宇宙空間にて
「シンイチッ!! 逃げて!!」
ヘルメットの通信機から、俺の相棒、シィ=マワイの悲痛な叫びが聞こえる。
「いや!! ここは俺に任せて、お前が母艦に戻れ!!」
小惑星帯を縫うように駆ける銀色の影から何本かの光条がほとばしると、俺の機体に激しい振動が伝わってきた。
目の前のコンソールを、赤い緊急警報が染め上げる。
やられた。
外惑星間国家連合・クルペオイデの開発した液体金属弾、通称ビームショットだ。
だが、かすっただけだ。
まだやれる。
俺たちの乗る人型機動兵器・サーディンギアは、機体表面をスケイルと呼ばれるリアクティブアーマーで覆われているのだ。
衝撃を受けると鱗状に剥離して、ダメージを軽減するとともに磁場を帯びたまま機体周囲に滞留して、後続弾の威力を軽減する。
もともと宇宙塵や実体弾なんかの物理攻撃対策として発達したスケイルは、ビームショットには効果が薄いが、今のようにかすった程度ならどうということはない。
そんなことよりも、俺には困った問題が持ち上がっていた。
鼻が痒いのだ。
真空中での戦闘だ。万一の場合を考えて、サーディンギアには、簡易宇宙服を着て乗り込んでいる。
コクピット内は真空。空気を満たせないわけではないが、操縦者の生存可能時間が二割も短くなってしまう。
ヘルメットは硬化プラスチックで覆われ、もちろん気密されているから鼻は掻けない。
べつに、腫れているというわけでもなさそうだし、宇宙空間に虫刺されがあるはずもないのだが、どうしたものか今日に限って鼻が痒いのだ。
鼻のてっぺんの右側あたりに爪を立て、ボリボリと掻きむしれたらどんなに気持ちいいだろう。
そんなふうに思いながら、直径数キロの岩塊を回り込み、敵のうちの一機の後ろをとった。
「くらえっ!!」
放ったのはニードルマシンガン。
五寸釘サイズのタングステン鋼を、電磁誘導で撃ち出す武器だ。
ビームショットより遅く、むろん威力も低いが、光も熱も発しないのでこちらの位置を視認されにくい。直撃を食らった敵は、奇怪な形に手足をうねらせてから動きを止めた。
このような小惑星帯では、レーダーも効きにくい。視認されづらいというのは大きい。
こうやって岩塊を利用してこちらの動きを隠しつつ、忍び寄って一機ずつ仕留めていくしかないのだから。
どうやらシィはうまく逃げ切ったようだが、俺はこれで孤立した形になる。
それにしても、鼻が痒い。
緊張で汗ばんだせいか、痒みが増してきた気がする。もう我慢できん。
空気の無駄遣いは承知の上で、いっそのことコクピット内に空気を満たし、ヘルメットを外そうかと思い始めた時。
突然通信機が鳴った。救難用共通回線だと?
『シンイチ……シンイチ=タカクワだな?』
「そ……その声は……まさかトウゴウ? トウゴウ=イワシロか!?」
『覚えていてくれたか。十年……いや、十二年ぶりだな』
*** *** ***
うんこがしたい。
どんだけ腹が空いていたからといって、古くなった宇宙食なぞ、食べるもんじゃない。
この小惑星帯で、敵である内惑星間国家連合・アテリニーダの先遣隊を待ち伏せして二週間。俺たち、二十人編成の独立機動部隊は、かなり疲弊しきっていたのだ。
そんな中、偶然浮遊してきた前大戦の廃戦闘艦。
奇跡的にも船内に残っていた宇宙食は、これまた奇跡的に動いていたサブシステムによって、暖房された室内に放置されていた。
奇跡は一つでいいんだ。一つで。
いくら微生物の少ない宇宙空間とはいえ、居住スペースには汚物も病原体もある。
加えて外惑星に移住した俺たちは、内惑星と比べて無菌的空間で生活しているから、抵抗力も低い。
室温になって数年経過した宇宙食……いくら密封されてたとはいえ、まあ、腹くらい壊すわな。
だが、奇跡はさらにもう一度起きてくれた。
敵の小隊長が、どうやら以前暮らしていた中立エリアの小学校の同級生、シンイチ=タカクワであるようなのだ。
ここはなんとか戦闘を停止してもらい、あいつの乗ってきた母艦のトイレを借りよう。
もうなりふり構っていられない。救難用共通回線を使えば、敵の機体にも通信できるはず。
あっもうやばい。腹に強烈な差し込みが……
*** *** ***
『トウゴウ!! 何故、貴様がクルペオイデの士官なんだ!? あれほど……戦争はイヤだと言っていたのに!!』
俺は速度を上げて旋回しつつ、迫ってくる数機の誘導弾を、ニードルマシンガンで撃ち落としながら叫んだ。
依然として鼻が痒い。トウゴウのやつ、友達だって分かったんだったらさっさと撤退しろ。
