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第七話 月下双酌

 灼けるような熱の踊るコスモニアの夏の日の昼下がり。だが不思議と執務室の中は涼し気に感じることができた。

 室内の熱を逃がすために天井近くの外側の壁には穴が開いているのだが、それだけでは説明できないほど妙に冷涼な空気が漂っている。

 そのせいかルメスも汗一つかかずに長袖に手袋をつけた、いつもの黒装束のままだ。

 モリーも砂漠育ちなのもあってむしろ少し肌寒さを感じるくらいだし、ヘルメスに至っては快適そうにいびきをかいている。


 そんなある日にいつぞやのようにアリトが部屋に入って咳払いをしてから声をかけてきた。


「閣下。お客様がお見えになっています」


「うん? 今日面会の予定はあったか?」


「いえ、それがヘルメスさんに用事があるとのことで」


「ヘルメスに? まあ通してくれ」


 アリトが扉を開け広げて相手に促すと、一人の十代後半ほどの女性が入室してお辞儀してきた。

 ルメスは振り返ってヘルメスを呼び起こそうとする。


「おーいヘルメ……」


 するとヘルメスはいつの間にか起きてこの場から逃げ出すべく窓に向かってクラウチングスタートの態勢をとっていた。

 そしてそのスタートダッシュで足が地面を蹴ろうとした瞬間。


「ス」


 ルメスに転送されて蹴りだした足が天を衝いてドスンと背中から床に落ちた。


「ぐえっ!」


 ヒキガエルのような声が上がる。


「窓ガラス割る気かよ。高いんだぞそれ」


「せめて長椅子に落とせよ!!」


「やだ」


「こんにゃろう……!」


 文句を言うヘルメスだが相手の女性をちらりと見るとばつが悪そうに長椅子に背を向けて座った。

 女性がヘルメスに向けて話しかけてくる。


「ヘルメス。その、久しぶり。書置きだけ残して急にいなくなるなんて、私心配して随分探したんだよ。いろんな人に尋ねて、ここに来るのにもお金たくさん使っちゃったもの。ね? 私と一緒に帰ろう? 帰ってそれで、私と……」


「お前なんか知らねえ」


 無感情で無機質な、今まで一度も聞いたことのない抑揚の声が冷たく響いた。


「……え? なに、言ってるの……?」


「お前なんかに会ったことはねえ。知ったことじゃねえ。そう言ったんだよ」


「そんな! 嘘! 私たち結婚の約束だってしたのに!!」


「今まで星の数ほど口説いてきた女の顔なんていちいち覚えてられるか。冗談を真に受けた方が間抜けなんだ」


「そんな、そんなのって……。う、ううう……」


 目に涙をたたえて嘆きの声を漏らす女性をよそに、ヘルメスはルメスに「貸してくれ」と一言言うと、心得たルメスはお金の詰まった袋をテーブルに転送した。

 立ち上がってその袋を持って女性に歩み進んだヘルメスは相手の手をとって袋を握らせた。


「手切れだ。これで故郷に帰れ」


 そして振り返りもせずに扉の向こうへ向かうと「じゃあな」と言ってパタンと閉めて行ってしまった。

 女性は崩れ落ちさめざめと泣き始めてしまったためルメスは対応に困ってモリーの方を見た。

 モリーがそれを受けて女性の肩に手を置き落ち着かせると立ち上がりぽつぽつと自分のことを話し始める。


「あの私、オレイアって名前で、エリアスから来ました。それで……」


「ああ待った。もう結構です。私たちに事情を話されてもご協力することはできません。どうかお引き取りを。こちらも仕事がありますので」


「……! ……」


 ルメスは極めて事務的に、冷淡に対応した。

 女性は息を詰まらせそれを吐き出すように体を曲げてお辞儀をすると執務室を出て行った。


「……ちょっといいですか?」


「うん」


 少しモリーの語気が強い。


「ヘルメスさんも大公様も冷たすぎませんか? とぼけてたってどう見てもただならぬ間柄なのはばればれだし。女性にとって結婚は大切なことなんですよ。どこでだって女一人で生きにくい世の中なんですから。心に決めた人のために国をまたいでまで追いかけてくるくらい必死になる気持ちもわかります。それを無下にするなんてひどいと思います!」


