一話
逃避行
「お嬢様伏せて!」
グッと背中を抑えられ地べたに這いつくばるロヴェルティナ。咄嗟に手が出て顔を地面に擦ることは無かったけれど、昨夜降っていた長雨のせいで泥が跳ねて頰に付き、手袋もこの日の為に誂えさせた紺のドレスもボロボロで泥まみれだった。
それがまるでロヴェルティナの世界全てがそうなのだと突き付けている様で、ひどく屈辱的だ。こんな状況で無かったら喚き散らしているところだっただろう。
でも今それをしてはいけない事は嫌でもわかる。
「どこに行った!」
「頭領の前に引きずり出せ!」
格好も言動も粗暴な山賊は血眼になって彼女達を探している。正確にはこんな泥だらけでもドレスを着たロヴェルティナだ。
「一番金になる」だとか「バレねぇ程度に遊んどくか」とか、身の毛のよだつ事を出会い頭に話していたのを思い出した。捕まればどんな目に合うか火を見るよりも明らかである。
背の高い藪の陰で小さくなって震えているロヴェルティナに、侍女のサラは怖くて震えているのだと思ったのだろう。片方の手をギュッと握りしめて目だけで「大丈夫です」と語りかけてくる。
しかし実際は違った。たしかに恐怖もあるが、今はままならない現実に怒りの方が勝っている。
護衛は何をしているの
なぜ私がこんな目に
魔封じの枷さえ無ければ
私を誰だと思っているの
助けてフロレンシオ様・・・
ふと脳裏を過ぎた男のせいで今日の昼間の出来事を思い出す。
本当なら今頃、卒業舞踏会で未来の王太子妃に選ばれ、皆の賞賛と羨望を一身に受けている筈なのに。
寄り添い微笑み合う二人。
私が着るはずだったドレス。
会場全てからの無礼で屈辱的な視線。
おそらく私だけが見たあの女の勝ち誇った顔。
それを見た瞬間、怒りで頭が沸騰しそうになった。
それがいけなかった。背後に近づいていた気配に気付けず、汚らしい手がロヴェルティナのドレスの裾を掴んでいた。
「見つけたぜ!」
「ひっ!!」
「お嬢様!」
さっきまでの怒りは一気に吹き飛び、不快感と恐怖でロヴェルティナの体は言う事を聞かなくなってしまった。
しかし固まるロヴェルティナと違い、サラは咄嗟に落ちていた木の枝の尖端で輩の手を突き刺す。「ぐわっ!」と呻きとともに手が離れた隙に、サラはロヴェルティナの手を取って走り出した。
「あ、あ・・」
「落ち着いて!呼吸は出来るだけ整えて!」
あっという間の出来事にロヴェルティナは状況を掴めないまま、言われた通りに黙って足を動かし呼吸を整えようと努力する。
誰に指図しているの!と、いつもなら悪態の一つでも言っている所だが、先程の輩に捕まりかけたという恐怖がロヴェルティナを素直にさせていた。
お前は怖くないの?
なぜ一人で逃げないの。
お前の役目は護衛じゃないでしょう?
