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青の光源  作者: 伊勢祐里
四章「青空」
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6話

 先程まで曇っていた空は、沙耶香たちが最寄りの駅にたどり着く頃には、すっかり皐月晴れになっていた。原色の絵の具で塗りつぶした嘘みたいな青色の空の隅に、小さな鼠色のちぎれ雲が一匹、帰る場所を忘れたかのように彷徨っている。ギラギラと降り注ぐ六月の陽射しが、そこまで迫った夏の足音を懐かしさと一緒に鼓膜に焼き付けてきた。


「賢人くんの家ってどこなん?」


「遠いところじゃないから安心して」


 ニッコリと持ちがあった梨咲の笑みには、少しだけ切なさが内包されていた。敏感にそれを感じ取った碧が「分かった」と素直に頷く。二人の背中がいつかの自分たちに重なって見えた。遠く懐かしい思い出は胸の奥底に仕舞っておくべきだと、湿度の高い空気と一緒に沙耶香はごくりと飲み込む。どこか甘くほろ苦い香りが鼻から抜けて、最近口にした何かを思い出した。それが梨咲の祖父の店の珈琲だと気づいた頃には、沙耶香たちは電車に揺られていた。


 銀縁の窓から陽が差し込み、車内を明るく照らしている。慌てて遮光板を下げる人もいれば、梅雨時に綺麗な青空は珍しいと嬉しそうに眺める人もいた。沙耶香は、じっと青空を眺める。ガラスがキラキラとひらめき、チクリと目の奥が痛んだ。それが心地よく、でも少しだけ涙が浮かぶ。


 阪急淡路駅で電車を降りたのは、てっきり乗り換えの為だと思ったのだが、梨咲は後続の列車を待つことなく、そのまま改札へ繋がる階段を下っていった。


「JR?」


 まさかと思い沙耶香は梨咲に尋ねた。少し歩いたところにJR淡路駅があるので、そちらへ連絡するのかも知れないと思ったからだ。だけど、梨咲は歩きながらこちらを振り向かずにかぶりを振った。


「賢人の家はこの辺り」


「大学からめっちゃ近いやん」


「賢人のお母さんの地元がこの辺りなんだって。ご両親も高齢になって来たらしくて、一緒に暮らしはるらしい」


 碧が驚くのも無理はない。大学から四駅という距離。しかも毎朝、沙耶香たちが通学で使っていた駅のそばに探していた賢人の家はあったのだ。


 梨咲が「こっち」と指で道を指し示した。改札を抜けた先にあった商店街を抜けていく。碧が梨咲の横に並び、そっと声をかけた。


「梨咲は、ここに賢人くんの家があるから大学を選んだん?」


「うーん。そうじゃないとは言い切れんけど。月命日は、手を合わせに行ってる。ここに賢人の家があるからって言う理由だけで大学選んだら、賢人に怒られそうやし」


「私は、沙耶香と一緒やからって理由で大学選んでもうたんやけど?」


「ははっ。それはそれでええんちゃう? 志望校下げるのは良くないかもしれんけど」


「いや、むしろめっちゃ上がって大変やった……」


 辛い受験勉強を思い出したのか、碧はトホホと間の抜けた声を出す。ケラケラ笑いながら、梨咲は首だけをこちらに向けた。


「その頑張りに喜んでくれてた人がいたなら」


 そう言って、梨咲は口端を上げた。唇の隙間から白い歯が覗く。沙耶香は、何も言わずに小さく頷いた。


「あれ、お花屋さんあるやん」


 商店街の一角に小さな花屋があるのを見つけ、碧が華やかな声を出した。「買って行こうや」と笑みをこちらに向け、碧が店の中を指差した。


「そうだね。賢人くんが好きそうな花を買っていこう」


 店内には色とりどりの花が並んでいた。「どれがいいだろうか」と沙耶香は花を探す。碧みたいな花があれば、賢人は喜んでくれるかも知れない。ほんのわずかな罪滅ぼしとして、そんな花を探すが、思うようなものは見当たらなかった。