「う……。だけど実際仕事にならないし」


「もう少し気遣いしてもいいんじゃないですか?」


「苦手なんだよ、女にそういうことするの。それに……あいつにはあいつなりの事情があるんだろうさ」




 光は彼方に吸い込まれ、夕闇が少しづつ色濃く差し込んでくる黄昏時。

 大公領の中心街ウルギアの酒場の一つ。閑散とした店内のカウンター席で昼間からずっと酒をちびちび飲っている老人がいた。

 その(たくま)しい肉体を小さく丸めて盃のアラックを見つめている。

 何回目かも分からないため息をついて残りを飲み干し、もう一度ため息をついた。


「情けねえ……」


 誰に聞こえるでもない愚痴を一人こぼすのであった。

 そんなヘルメスの元へしとしと歩み寄る足音が響いてくる。


「ヘルメス……」


 先ほどの女性。オレイアであった。振り向いて胡乱げにその悲壮な表情を見やる。


「お願い。私とマルゴラの村へ帰りましょう? あなたに拾われて育ててもらって、私あなたといつか結婚するんだってずっと思っていたんだから。あなただってわかったって言ってくれたじゃない。いなくなってすごく寂しかった。また私と一緒に暮らしてよ」


「……何度も言わせるな。お前のことなんて知らない。俺には、関係ない」


「……! そう! だったら!!」


 オレイアは腰からナイフを抜いて取り出して自分の喉にあてた。


「あなたと一緒になれないなら! 死んでやるから!!」


「!? よせ!!」


 ヘルメスが席から跳ねるようにして立ち上がりオレイアの腕を掴んだ。

 だが咄嗟のことで上手く力を籠められずに振りほどかれ、再び掴もうとすれば暴れ出してもみ合いになってしまった。

 止めるのを振り切ろうとする振り回された腕が、掴みかかろうとするヘルメスの踏み込みの動作と悪いタイミングで噛み合い、そのナイフが意図せずにヘルメスの左腹へと向かって……。


