第十八話 男たち ⑧
銀の月の砂海にて、一片の木切れのように寄る辺なく漂う闇の人あり。
その足取りは何とも不確かで、視線を下にし身体を陽炎の如くゆらゆらと揺らし揺らして、落とした肩を戻すことなく手にした槍を支えにひたすら東へと歩みを進めていた。
そう槍だ。ファリーの持っていた槍。それを今この男、アリトがその手にしている。
アリトは、ファリーを殺さなかった。
ファリーが兎族に保護されるのを見届けてから、わずかな隙をついてヴァラハールに言われたとおりに彼の物である槍を持ち去った。
自分の槍が見当たらないと気づいたファリーはしばらく探したのちに奪われたことを理解し、それからこれは暗殺者が自分を見逃してくれたのだと察するに至った。
後は槍を持ち帰り、暗殺の成否を偽るのみ。
だが仕事を終えたアリトは、その内心を反映するかのような、重金属の海を泳ぐ魚の感覚に似た身体の重苦しさを味わっていた。
これまで一度たりとも仕事をしくじったことなどなかった。少なくとも、自分が受け持った分は。
それを、自分が殺したくなかったからと、投げ出してしまった。
殺人に忌避感があるわけじゃあない。ただ、恩人は殺せない。
友の無念を晴らした恩人を手にかけることは、できない。
そんな自分の、仁義というべきか、心のそれを望む欲求に気づいてしまった。
殺し屋が人の世の義理に従ってしまう。自分自身の情けなさに呆れ果ててしまった。
これから自分はどうすればいいのだ。
暗殺者として前のように過ごしていくのか。エギュンのいない、あの谷の底で。
誰を待てばいい。何を当てにすればいい。
谷底から眺めていたあの空の向こうには無かったものが、本当は隣にいたのに。
それが今度は空の遥か彼方の先へと消えて行ってしまった。
もうどこにも自分を照らしてくれる光などは無いのだ。
この胸の中に吹き続ける寂寥の暴風が止む日は来るのだろうか。今はもう、何も望めない。
アリトは人生の分岐路に立っていた。道に迷った者の前には、いくつもの分かれ道が姿を現す。
そして恐れるべきもの、それに留意しておかねばならない。
そういった分岐路には必ず、不吉な魔物が現れるのだということを。
砂丘を登る。重い身体を引きずり、敬虔な巡礼者のように。
そして向かう先の頂上で、それはいた。
銀の月を背にして佇む、闇よりもなお濃い暗黒の少年を。
何者だ。そう思ったが戦闘態勢を取ることも気怠く感じたアリトはどうにでもなればいいと胡乱な目で相手を見つめるくらいしか反応を示さなかった。
「暗殺者アリト。君に伝えなければいけないことがある。エギュンからの言葉を、だ」
「……なんだと?」
少年の口からエギュンの名が出たとき、アリトの心にひびが入ったような衝撃と衝動が走った。
一気に丘を駆けあがる。先ほどまでの幽霊のようなふらつきが嘘のような機敏な動きだ。
少年の前に立ち、手に持った槍を構える。
鞘を展開して穂を露出させるのは真の所有者であるファリーにしかできないが、刃を出していない状態でも丈夫な金属棒として使うことはできるだろう。
「お前は何だ? 何故俺やエギュンのことを知っている?」
「彼の最期を看取った。そしてオレはその後のファリーとザハーグの戦いも、お前とファリーとのやりとりも、全部見ていた」
「!」
少年の目を見る。澄んだ灰の瞳がこちらを見つめている。
それには武器を向けられた恐怖などは微塵も無く、どころかまったく別の感情がアリトへと向けられていた。
それがどういうものなのかは測りかねた。だがこれまで一度も向けられたことがない類の感情であるように思った。
「オレの名前はルメス……いやお前には、ジェフ、と名乗りたい。あの日オレはザハーグのいる国境の街の様子を見に行った。そこで血の跡を見つけ、それを追ったところエギュンに会ったんだ。彼の傷は深く、致命的だった」
「……」
「彼はザハーグの心臓を背後から刺そうとした。普段は人の姿をしているからな。油断しているときを狙った。しかしその直前で躱された。龍としての勘が働いたらしい。それでも無理に身体をひねったから避けきれず左腕に短剣が刺さったそうだ。その後、龍に変じたザハーグに攻撃が一切通じずに返り討ちにあった」
