いままでの日 1
深緑の森の中の一本道を息せき切って登る。やがて行く手に現れる、青空が開けて見える場所。広い面積を塀で囲んだ、大行 <おおぎょう> な屋敷。どこか火を使っているのだろう、穏やかに立ち上る煙が見え、耳を澄ませば、薪を斧で割る乾いた音も響いてくる。さらに近づくと、ときどき鶏の声も、風に聞こえた。しぜん、口元がほころぶ。毎日の、普通の、へんてつもない、だがとてもいとしい生活の音だ。我が家だ。今も息づいている、わたしの家だ。わたしの家族が、そこにいる。
左右に延びる高い塀。正門である薬医門。板のこすれ傷、柱の引っ掻き傷は、わが成長の証。ああ、この屋敷のあちらこちらに、何物にも代えがたい思い出が重なっている。先祖代々の魔力が降り積もっている。だから、血筋の力で、不燃不破のその重厚な門扉は楽々と開いた。
「ただいま!」
そう叫ぶや否や、天草四郎――こと、ジャンヌ・ダルク・カザンザーキスは、広い前庭に走り出した。母屋の玄関に向かわず、ぐるっと回る。
別棟になっている風呂場の釜の前で、火加減を見ながら、手持ち無沙汰に薪を割っている、黒いキモノ姿の男がいた。宮本武蔵だ。その汗くさい背中に走った勢いのまま抱きついた。
「だーーーーっ! ただいまムサちゃん <ハート> 」
「んん〜……」
手を止めて、仏頂面のまま――喜んでいる! うふふ!
「……ま、そろそ……帰る、ろだと。うん……入れ。いい……湯加減、だら」
「ムサちゃんといっしょに入るゥーーー!」
「ん、なんだ。……莫迦を、うな。莫迦」
「喜んでる喜んでる!」
「んと、ま、……」
いきなり武蔵が <傍点> 腕を使わず腰だけで背負い投げを打つ </傍点> 。さらにその上、心優しく加減までしてくれていて、ジャンヌは何をしないまま、宙を一回転して、ちゃんと地面に足から降り立っていたのだった。
いまさら当然のことと認識してるのか、あるいは性格なのか、ジャンヌは武蔵のその技の凄さに驚くこともなく、
「べーっ、だ。本当は嬉しいくせに! ムサシのムーはむっつり助平♪ きゃはははっ」
大層けしからんことを歌って、そのまま逃げ出した。
池を回り込んでさらに奥に走ると、ちょっとした野菜畑があって、そこで十数羽の鶏がこけこけと遊びまわっていた。そのそばに、パラッ、パラッと餌を撒いている、黒キモノを身にまとったグリズリーのような巨漢 <おおおとこ> 。東郷藤兵衛だ。
とうぜん、その後姿に抱きつく。大木の幹の皮の匂いがした。
「ただいま、トーベー!」
「むむ、おかえい。無事じゃったか……」
姿に似つかわしい重低音。
「わたしがいない間、寂しくなかった?」
可愛らしく、ブリッコぎみに聞いてみる。
「……」
返事がない。と――
そこは流石にうまい具合に加減してくれている、はずの、拳骨が隕石のように落下してきた。もちろん、ひらりとカッコよく躱す。イェイ!