「シンイチ!! とにかく、今は銃を収めてくれ!! こちらは既に君を取り囲んでいる。もう勝負は見えたんだ。君の母艦のところまで案内しろ!! そうすれば、友達のよしみで命までは奪わん!!」
頼む。お願い。降伏して。そして、母艦のトイレを貸してくれ。
そう心で叫びつつ、ヤツの行く手に向けて、ワイヤーグレネードを放つ。動きを封じれば、いくらなんでも降伏してくれるだろう。
『ふざけるな!! 仲間を売れるか!! それにここで貴様たちに屈するということは、この宙域を諦めることになる。そうなればここに橋頭堡を築き、内惑星宙域へと侵攻してくるつもりだろう!?』
グレネードが炸裂した。周囲に広がったスプリングワイヤーがマニピュレータに絡まったら身動きがとれなくなる。
俺はオプションの近接戦闘用武器、グングニルを振り回してワイヤーを絡め取った。
ああもうさっさと撤退してくれ。終わらせて鼻掻きてえ。
「そんなことはしない!! そもそも、先にこの宙域の岩塊を改造し、コロニー化し始めたのは、そっちだろう!!」
ああっまたお腹ゴロゴロいってる……こんな議論なんかしてる場合じゃないのにっ
俺は苦し紛れに胸部の重機銃を撃ちまくった。
『そ……それは、あくまで資源採掘のためだ!! 軍事目的じゃない!!』
機銃弾が右半身に命中。だが、スケイルのおかげで衝撃はあまり感じない。
だが、なんか難しい話になりそうだ。まいったな。鼻が痒くて戦闘にすら集中できねえのに、議論とか絶対無理。
「水掛け論はよそう……こういう話は政治家がすることだ。俺たち現場の人間は、命令に従うだけ……友人同士が銃を向け合う……哀しいな」
いっそもう、こっちが降伏してトイレ借りるか。だけど、戦況は圧倒的にこっちが有利だしなあ……絶対部下が変に思うぞこれ。
『……じゃあ、どうしようって言うんだ?』
おおっ? なんか話終わりそうじゃないか。
ちょっと見逃してくれりゃいいんだよ。鼻掻いたら、またすぐ戻ってくるからさ。
「頼む。お前の母艦の上官と話をさせてくれ」
トイレだけ貸してくれればいいんだ。
『その手に乗るかよ!!』
鼻が痒い。
*** *** ***
痒い。
デリケートゾーンがめっちゃ痒い。
何よコレ。
新しく使い始めたナプキン、超ムレるんですけど!?
何が新商品よ!! たしかに直接当たってる部分はスッキリしてるけど、回りの粘着部分がムレるムレる。
ナプキン剥がして掻きむしりたくっても、宇宙服の上からじゃどうしようもないし、母艦まではあと十数分はかかる計算。
置いてきたシンイチのことは心配だけど、それ以上にこの痒みをなんとかしないと、デブリも避けらんないってのよ!!
あーもう。
「いっきし!!」
くしゃみまで出た……ってウソでしょ!?
『ひすー ひすー ひすー』
鼻穴奥にへばりついてた紐状の鼻クソが、くしゃみで剥がれて半分だけ外にぃ!?
息をするたびに右鼻穴を出入りして、気になるったらないじゃない!!
このスーツじゃ鼻の穴なんか、どうやったって弄れっこないのに!!
出るんなら、まだ鼻汁の方がマシ。
もう絶対ダメコレ耐えらんない。早く母艦に戻ってスーツ脱がないとっ!!
*** *** ***
おしっこしたい。
何やってんだよあいつら。単なる偵察任務も出来ないのかよ。
シィもシンイチも、歴戦の勇士だっつーから安心してたってのに。
このまんまじゃ、第一種戦闘配置解けないだろ。
解けなきゃ、艦長といえどトイレ行けないだろうが。
いっそ、奴らの行った方向へ艦を進めるか。その方が、早く戦闘配備を解けるかも……
いやいや。もし戦闘中だったりしたら、さらに時間がかかるぞ。俺の膀胱、もうあと数分ももたねえし。
ここはいったん戦闘配備を解いておしっこしてから、連中の捜索を名目に艦を発進させよう……って、お? 通信!?
『戦闘艦エトルメリア!! 応答願います!! こちらは、第一機動小隊、シィ=マワイ二尉であります!! 艦長!! セグロ艦長!!』
「シィか!? どうした!?」
『待ち伏せされました!! タカクワ一尉は十一時の方向、五百キロの宙域で戦闘中!! 緊急着艦を要請します!!』
「緊急着艦!? 被弾か!?」
『え……ええまあ、そんなようなもんなので!!』
「よし、着艦を許可する!! 全艦に告げる。本艦はこれよりタカクワ一尉支援のため、現態勢維持のまま、戦闘宙域へ向かう。機関全速!!」
「了解!!」
……ってしまった。これじゃ俺、おしっこ行けないじゃん。
あ……だめだ……ちょっと沁みて……