 ズグッ――。


 深々と奥まで沈むように突き刺さってしまった。


「あ、あああ、嫌ぁ!! そんな、そんなつもりじゃ……」


 見る見るうちに白いエクソミスに赤い赤い染みがにじんで広まってゆく。

 荒く呼吸をして後悔と絶望の念に駆られるオレイアと対照的にヘルメスの表情は岩のように固く無機質なものであった。

 左腹に刺さるそれを声一つ漏らさず抜くと、赤い滝の如く溢れ落ちる血を顧みることなくナイフの刀身を指で二つに折り曲げた。


「気は済んだか? 二度と顔を見せんじゃねえ」


 一連の出来事を目撃して硬直していた店主の前のカウンターにナイフを多めの代金といっしょに置く。


「済まねえな店汚しちまって。少ないが詫び賃もらっといてくれや」


「あ、あんたひどい怪我だ! 医者を呼ばないと!」


「要らねえよ。もう傷は塞がってる」


 勢い良く噴き出していた血は、本当に止まっていた。ヘルメスはそのまま店の外へと向かって歩き出す。


「ヘル、メス……。ヘルメス……!」


 呼びかけに応じることなく夕闇の向こうへと溶けて消えてしまった。




 肩を落としてふらふらと歩く血まみれの老人への注目の視線は闇が遮って隠してくれた。

 すれ違う人もまばらな街路で足の向くまま暗中を模索する。

 雲に隠れた月だけがただ一つのよすが、道しるべとなっていた。


 ふと、目の前の闇の中に闇よりも暗い何かが、近づくたびに人型へとその姿を変えてきた。

 僅かな光を反射して白い顔と灰の瞳が浮かび上がってくる。

 暗黒を纏うかのような黒衣の人物は常ならば着こんでいるであろう闇に揺蕩う有翼の銀蛇の外套は、そこには無かった。


「お前……」


 黒衣の人物は手袋をした手でヘルメスの左腹を指さした。

 ヘルメスは自嘲気味に乾いた笑いをもって応える。


「ははは……汚れちまった」


 黒衣の人物が手を軽く振るうと服に沁み込んだ血が綺麗さっぱり無くなって元の白いエクソミスに戻っていた。


「悪いな」


 服をつまんでひらひらさせて、はにかんだ笑顔を見せる。


「少し付き合えよ」


 黒衣の人物はそう促して振り向いて歩き出し、ヘルメスもその後を追った。


 朧の影、建物の影、人の影が織りなす暗闇の道をヒトガタを成した暗黒を頼りに進んで行く。

 それはともすれば酩酊が脳髄に注ぐ一滴の幻惑の雫が波打たせた虚構の揺らめきだったのかもしれなかった。




 大公館にほど近い大きな酒場、金の星図亭。

 賑わう店の正面からくる喧騒から離れて裏口へと周り勝手知ったるように扉を開けて窓際の一つしかないテーブルの席へと向かい合って座る。

 テーブルの上の銅の鈴をリィンと鳴らすと店主らしき男がのぞき窓からこちらを見て、それからおそらくは厨房とつながっているであろう扉を開けてやってきた。


「オレはいつものを」


「俺はアラック……いやワインをくれ」


 店主は無言で踵を返すと、しばらくして二つの盃がテーブルの上に並んだ。

 二人はそれを見つめて、幾許かの沈黙の時を過ごしていた。

 やがて盃を手に取ったヘルメスはワインを一口舌と喉に流し込み小さくため息をついた。


「……あの娘はな。親を亡くして一人泣いていたのを見てられねえって引き取ったんだ。山あいの田舎のボロ屋を買い取って手直しして、畑耕したり鶏飼ったり色々やり方も教えながら暮らしたっけな」


 ワインをゆっくり回してもてあそびながら遠い日の情景に想いを馳せる。


「元々一人でやっていけるようになるか、結婚を見届けるまでは面倒見るつもりだったんだよ。俺と結婚したいなんて、生返事で返すんじゃなかったなあ。まだ子供だと思っていたのにとっくに女になっていたんだ。子供ってのは、特に娘ってのは成長が早いねえ」


 もう一口流し込んで黒衣の人物を見る朧のヴェールで覆い隠されたようなその表情は伺いしれない。


「お前は、多分知ってんだろ? 俺はもう子供は作らねえって決めてる。この世界に、俺の因子は必要ねえんだ。女の子といちゃついてもそうゆうことはしねえようにしてる。……こんな俺と一緒にさせるなんて、あいつが不憫でよ」


 盃の残りをぐっと飲み干し息を大きくため息と一緒に吐き出した。


「そりゃあ子供を持ちたいかどうかなんてあいつの望み次第だぜ。でもな、将来の選択肢をはなから奪うようなことを押し付けたくはなかったんだ。大事にしてきた娘が子供を産みたくってもそうさせてやれないなんて、あんまりにも哀れじゃないか。……もっと多くの可能性に目を向けてほしかった。だから出て行った。それしか、なかったんだ……」


 再び沈黙と静寂が訪れる。正面の店のざわめきの音は、広い川の向こう岸のようなどこか遠いところのものであるように感じる。

 今向かい合っている人物はヘルメスの長い人生において最も奇妙な存在だ。

 自分の知りうる何者でもなく、異質な、全くもって別種のなにか。

 だからこそなのか、彼は飄々とあるがままを生きようとするヘルメスの一番深いところにある心情を吐露できる唯一の相手であるのかもしれなかった。


「ヘルメス」


 その時丁度朧が過ぎ去り神秘に満ちた月光が二人に振り注いできた。

 照らし出された顔は夏の日に見る雪の幻のように透き通るような白さだった。

 その優し気な微笑と澄んだ灰の瞳の柔らかな眼差しは女神の彫像のように穏やかなものに感じられた。


「これも飲め。それからもう寝ろ」


 自分の盃を指で押してヘルメスに差し出すと、立ち上がって窓の光の途切れる暗闇を越えて扉を開く。


「明日もまた来いよ」


 月光の彼方へと消え入るように、扉をパタンと閉めて、行ってしまった。

 ヘルメスは盃を手に取りくっと飲んでみる。


「! 水か……」


 少し驚き、それから少し笑って、夜空の月を彼の影の名残と共に眺めた。


「ありがとよ。ジェフ」


 ある夏の日の夜に、人は神秘と出会う。

 それは自分の心の投影であり、奇縁なる友との邂逅であった。




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