「これがいい」


 店先で花を選んでいた碧が、綺麗なユリの花束を手に取った。白と紫、それから桃色が散りばめられた小さな花束だ。どこか自分たちに似ている。


「きっと賢人くんは気に入ってくれるよ」


「そうやとええんやけど」


「だって碧が選んだんだもん」


 沙耶香の真意を分かってか分からずか、碧は頬を赤らめた。純粋に照れただけなのかもしれないけど、賢人の気持ちはちゃんと碧に伝えてあげなきゃいけない。それは酷な話だろうか。けれど、あの日、奪った賢人の感情をこの手で握り隠し続けるほどの罪はこの世界にないはずだと信じるしか無い。きっと、碧も待っているはずだ。あの手紙に書かれていた賢人の碧に対する最期の思いを。


「ここやで」


 暑さで花が傷まないかと心配しながら、梨咲に付き従い進んでいると、彼女はそう言って立ち止まった。駅からすぐの大通り沿いに建つ綺麗なマンション。地元で親と暮らしているという話から、沙耶香はてっきり一軒家の実家を想像していたのだが、立派な佇まいはマンションが建ち並んでいるこの辺りでも目立つものがあった。温かみのある茶色で統一されたエントランスに入り、梨咲がオートロックに部屋の番号を入力すれば、「はい」と女性の声が聴こえた。


「聡子さん。梨咲です」


「待ってて、今開けるね」


 物腰の柔らかい声だった。声の響きから幼き賢人の面影を感じるのは、自分だけじゃないはずだ。隣に立つ碧の目がうるうると潤んでいた。


 内側の自動ドアが開き、エレベーターに乗り込む。梨咲が十三階のボタンを押した。穏やかに上がっていくエレベーターの中で、液晶パネルの文字が変わるたび、沙耶香の心拍数も上がっていった。きっと、賢人の思いを知らないままの碧に対する罪の意識だ。暴かれることを恐れる理由なんてなにもないのに、どうして身体が震えだす。賢人の仏壇に手を合わせる前に、碧にそのことを伝えるべきだと分かっているのに。震える沙耶香の手を包み込むように碧の手が重なった。


「大丈夫」


 碧の小さな唇が声を紡いだ。胸の前に腕を引っ張り、ギュッと両手で握りしめられる。沙耶香は、細く白い碧の手にもう一方の手を重ねた。賢人にも謝らなくてはいけないのだ。彼が一生懸命書いた手紙を、真っ直ぐに伝えていた思いを、碧から奪ったしまった。あの時間もあの思いも取り戻すことは出来ないけれど、確かに存在していた。


 許されることはないはずだ。だけど――あの時の賢人の気持ちは、今はもう沙耶香の胸の中にしかない。


「私が隠した手紙にはね。賢人くんの思いが書いてあったんだ」


「うん」


「碧のことが好きって」


 少しだけ碧の体温が上がった気がした。そっと閉じた碧の目尻から、涙がこぼれ落ちる。碧は何も言うことはなく、沙耶香の言葉を、賢人の思いを噛みしめるように何度か頷いた。それから顔を上げて、つぶらな瞳がこちらを見つめる。


「沙耶香がそうやって、ずっと持っててくれたんやな」


「え?」


「私は忘れっぽいから、沙耶香がずっと賢人くんの気持ちを預かってくれてたんやと思う」


 きっと、それは碧の本心では無いはずだ。忘れっぽい碧だって、大切なことはちゃんと覚えている。だけど、碧は碧になりに、ケジメをつけているに違いない。もう取り返せないあの日の自分の悪意に理由を付けてくれているのだ。


「ありがとう、碧」


「私も賢人くんも、いくらでもやりようはあったんやと思う。もう一度、手紙を出すことも出来たはずやし、伝える手段はあったはず。でも、そうしなかったのがすべてなんやと思う」


 きっと、賢人は母に碧への思いを打ち明けていたんじゃないかと思った。だから、聡子は碧に賢人の死を知らせるよう寿子に頼んだのだ。だけど、賢人自身も大切な思い出として宝箱に仕舞い生きることを選んだのではないか。報いることが出来ないなら、せめて碧の優しさを受け入れ、感謝するしかない。繋いだ手から悪意はひとつも感じなかった。 


「夏になったら、三人でお墓入りに行こう」


 団子みたいになった手の上に、さらに梨咲の手が重なった。目を開けた碧が、少しだけ口端を緩ませて小首を傾げる。


「お墓参りか。賢人くん喜んでくれるかな」


「喜んでくれるに決まってるよ」


 エレベーターの扉が開いた。梨咲が迷うことなく真っ直ぐに廊下を進んでいく。碧に手を引かれて沙耶香もそれに続いた。マンションの廊下から、ずっと遠くまで青空が見えていた。



(了)

 

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