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青の光源  作者: 伊勢祐里
一章「記憶」
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1話

 枕木に支えられた揺れの間隔が徐々に開いていき、車窓に流れる景色が輪郭を取り戻し始めた。


「綺麗になったんやで」


 柏木かしわぎあおいがそう言うと、はやし紗耶香さやかは「だけど尼崎あまがさきでしょ」とあしらうように悪戯な笑みを浮かべた。


「ほんとやってば」


「ほんまに?」


 食い下がる碧につられたのか、沙耶香の口から懐かしい関西弁が飛び出した。そのイントネーションは少しおかしく、碧はついクスクスと笑ってしまう。それが不服だったのか、沙耶香の眉が少し不機嫌な弧を描いた。


「今のそんなにおかしかった?」


「標準語の沙耶香も、それはそれでおかしいけどな」


 それじゃ何語で話せば良いのだ、と言いたげに沙耶香の口端がわざとらしくムスっと下がる。それを見て、碧は「ごめん、ごめん。もう笑わへんから」と目尻の涙を拭った。


「標準語も笑われるなら仕方がない。スペイン語で話そうか?」


「第二外国語で話せるようになるのは無理ちゃうかな?」


「数くらいなら数えられるよ?」


「それ、どうやってコミュニケーション取るつもりなん?」


 二人の笑い声は、電車のブレーキ音にかき消される。分岐で車線を切り替えた車両が二人の身体をぐっと揺らした。とっさにつり革に捕まった沙耶香に対し、碧はその場でよろける。


「でも、ホンマに綺麗になってんて。こんな建物なかったやろ?」


 流れ行く街並みを碧が指差せば、「ふーん、まぁねぇ」と沙耶香が曖昧な相槌を打った。こうして沙耶香と話していると、彼女が本当に帰って来たのだと実感が湧く。沙耶香のいなかった八年の間に、街はすっかりと綺麗に変わってしまっていた。


「それなりかな」


「もう東京と比べんといてよ」


 ケラケラ、と笑いながら紗耶香はサラサラの長い髪を細い手で梳いた。指の節の間でしなやかに撫でられる髪は黒く艶やかで、なんというか大人だ。大きく膨らんだ胸の上で、綺麗な銀色のネックレスが夕陽に光っていた。


 マキシ丈の薄桃色のスカートが、春の陽気に溶けている。彼女を包み込むすべてに、八年という時間の流れと東京という街の華やかさを感じた。


 過ぎていった時間の流れに圧倒され、思わず碧は息を飲む。自分の胸を抑えてみて、早まる鼓動に、同じだけの時間を自分も過ごしてきたのだと言い聞かせた。


「大丈夫?」


 ふと目を開けると、沙耶香がこちらをぐっと覗き込んでいた。あの頃とはまた違う綺麗な瞳に、思わず吸い込まれそうになって碧ははっと息を止めた。


「うん。ちょっと揺れたから」


「もう、碧は相変わらずだね」


 柔和な笑みを浮かべ、沙耶香は小さなカバンからスマートフォンを取り出した。そこにはブランド物のカバーが着けられている。綺麗にネイルで飾り付けられた指で、沙耶香はスマートフォンの画面を撫でた。


「お母さんに、新大阪に着いたら連絡して、って言われてたの忘れてたよ」


「ここで一回降りるけど、電話しておく?」


「ううん。メールで十分」


 関西弁だった彼女の言葉も、すっかり標準語に変わっていた。だけど、綺麗ですらっとした彼女には、きつめの関西弁訛りより断然こっちの方がいいと碧は思った。


 銀縁の電車は春の柔らかい陽差しを反射しながら、JR尼崎のホームへと侵入する。混雑とまでは言えない程度に人で溢れている車内から、大型商業施設や真新しいタワービルが見えた。


 春休みの終わりも近いこの日、大きなロータリーには何台かの車が止まっていて、小さな子どもが両親に連れられ、祖父母との別れを惜しむように手を振っていた。


 碧がまだあれくらい幼かった頃、この辺りはビール工場だったらしい。小さかったので当時の記憶は曖昧だが、話を聞く限り、あの頃のこの辺りはたしかに汚いと形容されても仕方のない街並みだったようだ。