どれほどの高みにある暗殺の技も、龍の魔力の鱗を貫くことはできない。
勝てるだけの武器が、龍と戦うための戦闘技術が、エギュンには無かった。
「だが彼は決して無為に終わったわけじゃない。左腕に深々と刻まれた傷は、その後しばらくして奴に戦いを挑んだファリーの助けとなった。左腕の動きがぎこちないと見たファリーは左脇腹から龍の心臓へと突撃しザハーグを仕留めた。長期戦になったらどうなっていたか分からない。エギュンとファリーは二人でザハーグに勝ったんだよ」
「……そうか。そう、だったのか……」
無駄死にではなかった。エギュンが生きていない以上なんの慰めにもならないが、少しだけ安心できた。
「エギュンからお前への言葉だ。『これでいいんだ。お前はお前のために生きてくれ』そう言っていた」
……なんだと。
「……これで、いい? これでいいだって……? 本当に、そう言ったのか?」
「ああ」
未練は。
「未練は? 未練は無かったのか? 満足して死んだっていうのか?」
「恐らく。あいつは微笑んで死んでいった」
「!!」
アリトは身体を貫くほどに、稲妻が直撃して脳天から全身のあちこちを焼いていったような衝撃を受けた。
持っていた槍を取りこぼし、ふらついた足でジェフに歩み寄る。
そしてその服を両手で掴み上げた。その手は、震えていた。
「こんなこと、こんなことあんたに言う筋合いはないと解っている。だけど、どうにかできなかったのか? 本当にあいつは助からなかったのか?」
「……どんな手段を使ってもいいなら、オレには治すことができた」
「なら!!」
「エギュンが、これでいい、そう言ったんだ。言ったんだよ、アリト」
全身から力が、抜ける。掴んだ手を離し、膝から砂の地面へと崩れ落ちた。
これまで生きてきた中でこんな感覚を味わったことは無い。喪失感。
自分が痛いのか、苦しいのか、それとも何も感じることができなくなったのか。理解が追いつかない。
「そんな……エギュン、後悔してなかったのか? 子供を育てたいんじゃなかったのか? ……俺を、俺を置いていくことに未練なんてなかったっていうのか……?」
後悔も未練もあると思っていた。そうであってほしかった。
自分を置いていくことを気にしてくれると思っていた。
だけど、エギュンには思い残すことなどなかったのだ。
最後の言葉を伝え終わって、満足して死んでいったのだから。
「なんで、なんでだよ……俺だって、お前と一緒ならって、そう思えたのに!! どうして俺を置いていったんだよ!! 一人で満足して死んで!! 俺はどうしたらいいんだよ!! ……どうしてだ。何人も殺したのに、誰かが死ぬのをあんなに見てきたのに、あいつだけが、どうしてこんなに……」
苦しくなるのだろう。
特別なものなんてない。いざとなれば全部捨ててしまえる程度のものしかなかった。
アリトには大切なものなんてなかったのだ。早く死んだ親も、教団も、あの谷にはなにも。
ただ一人、自分に道を示してくっれたエギュンを除いては。
自分自身の心に混ざっていたもの、それを丸ごとえぐり取られた。また、自分だけになった。
自分を二つに引き裂いて、孤独を埋めることができるのだとしたら。
その片割れが消えたとき、つながり合える同じ裂け目を持った何かに、もう一度めぐり会うことなんてできるのだろうか。
暗闇に差し込んだ光が消えて、暗闇だけが残る。あの谷から見えた太陽が、沈んでいくように。
もうどうにもならなくなってしまったのだと、思い知らされた。
「……」
ジェフは、そんなアリトを静かに見下ろしていた。懺悔するようにうなだれる、打ちひしがれた男を。
しばらくして、感情の波が凪いできた。諦めが、心に蓋をした。
「……悪い。あんたには、関係ないのに。もう、行ってくれ。届けてくれて、ありがとう」
感謝の言葉なんて初めて言った。
そして多分、これが最後だ。
「……お前を、一人にはしたくない」
なぜ、そんなことを言うのだろう。そんな言葉をかける義理なんて彼にはないはずなのに。
「隣、座るぞ」
ジェフはそう言って、アリトの隣に座った。エギュンのいたところの、反対側に。
「少し、オレのことを聞いてくれ。オレの、友達の話を」




