第16話「後ろ姿」
(…燐……。何処へ……? )
胸が苦しいのは、空気が薄いためだろうか?
(…それも、あるかも知れないけど……)
頭の中に靄でもかかっているように、視覚・聴覚・触覚、全てにおいて、現実味が無い。
数メートル先を行くクランが足下のゴロゴロしている大きめの石に足を取られて転びそうになり、すぐ隣からソルトに支えられたのが、まるで遠くの出来事のように見えていた。
人間の世界のソルトの目の前で燐が姿を消してから、SFF内の時間で丸2日。
旅は意外と順調で、このまま行けば今日中には山頂へ着く。
ソルトに拠ると、人間の世界で消えた直後には既に、燐はぴいたんの姿で燐自身のパソコンの中におり、画面中央でずっと体育座りをしていて動きは少ないものの確かに動いている。しかし、周囲はひたすら白色に閉ざされ、そこが何処なのか分からない、とのこと。
燐が消えた現場であり硫黄の体もかなりの確率でそこで消えていることから、ソルトは、硫黄の部屋へ、自分のパソコンと、燐のパソコンもノートなため持って移動し、硫黄と燐のパソコンをモニタリングしながらプレイしているのだという。
硫黄は、それを聞き、正直、え? と思った。
分かってくれていると思ってたんだけど、と。
今、燐の置かれている状況は、硫黄の状況に似ているように思える。……と言っても、人間の世界のそれまでいたはずの場所に体が無いことと、パソコン画面にSFFにおける自身のアバターの姿で存在しているという2点のみであり、燐に関しては、存在している場所がSFFの中かどうかも分からないのだが……。
そして、はっきりとした事実として分かっていることも、その2点のみ。
分からないことばかりだからこそ実感が大事で、実感として、この状況は慎重に扱わなければいけない事柄であると、硫黄は考えている。
だから、燐のパソコンを移動させてほしくなかった。それによって、何か良くないことが起こらないとも限らないから。
現時点では、とりあえず、動かしたことによる影響は無さそうだが……。
(燐……。本当に、何処へ行っちゃったんだろ……? )
もちろん最も気掛かりなのは、生命に関する無事なのだが、気持ちのほうも気になっていた。
(消える直前に、エスリンがオレだって知ったんだよな……。そうと知らずに、フィナンシェの風呂でオレへの気持ちを語ってて……。
…ショック、だったろうな……。恥ずかしいとか、思っちゃったんだろうな……)
シュトレンの宿屋で、ぴいたんが自分自身を醜くてイヤだと、消えちゃいたい、と言ったことがあったと思い出す。
その時の胸の内にあったのも、恥ずかしさだ。
(ずっと体育座りで、ほとんど動かないのは、落ち込んでるから……?
人間の世界から消えて、真っ白で何も無い、誰もいない所にいるのは、オレのせい、なのかな……。
オレは、どうしたらいいんだろうな……。
燐に、伝えられたらいいのに……。恥ずかしくない、って。オレは燐がオレを好きだって知って嬉しかった、って。オレだって、妹と知らずに、ぴいたんに対して恋に近い感情を持ってたりしたし、って。兄妹だから付き合うとかは無理だけど、これからも燐を守っていく、って。……ああ、あと、フィナンシェの風呂で話した時まで、本当にぴいたんが燐だと知らなかったんだっていうことも……。言い訳にしか聞こえないかも知れないけど……)
クランとソルトが立ち止まった。キンググリズリー1体が立ち塞がったためだ。
だが、硫黄については、ただ、頭がそう認識しただけ。
戦闘態勢をとるクランとソルト。
ソルトが振り返り、何かを叫んだが、内容が全く入ってこない。
遠い。全てが。燐が消えたと聞いて以降、ずっと。日を追うごとに更に。
クランの水平方向の大振り。キンググリズリーが飛び退いてかわしたことで距離が出来たところへ、
「ツイストドリル! 」
しかし、空気のドリルビッドはキンググリズリーを貫けず、その巨体をもう少しだけ向こうへと押しやっただけだった。
2人が攻撃後の体勢を立て直し終えるか終えないかのタイミングで、今度は自分のターンとばかり、突進して来るキンググリズリー。