 だけど再開発が行われて、駅の周りは当時の面影もなくめっきり綺麗になった。大きな商業施設の中には映画館だってあるし、すっかり都会へと街は趣を変えたのだ。そんな変わり果てた街を眺めながら、沙耶香が息を漏らす。


「もう少し懐かしいかなって思ったんだけどね」


「地元までいけば懐かしいと思う。この辺りは変わっちゃったけど、あっちの方はそんなに変わってないから」


「そっか。それじゃ、賢人けんとくんが住んでた団地もあの頃のまま?」


「え?」


「賢人くん。覚えてないわけないでしょ? ほら、小学校の時、碧が好きだった。確か、私が引っ越す半年くらい前に転校しちゃったんだよね」


「うーん。そうやったっけ?」


「よく家の前まで行ったじゃん」


「そんなストーカーじみたことしてたかな? 昔だからよく覚えてないや」


「えーっ、もしかして照れてる?」


「そんなんちゃうから」


「もう誤魔化しちゃって。小学校の頃に好きだった人のことくらいさすがの碧でも覚えてるでしょ?」


 二人が小学校四年生の時、紗耶香は家庭の事情で東京へと引っ越した。離れ離れになるのが悲しくて、自分は大泣きしたそうだが、碧は良く覚えていない。


 あまり、過去のことを記憶に留めておくのが得意ではないのだ。嬉しかったことも悲しかったことも寝てしまえば、いい具合に忘れていく。人は、そうでなくてはやってられないと思うのだが、みんなは案外そうでもないらしい。


 悲しいことも嬉しいことも、時には恐ろしい恨みや妬みを死ぬまで根に持ち続ける人がいる。そういう人に比べると、自分は都合のいい性格だと思う。誰かにされた嫌なことを引きずらないし、特段、日頃から恨んでいる人がいるわけでもない。嫌な思いをする出来事がなかったわけではないはずだが、過去にずっと縛られているのが窮屈なのかもしれない。


 ただ、人と思い出を共有する機会が乏しいのはそれなりに悲しい。皆が盛り上がっている話に入っていけず、ニコニコと笑みを浮かべているだけの時間はとても退屈なのだ。だけど、碧は自身の性格を誰かに伝えることは少ない。


 自分はこういう人だと話すと、たいてい煙たがられてしまう。いい人ぶっているだとか、本当は嫌いな人くらいいるんでしょ? だとか。この性格は存外悪く言われてしまうのだ。覚えていないのだから仕方ないのだが、多くの人にとって嫌な過去を忘れるということは理解し難いことらしい。


 沙耶香は、そんな自分の性格を話したうちの一人だ。「便利でええやん」と、当時の彼女は笑いながら受け入れてくれた。便利だと言えば、聞こえはいいが、実際、自分は単に馬鹿なのだと碧自身は考えている。だけど、碧が引っ越したことはちゃんと覚えているし、悲しかった記憶だってある。人より明度が低いだけなのだ。しっかりと記憶していることだってある。


「別に、誤魔化してるわけとちゃうし」


「ふーん。それじゃ――」


 すっと冷淡になった沙耶香の瞳が、夕陽の赤を反射してその色を隠した。その双眸の奥に潜んでいるものが怖くて、碧は空咳を飛ばし話題を逸す。


「そんなことより、ここで乗り換えやで」


「そんなことよりもって。はいはい、分かってますよ。もう大学生なんだから調べて来てるって」


「私の中の沙耶香は小四で止まってるから、面倒見てあげなくちゃって気持ちになんの」


「小四で止まってるのはお互い様。それに、碧の方があの頃のままじゃない?」


 沙耶香に見下され、碧は自分の顔がぽっと赤らんだのが分かった。恥ずかしさと怒りが混ざり、眉間にムッとシワが寄る。睨みをきかせてやろうと企むが、その瞬間、大きな胸が視界を被った。


