背景となっている。

2LDKの間取りで1部屋は大きな寝室、ダブルベット2つに2段ベッドが1つ。今思えば素っ頓狂な配置だはと思うが、ハシゴを登って(正確には登らせてもらって)、普段は自分の3倍4倍も背が高い両親を見下ろす体験は2段ベッドでしか成し得ず、お気に入りであったに違いない。27歳にまで成長した今となっては、2段ベッドなんて怪我の温床としか思えない。酔っぱらって帰宅した暁には間違いなく足の小指をぶつけながら階段をウォーキングデッドのように登り、ともすればすぐそこにある目的地に到達せずに落ちる。落ちるくらいならそもそも1階にベッドがあればいい。


話が逸れたが、2LDKのうちもう1部屋はいわゆるおもちゃ部屋、私の城であった。どんなおもちゃがあったのかは覚えていないが、あまりに気に入ったのか籠城の度が過ぎてウ〇チを漏らしたことだけは覚えている。そのお城から厠までは約2mほどであったが、私はお城で用を足した。お城ならなんとかなるだろう。


ここで一つ皆さんの小さな違和感を紐解きたいと思う。ウンチの話ではない。父の背中についてである。


「阪神淡路大震災」そう聞いて思い出す事柄のトップ3に、父の背中がランクインする。

1995年1月17日、私たち家族は、ダブルベットと2段ベッドが配置された寝室で眠っていた。なぜか私は幸いにもハシゴには登っておらず、1階部分で眠っていたらしい。寝室には両親と私の3人である。そして早朝5時46分52秒、事は起きた。視界が揺れ、ブラウン管テレビは倒れ、私のお城もめちゃくちゃになった。そんな中寝室では私たち家族はとあるものに守られていた。父の背中である。


父は、地震を察知するやいなや母と私を抱え込み、四つん這いになる形で身を挺して2人を守っていた。寝室においてはそんな大きなものが落ちてくるとは思えないが、マンションごと倒壊する恐れも頭にはあったはずである(割と脳みそ筋肉の父なので実はなかったのかもしれない)。

冒頭の通り、私はこの体験を覚えているわけではない。しかし、その後両親に阪神淡路大震災について問うとどうやらそのような状況であったらしい。私の知っている父であれば、恐らくそうするであろうと思うので特に疑いもない。


この出来事から、私は父になるということは、守れる男になることであると学んだ。背中が大きくある必要はない。家族に何かが起ころうとした際に、身を挺してでも守る。例え息子がウンチマンだとしても。

父になるとは、そういうことらしい。



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― 新着の感想 ―
[一言] ルーティン動画から飛んで来ました。 素晴らしいお父様ですね。 自分もこんな父親になりたいです。
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