咄嗟に左右に分かれて避けるクランとソルト。
キンググリズリーは2人の間を通過し硫黄を正面に後ろ足だけで立ち上がり、前足を振りかざす。そのまま振り下ろしてきたら余裕で届く距離だ。
それでもまだ、硫黄には遠い。
「エスリン! 」
斜め前方からキンググリズリーの脇腹を掠めてソルトが硫黄に飛びつき、そのまま斜め後方へと、相共に転がる。
地面に転がった2人を背に庇う形でキンググリズリーの懐に潜り込み、クラン、
「グラウンドアタック! 」
叫ぶと同時、剣を両手で自身の爪先から20センチほどの地面へと突き立てた。
瞬間、剣を中心に赤い稲妻が閃き、続いてゴゴゴ……と地鳴り。剣の根元から、ごく低く細い土の柱が生成され、柱は次から次へと次第に高く太くなりながら生成され続けて津波のようにキンググリズリーに襲いかかる。
柱によって持ち上げられ、硬い先端に弄ばれるキンググリズリー。
クランが剣を引き抜くと、柱はフッと跡形無く消え、キンググリズリーは、いっきに落下。地面に叩きつけられ動かなくなった。
力を使い果たしたように、へたり込むクラン。
どこからともなくカーキ色の作業着姿の大柄な男性が2人、貨物列車に積まれているものと同じくらい大きなコンテナーと共に現れ、動かなくなったキンググリズリーをその中へと詰め込んで、
「テレポ! 」
速やかに去る。
ソルトは大きく息を吐きつつ身を起こし、硫黄のことも支えて起き上がらせると、バシッ! 頬を張った。
(っ! )
痛みに、頭の中の靄が急速に晴れる。
硫黄の目の奥の奥のほうを覗き、ソルト、
「気持ちは分かるけど、いい加減にしなよ」
(…気持ちが、分かる……? )
硫黄は至近からのその言葉を受け容れられず、目を逸らした。
(分かる、って、何が分かるんだろ……?
燐のパソコンを平気で移動させるし……。
燐のオレへの気持ちは知っていても、エスリンの正体がオレとは知らずにオレへの気持ちを話してしまっていたことは知らないし……)
珍しく、いや、長い付き合いの中で初めてか、ソルトに対して苛立ちを覚えた。
「…ソルトには、分からないよ……」
口を衝いて出た言葉。
ソルトが凍りついたように自分を見ているのを感じたが、止まらなかった。
「ソルトは燐の彼氏だけど、結局、他人なんだよ。
SFFの中に入っちゃってるワケでもないから、今、起こってることも、ソルトにはゲーム感覚なんだろうし」
言っている途中から既に、言い過ぎている自覚はあった。早くも反省までしていた。だが、止められなかった。
言葉が尽きたことで止まり、流れる沈黙。
ややして、
「……分かった」
背を向け言い残して、ログアウトしたのだろう、ソルトは姿を消した。
「…ソルト……! 」
消えたソルトの姿を追う硫黄。
(分かった、って、多分、それも分かってないよ……。あんなこと、言うつもりじゃなかったのに……)
「言い過ぎです」
へたり込んだ姿勢のまま、クランが静かに口を開く。
「あなたは、もっと大人な方であると思っていたのですが」
「……うん」
本当にその通りなので、何も言えない。
「自分でないのなら誰もが他人で、他人のことなど分からないのが普通。それでも理解しようと努め寄り添おうとしたソルトさんの態度は尊いものです。
分かる、と言い切ってしまったことが、あなたの気に障ったのでしょうけど、そこは汲んであげてもよかったのでは? 」
「…うん……。オレも、そう思うよ」
まだ痛みの残る頬に触れながら、硫黄は自分の心を見つめた。
「オレ、今、心に余裕が無くて……。ソルトに苛ついてたような気になってたけど、本当は、自分の無力さに苛ついてたのかも……。…完全に、八つ当たりだった……」
そうして黙り込んだ硫黄に、クランは小さく息を吐きつつ立ち上がり歩み寄って顔を覗き、
「厳しいことを言いました。 妹が行方知れずになって心に余裕が無くなるのも、ごく普通のことです」
優しく優しく微笑みかけた。
「さあ、行きましょう。山頂まで、あと少しです。人間の世界へ戻って、ソルトさんに謝りましょう。ぴいたんさんのことも、長官に相談すれば、きっと、何とかなります」