「ほら、こんなに小さい」


 沙耶香が碧の頭をポンポンと手で撫でる。見えはしないが、きっと身長の差を測っているのだ。


「さすがに小四からは伸びてるから! ……中学生の時に止まってもうたけど」


「150センチある?」


「あるよ!」


「え、本当にある?」


「149・5センチです」


 観念したように、碧はうなだれる。周りからはどう見られているのだろうか。世話焼きな姉とからかわれている妹。そんな風に映っていないかと心配になる。身長は沙耶香が転校した小学校四年生の頃から10センチほどしか伸びなかったのだ。


 久しぶりに会う沙耶香のことを碧は必死に探したが、向こうはこちらのことを一発で見つけ出した。それほど見た目の変化がないものか、と碧はとても情けない気持ちになった。 


 JR尼崎で宝塚たからづか線へと乗り換えなければいけないため、碧たちは電車を降りる。ザラザラとした空気が碧の鼻の粘膜を刺激して、けしょんと可愛らしいくしゃみが出た。


「花粉症?」


「うん。三年くらい前から」


「大変だねー」


 平たい返事をされ、碧は勢いよく鼻から息をはいた。ムズムズしたこそばゆさが若干収まる代わりに、ほんの少しだけ鼻水が飛び出しそうになる。咄嗟にカバンから出したハンカチは、小学生の頃から使っていたものだった。


「乗り換え、十分待ちだ。ちょっと悪いタイミングだね」


 電光掲示板を見上げながら、紗耶香のぼそっととつぶやいた。気が付かれないうちに碧はハンカチを仕舞う。何もバレていないのに、少しだけ声が裏返った。


「それで、沙耶香の新居はどこやったっけ?」


塚口つかぐちの辺り。本当はもう少し地元寄りで、碧と近い方が良かったんだけど、いいところがなかったんだって」


 沙耶香の新居は、碧たちが通う大学からはそれなりの距離があった。


 大学の一人暮らしなら、その近くに家を借りるのが定石だと思うが、暮らしたことのある街の方が安心だ、という彼女の両親がこの近くで家を探していたらしい。「碧ちゃんの家が近くだから面倒見て上げてね」と、沙耶香の両親からご丁寧な保護者役任命の電話まで掛かってきた。彼女に会うのは久々だったが、相変わらずしっかりしているし大丈夫だと思うが、彼女の両親なりの優しさだろう。


「塚口ならそこまで遠くないやろ。歩いていける距離や」


「でも、おじいちゃんとおばあちゃんの家があればそこに住んだのになぁ。亡くなってから、こっちに戻って来る理由もなくなっちゃったもんね。二人が生きていれば年末年始くらい戻って来てたかもしれないのに」


 碧の家の近所に住んでいた彼女の祖父母は、沙耶香が引っ越してすぐに体調を崩した。一人息子だった沙耶香の父親が東京へ二人を引き取り、尼崎にある彼女の祖父母の家は壊されてしまった。


「それは仕方ないことやろ」


「だって引っ越しの日、永遠のお別れみたいに碧が泣いてたから。結構な罪悪感だったんだよ? 戻って来るって約束果たせなくなって」


「やっぱり私、そんなに泣いてたんかな?」


「よっぽど、私と離れるのが寂しかったんだね」


「それは否定できんけど」


 碧が照れると、沙耶香は嬉しそうに笑みを浮かべた。その顔は懐かしいもので碧も思わず笑顔になる。


「やけど、紗耶香が帰って来てくれて嬉しい。また一緒に学校行けるなんて思いもせんかったから」


「こうやってまた一緒の学校に通えるのも、碧の頑張りおかげだね」


「そうやで! めっちゃ、大変やったんやから」


「でも、受かって良かったじゃん」


 親元を離れ一人暮らしがしたいからこっちで大学を選ぶ。そう彼女から知らされたのは、去年の夏頃のことだった。


 沙耶香の受験する大学は、当時の碧の志望校よりもツーランクほど上だった。志望校と言っても自分のレベルにあったところをピックアップしていただけで、「どうしてもそこに行きたい!」「夢のキャンパスライフを送りたい!」などと思っていたわけではなかった。だから、その話を聞いてすぐ、沙耶香と同じ大学に通いたい。その一心で頑張り、碧は見事合格することが出来た。