……なんだかジャンヌ、今日は妙にテンションが高い。それはともかく、
「やーい、でぶノロマー! 当たんないよ!」
とまあ、またしてもふざけたことを、天下の藤兵衛相手にぬかすのだ。
もちろん、当然、さっきの拳骨は彼女のスピードに合わせて加減してくれていたのだが、今のセリフに藤兵衛、無言のまま、そばに立てかけていた木の棒を手に取ったのだった。トンボの構えになる。ジャンヌ、さすがに慌てた。
「練習はあとあと! じゃねーっ、きゃははは!」
鶏をコケー、ケケーッ、と散らしながら走って逃げ出した。
靴を放るように脱いで縁側から屋敷にあがる。背中の刀も適当に畳に捨て置いて、自らはドタドタと床板を踏み鳴らして台所に走った。
そこに、トントンと包丁を使っている、黒キモノに白いタスキがけの柳生十兵衛がいた。さすがに背中に張り付くのは遠慮する。ていうか、そもそも、この男の場合はそんなマネしたらキケンなのだ。
「ただいま、ジューベー!」
「おおう、お帰り。変わりなかったか?」
背中からあったかい声が返ってくる。嬉しくて、つい甘えた子供のような返事をした。
「それがね……へへ〜ん、教えない!」
苦笑の雰囲気。
「それは、体に聞いて、という謎かけであろうや?」
「ば、ばーか! この変態ジューベー!」
この男には少々手こずるジャンヌなのだった。
「くっくっく……まぁ、しばし待て」
空気に漂うお味噌の匂い、焼き魚の匂い。やがて包丁の音が止まり、まな板の物が、ぼとぼととおナベの汁の中に落とされる。ようやく十兵衛が振り向いた。片目がやわらかく笑っている。
「つまみ食いは許さぬぞよ、チビ姫どの」
「ばーかばーかばーか!」
挑発に乗る。えいっ、とばかりに皿の上の小芋に手を伸ばす。だがそこは十兵衛、ぴちっと手刀で弾いてのける。もちろん加減してくれている、はずなんでしょうが、骨まで響くこの痛さ、だった。
「いてエよ、ばか!」
蹴るふりをする。十兵衛が笑った。
「そういえば、風呂わいてるぞ」
顎をさすりながら、上からいやらしく見下ろしてくる。
「いっしょに入るか? んん? 裏表、隅々まで擦ってやるぞ」
「わっ……あっ……」
顔が赤くなった。
「――このヘンタイ親父! ロリコン! 性犯罪者! くたばれ!」
恥ずかしくなって逃げるように走り出す。十兵衛の明るい笑い声が背に当たった。
着替えを用意するために自分の部屋に行く途中、縁側でばったりと蘇我秀麿 <そがのひでまろ> に出会った。相変わらずの水干姿で、片手に、脱ぎさらしだったジャンヌの靴を下げている。
「あっ、ただいま、ヒデ爺! たいくつしてなかった?」
「アホウ。何をふざけとるか」
靴を見せつける。渋い顔。
「帰って来たらちゃんと玄関から上がらんか。行儀悪いまねして。屋敷が泣いておるぞ」
「へーんだ、いいんだよ〜ん。ボクあっての屋敷なのだ! 好きにさせてもらいますウ〜!」
「ちゃ、ちゃ、ちゃっ」
あきれたように舌打ちをする。
何か小言を被せようとして、秀麿、ふいに、庭の方に顔を向けた。
ジャンヌもつられて見ると、いつの間にかそこに、一人の、ジャケットとズボン、頭にハットという男がいたのだった。左手に細長い布袋に包まれた荷物を持っている。
「あっ、今お帰り? ジンちゃん!」
林崎甚助だった。甚助、こうしてみると意外に似合う現代的普段着姿で、愛嬌のある顔を、さらにニコリとさせた。
「ただいま戻りました。姫、ご老」
ご老が応じる。
「うん、ご苦労。で、今日も変わりなしか?」
「いえいえ……」
甚助、ジャンヌと視線を合わせると、含み笑いした。
「今日は二つばかし、面白うことがござりました」
「ほお?」
「一つ目は、ホレ、あの無頼どもの頭目……」
「ああ、おったな。……ヤクザの組長というやつだ。いや、社長だったっけか」
「で、そやつが不埒にも、年増の魔おんなと結託して、我らが姫に狼藉を働きましたものでございましたから──斬り捨てました」
左手の細長い荷物を少し振ってみせる──
ここは、普通の人なら仰天するところだ。
さすがに蘇我秀麿、動じなかった。ただ、じろっと、ジャンヌを見ただけだ。
ジャンヌ、ちょっと、肩をすくめる。
「だってェ……わたしババァの魔法で身動きできなかったし。ジンちゃんが飛び込んでくれたから、助かったんだよ? 乙女の危機だったんだよ! キャッ <ハート> 」
「きゃあ、じゃなかろうに……。甚助、よき働きだ」
甚助、なんでもなさそうに一礼した。
林崎甚助――。本日の、ボディガードだった。付かず離れず、そして余人に覚られず、ジャンヌを警護していたのだ。
「ジャンヌ、お前はまだまだじゃ喃 <のう> ……」
「ふーん、だ」
「まあよい、わかった。後はメシを食ってからにしよう。甚助、一服するがいい。ジャンヌも風呂にしてこい。話はそれからじゃ」
言い終えると、ヒデ爺はジャンヌの靴をぶら下げながら、玄関の方へと歩いて行った。
ジャンヌ、
「いーーーーっ」
と子供のように笑いながら、優しい顔をしている甚助に抱きつく。日に十分干された、稲藁の香りがした。
「ジンちゃんアリガトね……」
甚助は、軽く肩を叩いてくれるのだ。
「はっはっは……姫、ようガンバリなすった」
「うん――」
――
――
――
涙が、にじんだのだった。
日が南の空へと傾き始めている。
とりあえずは、おだやかな一日の終わりだった。