どうして、そんなに必死に助けてくれるの。
ロヴェルティナの記憶の中に、別段サラを優遇していた事も親切にした覚えも無い。むしろ専属の侍女としては新人のサラは勘が悪く、随分と雑に扱っていた気がする。
だけど今日。人生最悪と言えるこの日に、荷物少なに着いて来てくれたのはサラ一人だった。
浮かんでは消える疑問も荒い息遣いのせいで言葉にならず、サラに礼の一言でもかけるべきだと分かっているのに、呼吸するだけで精一杯になってしまっているロヴェルティナは、引かれている手を離さない様に強く握り返す事しか出来なかった。
侍女らしいカサついた手のひら。華奢な体で草木を掻き分け困難が迫ろうとも諦めていない強い眼差しと足取り。
今のボロボロの自分とは比べ物にならないくらいに眩しく、とても心強く思えた。
「あれは!」
しばらく走っていると木々を抜けて少し開けた川沿いの場所に出た。
橋の下には長雨で茶色く濁った川が流れていて、対岸と繋がる橋が見る。
その先にはまだ遠いが目的地の修道院があった。
出発時は全く行く気になれなかった修道院も、今のロヴェルティナには身の安全を護れる場所として輝いている様に見える。
ただ闇雲に走っていた訳ではなかったのだと分かり、サラに今度こそ「よくやったわね!」と言おうとした瞬間、顔の横を何かが通り過ぎるのとサラが叫ぶのはほぼ同時だった。
「きゃああ!」
「サラ!」
倒れるサラにすぐさま駆け寄ると背中に矢が刺さっていた。
「ひっ!」
刺さっている箇所からじわりと広がっていく血に、ロヴェルティナの方が血の気が引いていく。
「ゔ・・はあ。だ、大丈夫です、お嬢様・・。」
「大丈夫なわけ無いじゃない!」
「・・いいですから!行きましょう!」
痛みを我慢して立ち上がろうとするサラに、ロヴェルティナはこれ以上反論出来なかった。
どの道ここに居ても山賊に捕まってしまうのだ。サラの手当ての為にも、急いで修道院へ向かわなければならない。
ロヴェルティナはサラに肩を貸し走り出した。離れたところから賊達の仲間を集める声が聞こえる。
今まで自分達を極力傷つけない様に追って来ていた賊が矢を使いだしたという事は、余程あの橋を渡る前に捕まえたいのだろう。
サラの体をなるべく揺らさない様に支えながら、なんとか二人は橋の袂にたどり着いた。
しかし
「あんな所に・・!」
「サ、サラ!」
橋の向こうの対岸に数人の賊が待ち構えていた。
このまま渡っても捕まるだけだ。
サラが新たに逃げ道を思案している間に、背後からは次々と賊が集まり橋以外の隙間を埋めていく。
二人はあっという間に橋の上に追いやられてしまった。
一様にいやらしい笑いを浮かべた賊達はジリジリと距離を詰めてくるが、すぐさま襲っては来ない。こちら手負いな上、袋のネズミだと侮っているのだろう。
事実逃げ場のない状況に、焦燥感が二人の胸を占める。
ロヴェルティナは必死に思案した。
賊に挟まれ、逃げ場はない。
サラは怪我をしているし汗がひどい。動けているのは気を張っているからで、きっと今だけだろう。
捕まればサラはまともな治療は受けられず死んでしまうかもしれない。
ここまで一緒に来てくれたサラを失うのは、なんだか嫌。
命をかけてとまでは思わないが、ここは私がなんとかしてサラだけでも逃し、修道院に助けを呼んでくれれば。
私がどうにかされてしまう前に。
ここまで考えてチラリと修道院側の賊を見る。
後方より修道院側の方が賊の数は少ない。アイツらが狙っているのは金目の女の、私。
一か八か私がぶつかって時間を稼げば、その隙にサラを・・
「・・ねぇサラ。お前・・」
「お嬢様!」
自分の考え付いた手筈を伝える為、サラにそっと耳打ちしようと声をかけた瞬間、怒気を含んだサラの声色に思わずビクッと体が跳ねた。
驚きサラを見ると、ロヴェルティナが言わんとした事は全てお見通しで、そして到底受け入れられないと、そう目が言っていた。
いつもは勘が鈍くて言わないと分からないくせに、こんな時だけ!
問答してる余裕は無いにもかかわらず、黙って従わないサラにこっちこそ怒りが湧いてきた。こうしている間にも賊との距離はもうそこまで来ているのに。
「なら他に良案はあるの!?このままお前は死んでいいの!?」
渾身の思いで睨みつければ、予想外にも返ってきたのはこの場に不釣り合いな、優しい笑顔だった。
「お嬢様のそのお顔が、最期に見られるなんて、思いませんでした。好きだったんです、それ。」
「え?」
突然の趣味の悪い発言と浮遊感に思考がピタリと止まる。
「私めの主人は、貴方様だけで御座います。どうか自由に、生きてください。」
橋から突き飛ばされたのだと分かったのは、サラの言葉が耳に届いた後だった。
最期ってどう言う意味・・?
意味を理解したくなくて咄嗟に伸ばした手は空を切る。
再びサラに触れる事は出来なかった。
せめて視線だけはサラから外したくないと、潤んでしまいそうになる瞳を歯を食いしばって我慢する。
しかし橋の上に残ったサラは深くお辞儀をしていて、その表情を見ることも叶わなかった。
どうして、そんなに必死で助けてくれるの・・
再度疑問が浮かぶのと同時に、ロヴェルティナば増水した川に落ちていった。