第二十四話 欠け月のアルテミス ③了
それからはコツをつかみ始め、月が一巡りするころには手足の指がだいぶ動かせるようになってきた。
物をつまんだり、持ち上げたり。ちょっとずつ複雑な動作も可能になっていく。
元の手足のような感覚では動かせない。まさしく糸で人形を動かしているような操作感だった。
そしていよいよ、歩行の訓練を行おうという段階にまでこぎつけることができた。
使用人に支えられ、浮いた状態から恐る恐る立とうとしてみる。
うまくバランスがとれず足が滑って倒れそうになる。
直立に立つことすら最初は非常に難しいことだった。
何度も何度も玉のような汗を浮かべながら挑戦し続ける。
足の断端部分に激痛が走り、腿の部分も取り付けるソケットが合わなくてヒリヒリ痛んだ。
治療と休息、義足の調整のため時間を空けながら行うが、その度にもどかしさと焦燥感が募った。
ふたつ月が過ぎ、いつしか季節は夏になった。
歩行訓練を続けて、だんだんと歩けるようになってきた。
とはいえまだ手すりなしではそう長くは続かない。
それでも、歩けるようにはなったのだ。もう二度と、無理なんだと思っていたのに。
もしあのときルメスが被験者の話を持ってきてくれなかったたら、今のようにはなれなかった。
そのルメスは今でも決まって三日に一度様子を見に来る。
いつも座って静かにこちらのほうを見て、しばらくすると帰っていく。
訓練のしているとき、リリトは何度も転んで床に伏してしまった。
そんな彼女を見てもルメスは手を差し伸べず表情も変えず、ただ眺めているだけだ。
それを前のように冷淡なやつだから、などとは思わない。
きっと自分が負けじと立ち上がろうとすることを解っているから手を貸さないのだ。
もう一年の半分以上顔を合わせてきた。会話こそほとんどないが、感じ取れるようになった。
ルメスはいつも自分を応援してくれている。それがようやく理解できたのだ。
でもどうして。以前はほとんど顔も知らなかったはずの自分をなぜこんなにも気にかけてくれるのか。
哀れに思ったから、ではないだろう。
彼は一度としてこちらに憐れみを向けたり励ましの言葉をかけたりしたことはなかった。
そこだけがどうしても気にかかった。どうしても、どうしても。
だから、聞いてみることにした。
暑い日差しの下を避けて日陰で歩行訓練をしていた時、休憩の合間に来ていたルメスに話しかけてみる。
付き添いの使用人に水をもらい、しばらく下がっているように伝えて一口飲んで息を整える。
今は周囲に二人だけ。長椅子の端と端に腰かけて、横目で様子をうかがって、意を決して声をかける。
「ねえ、聞いてもいい?」
「……」
穏やかな顔だ。綺麗な顔。風景を切り取ればそれだけで歴史に残る名画になるだろう。
少し猫背気味な背をすっと伸ばして話を聞こうとしてくれている。
「どうして、いつも私のところへ来てくれるの? 義肢の出来を確かめたいだけなら、こんなに見に来る必要なんてないでしょう? 国のため? お金のため? ……誰か、助けたい人でもいるの? それとも……」
少し、言葉に詰まる。自分は何を想ってこんなことを言っているのだろうか。
「……他の人には、内緒にしてくれよ」
ルメスは何を伝えようとしているのか。
いつも着けている黒い手袋を脱ぎだした。
初めて見るその素手を、手の甲をこちらへと向けて、ルメスの顔の横に並べて見せる。
……!? ――紅、い?
ルメスの顔の肌は細雪のように白く繊細な色彩だ。
だが、その手の甲は、空が夕日に照らされているかのように茜色に染まっていた。
違う。これは、同じ人物が生来持って生まれてきた手とは違う。
作り物ではない。人間のものであるのは確か。だが、これは……。
そんなこと聞いたことはないが、もしや、別人の手をくっつけたのか。
それともまさか、蜥蜴か何かのように新しく生やしたとでもいうのか。
いずれにしてもその手は、ルメス自身の手であるとは到底思えないものであった。
ならば、今その手を見せる意味とは。
「貴方……!? もしかして……貴方、も……!?」
ルメスはそれには答えず、立ち上がり手袋を着けなおす。
ゆっくりと息を吐いて、少し笑った。
「もう大丈夫そうだからな。これからは、来れなくなる。元気でいろよ」
そう言うと、ルメスはまるで蜃気楼のように、転送によってこの場から消失してしまった。
大丈夫、という言葉。実際心配してくれてはいたのだろう。
それは同じ苦しみを抱えたものに対する、ほんの些細な気つかいからだったのだろうか。
なんだか、なんだか、なんだかそれは、とてもくやしい。
内緒だって? 誰が他人になんか言ってやるもんか。
あいつはずっと、自分に手袋の中の秘密を握られながら生きていくんだ。
あんなやつ、関わるだけ馬鹿を見るんだ。幻なんてさっさと消えてしまえ。
リリトは怒っていた。
だがそれはもう、絶望から生まれる投げやりな、棘のように刺さる感情の爆発などではなかった。
自分だけじゃない、誰かのことを考え想うことができるのは、心に余裕が出てきた証だ。
それは自分自身の努力によって勝ち得たもので、そして、ルメスがきっかけをくれたものだ。
彼女は再び歩き出したのだ。新しい腕で、新しいなにかを掴み取るために。
いつか誰かが通った道かもしれないが、歩き出せばそれは彼女の道だ。
誰かの道と交差するときもあれば、離れていくこともある。
それでも彼女はもう進んで行ける。出会えたことの祝福こそが、その原動力となったのだ。
胸のもやもやを抱えながら、でも悪い気分でもないことに戸惑いながら。
そんなふうに、生きていってほしいと願う、誰かの気持ちを感じながら。