「まさか、沙耶香がこんなに頭いいなんて思わんかった」


「私だって、碧はもっと成績が良いと思ってたよ。碧が私より馬鹿になってるなんてねぇ」


「アホはええけど、馬鹿はひどいよ」


「関西ではそうでした」


 冗談だと分かる口調に、碧はわざと怒ってみせる。変わらない笑い方が妙におかしくて、二人して笑い合った。


 沙耶香が転校した当初は、ずっと手紙でのやり取りをしていた。だが、最近は便利なもので、転校などで離れ離れになろうともネットで繋がっていられる。高校に入り携帯を買ってもらってからは、ずっとメールのやり取りをしていた。やがてスマートフォンになりS N Sへと移っていったが、紗耶香との関係は継続されていた。


「やっぱり懐かしいね。こうやって碧と電車に乗ってどこかに行くなんてなかったはずなのに」


「あの頃は、小学生やったからね」


「こんなに大きくなってから再会するってなんか不思議だね」


「大きくってそれどういう意味?」


「他意はないよ?」


 電車の接近を告げるアナウンスが流れ、紗耶香は大きなキャリーケースを持ち上げた。コロコロと回る黒色の小さなタイヤの軸が右左に揺れ動く。碧の追求から逃れるように、少し急ぎ足で、彼女は三田行きの普通列車に乗り込んだ。


「にしても引っ越しギリギリやったな。入学式は来週やで?」


「引っ越しって言っても実家から荷物はほとんど持って来てないから。最低限のものはこっちで揃えるつもりだし、それに四年したら東京に一度戻ると思うから」


 東京に戻るという響きが妙に悲しく思えた。まだ四年もあるのだからそう言い聞かせてみるが、その時間は長いようで短い。一年の時の流れの刹那を知るには、これまで過ごしてきた僅かとも言える人生で十分だった。


「あ、お土産もちゃんと持って来たよ」


 急なカーブに差し掛かり、電車は徐行する。大きく電車が傾いた拍子に、沙耶香の胸元に掲げられた紙袋がぐっと彼女の方に傾いた。窓の向こうには、銀色の建物がゆっくりと流れていく。沙耶香の手で支えられた紙袋には、見たことのある有名なお菓子の名前が書かれていた。


「ありがとう」


「ちょっと頂戴ね」


「自分が持ってきたお土産を食べるつもりなん?」


「だって美味しそうなんだもん」


「もー分かった。どうせそのうち家に挨拶に来るやろ? そん時に出して上げる」


「やった」


 無邪気に沙耶香は拳を握った。大人っぽい彼女の子どもらしい仕草を見ると、なんとも言えない懐かしい気持ちが胸の中に温かい感情を芽生えさせる。春の空気みたいな心地のよい風が碧の中に咲く小さな思い出の花を揺らす。やがて、電車は塚口駅に着いた。


 扉が開き、沙耶香がキャリーケースを持ち上げた。薄っすらと桃色の化粧をした桜の木が、小さなロータリーの真ん中で枝を広げていた。ホームへ出た沙耶香を追って、碧も電車を降りる。振り返りながら「それじゃ、また入学式で」と笑顔で告げて来た沙耶香の表情が驚きに変わった。ここで見送りだと思ったのだろう。だけど、碧は沙耶香を家までしっかり送るつもりだった。


「え? 碧も降りるの?」


「うん。家まで送ってくよ」 


「え、でもここから碧の家までわりとあるでしょ?」


「歩けない距離じゃないし」


「はぁ。碧のお人好しは変わってないね」


「いやな言い方」


「褒めてるんだよ?」


「本当に?」


「本当、本当」


 嬉しそうな沙耶香の笑みが、沈む西日に溶けていく。その光景はとても懐かしい。へへ、と悪戯な声を出しながら駅舎へと逃げていく沙耶香を、碧は追いかけた。

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