決戦の日 13
「東郷藤兵衛……」
相手が名乗った。その一言で、聖斗の顔が灰色になる。だが同時に、顔かたちは歓喜に変形をもするのであった。
「源聖斗……御相手つかまつる」
畏れと、興奮で、声がかすれてしまっている。が、それを笑うことなく、あざけることなく、相手は堂々とした礼を返してくる。心の太い、器量人であった。
「いざ……」
藤兵衛の方から先に、スイッと八双に構える。それは彼の八双、いわゆる――
「トンボの構え……」
だった。ちなみにシンディのセリフだ。
トンボ──
それを耳に聞き、チャコは目を見開き、その光景を網膜に焼き付ける。それは、これ以上の物はあり得ない、始祖ご本人の、神技入魂の形なのだ。
その立ち姿には、付け加えるものも、そぎ取れるものも何もなく。
きどりなく、てらいなく――
あなどることなくただ誠実に、聖斗の準備を静かに待ちつづけている。
聖斗の膝が一瞬だけ崩れたのを、誰もが見逃さなかった。
だめだ、と誰もが思った。チャコの視界が絶望の意識で真っ白になった。もうだめだ、今度こそ、負けてしまう――
ところが──
ここで源聖斗──
見ている誰もがひっくり返る行為に打って出たのである。
<傍点> 自分も、トンボの構えを採ったのだ </傍点> !
──!
無音のどよめきが、辺りに満ちた──
それはそうだろう、甚助に続いてこの男に対しても……まさかご当人の技で相対するのだとは、聖斗よ。
驚くか、いっそ驚きを通り越して、呆れてやるべきか──
──
──いやしかし。さきほど師匠から紹介があった、この、天才児と呼ばるるこの男なら、もしかして──ひょっとして──あるいは──甚助のときと同じように──!?
──
そして、再度のどよめきが、わき起こるのだ。幾分かの期待が込められながら──
藤兵衛、はじめて、表情をゆるませる。その顔は雄弁に語るのだ。なんたる男よ、源聖斗。おいに対しても、そいをやうのか──と。
しかし、愉快に微笑みながらもその観察眼は心眼は、あえて表現するなら、 <傍点> むさぼるように </傍点> 真剣で──
ほどなく、当然の論理的帰結から、あらためて充実した笑みを唇に浮かばせるのだった。
かの男は、身体全体を満たす幸福感に、たまらず呻り声を漏らすのだ。むむむむむ……!
そう、旧世界の己の剣の、伝承者たちの隆盛に思いをはせて──
「……できちょる。相手に、不足なし」
出てきた言葉、それは、至高の褒め言葉であった。
それを真摯に受けて、聖斗、ついに発進する。
「エエエイイイイイイ――!」
彼独自の、言うなれば『猿叫 <えんきょう> 』モドキの長い気合を発しながら、ついに、突っ込んでいく――
対して――
「ちぇえええええ――ッ」
出た! 本家本元の『猿叫』──
巨漢が、発進する。
生きとし生けるもの、みな、悲鳴をあげて逃げ出すだろう、猛烈な意思と肉体の渾然となった塊の無敵の驀進が――
一人は、神の領域を飛び越さんとばかりに突っ走り、神域の一人は、走りすらその御技の結晶で──
二つの、巨大な彗星同士の正面衝突!
とうとう――
両者が――
ぶつかる!
――その寸前だった。
藤兵衛が、 <傍点> トンボから下段へと構えなおした </傍点> のだ。
ただし、独特の形の──逆トンボ──!?
打ち落とす聖斗、すりあげる藤兵衛――
天と地からの『雲耀 <うんよう> 』同士の衝突──だが――これは──はっきりと――速度の差が――!
源聖斗が、東郷藤兵衛を、袈裟切りに斬り下げていたのだった。
「トーベェェェェーーー!」
なぜ下段に変じたったるや東郷師よ──!?
聖斗、世紀の不思議を見つめる目を向けるも、そこに確信と感謝の表情を見とめてしまっては、もはや言葉なし。
藤兵衛――
「むむむむうん……」
と、最期の一言。
万感の一笑。
ポン、というかわいらしい音をたてて、一瞬の内に──
巨漢が、あざやかに消滅してみせたのだった。
あとには、袈裟切りにされた人形 <ひとがた> の紙片が一枚。ひらひらと風に乗り雲間に消えて行く。
それを澄んだ瞳で見送る、フイゴのように荒い息の聖斗であった。
※
もはや黙ってやらせるしかないのか?
聖斗がふたたび距離を開けるのを、止める者はいなかった。
「――三人目!」
まるで搾り出すかのような叫び声。
「承知!」
答えたのは、一人の逞しい男。見るからに気力充実、満面の笑み。その男が自信にあふれた足取りで、快活に舞台に登場したのである。