9:コーラとオレンジジュース
ゴールデンウィーク初日の夜。
陽一は道場に行くと言って家を抜け出し、そのまま自転車で駅前のカラオケBOXに向かった。
脇の駐車場に自転車を止めてロビーに入ると、夏奈が既にソファーに座って、スマホをいじっているのが見えた。
それとなく周囲を見回す。連休初日ということもあってそれなりに混雑しているが、夏奈自身は誰かを連れている様子はない。一人のようだ。白いニットから桜色のセーターに着替え、足元もサンダルになっている。
「こんばんは」
陽一が声をかけると、夏奈は座ったまま顔を上げた。
「遅くない?」
「だいたい五分前だけど。あれ、八時って言ってなかった?」
「言ったけど。結果的にあたしは待ってるわけじゃない」
「悪かったよ」
「……まあいいわ。間に合ったんだから、許してあげる」
夏奈は小さくため息をついてスマホをしまった。なんでいちいち許されないといけないのかと陽一は少し不愉快に思ったが、今揉めてもしょうがないと思い直した。
「二名様でご予約の戸瀬様ー」
夏奈は店員に呼ばれてカウンターに向かう。
「ご予約は三時間でよろしかったですか?」
「はい」
「――え、長くない?」と陽一は後ろから尋ねたが、
「いいから、三時間で」と夏奈は重ねる。
「ドリンクは二人とものみほーね」
「ちょっとたんま」と陽一は夏奈の肩をつつく。「祝日夜だろ。三時間は費用的にきついって」
「経費で落とせばいいじゃない。探偵くん」
振り向いた夏奈のいじわるな笑顔に、こいつたかる気だなと陽一は合点がいった。
「女の子とカラオケ行きました、経費ください、で通るわけないだろ」
「情報提供者と会食しました経費くださいでなんとかなるでしょ」
陽一が一瞬言葉に詰まる間に、夏奈はさっさとマイクと部屋番号の入った籠を受け取ってしまった。
「ほら行きましょ。時間がもったいないから」
「……話終わったら切り上げるからね」
陽一はそう念押ししたが、軽やかにエレベーターへと歩いていく夏奈は聞こえた素振りを見せなかった。
たまらずエレベーターの中でこれみよがしに財布の中身を確認してみせたが、それでも夏奈は動じなかった。
「いろいろ教えてあげようってんだから。授業料としてはずいぶん安いと思うわよ」
「ない袖は振れないんだけど」
「バイト代入るんでしょ、高校生探偵くん」
「今の手持ちの話をしてるんだよ」
「じゃ、足りない分は貸しといてあげる」
「……がめついね」
「逞しいって意味? ありがと」
間髪入れずに畳みかけてくる夏奈に、陽一は口喧嘩で勝つことと、財布の中身を徐々に諦め始めた。
○
「魔法っていうのは、大雑把に言うなら物理法則とは別の法則のこと」
飲み物を用意してL字のソファーのテレビ側に座ると、夏奈はそう切り出した。
「そしてその法則で成り立っている世界を、葛葉ではざっくり魔界と呼んでるの。この辺は組織によって違うわね。宗教系の組織なら霊界とか。科学系の組織なら、干渉世界なんてカタカナで呼んでたりもする」
「干渉世界?」
「あたしも詳しくは知らないけど、要らぬおせっかい、うざいお隣、みたいな意味らしいわよ」
「ふうん……」
そっちに深入りしてもよく分からなそうだなと陽一は思った。
「なんでもいいや。君の入ってる葛葉って組織は何系なの」
「そりゃもちろん魔法系よ。陰陽道とか古式神道とか」
「……和風なんだ」
神道だったら宗教系じゃないのかと陽一は思ったが、どちらでもいいかと思い直した。
「まあそうね」
「じゃあ、戸瀬さんは陰陽師みたいなものなんだ」
「んー、どっちかというと、巫女さん」
「巫女さん……」
全然そんなイメージじゃないなと陽一は思った。
「なんか文句でもあるの?」と夏奈は目つきを鋭くする。
「べつに。で、さ。戸瀬さんはどうやって魔法を使ってるの」
陽一は追及を逃れつつ、疑問の本筋に話題を切り替えた。
「明らかに物理法則に反した糸とか使ってたけど。どうやってるのかな」
「気になる?」
「すごく」
陽一がそう言うと、夏奈は満足そうに微笑んだ。
「教えてあげてもいいけど、その前に一曲歌いなさいな」
「え……」
「えーっとね、男性アイドルのがいいな。こてこての、はっずかしいラブソング歌ってね。ラブい曲」
夏奈はにやつきながら端末を手に取り、テキパキと選曲し始める。
「なんでそういう取引になるのかな?」
こいつ、どうしても俺で遊び倒す気だなと、陽一はうんざりした。
「だってカラオケに来たんだから歌わないともったいないじゃない」と夏奈は理屈を言う。
「俺は内緒話するつもりで来たんだけど?」
「どっちもやればいいでしょ。だから三時間で予約取ったんだし」
夏奈は当然のようにそう言い返すと、勝手に一曲入れてしまった。
「お、この曲はぁ? セクシージュニアアイドルグループ『極東キッス』の『まーらいおん☆はーと』かなぁ? しょっぱなから冒険するわね」
「知らねーよそんな曲」
「ガイドボーカル入りだから。知らなくても歌えるね」
「……覚えとけよ」
○
陽一が唇を引きつらせながら二番のAメロを歌っていると、夏奈はおもむろに演奏中止のボタンを押して曲を止めた。
「いつまで歌ってんの?」
「……自分でやらせたんだろ」
このままマイク越しに怒鳴りつけてやろうかと思いつつも、陽一はスイッチを切って、マイクをテーブルに転がした。
「実際やらせてみると思ったよりおもしろくなかったわね。つまんない男。ノリ悪いし」
「君のためにおもしろおかしくなるくらいだったら死んだ方がましだ」
陽一はため息混じりにそう言った。
「それで? 何処まで話してたっけ。何も話が進んでなかったな。誰かのせいで」
「そうそう、そんな感じで突っかかってきなさいよ。やっと少し打ち解けてきたんじゃない?」
夏奈は陽一の敵意を素知らぬ顔で流して、ソファーの上を滑るように、陽一のすぐ隣にまでにじり寄ってきた。
「じゃ、そろそろまじめにやりましょう」
右の手のひらを仰向けにして、陽一に見せる。
「例えばあたしは現象として、何もないところから糸を出せるわけだけど」
夏奈の小指の先から、白く輝く糸の束が放出される。
糸は蛇のようにうねうねと空中を漂い、やがて陽一の手元に落ちていく。
陽一は落ちてきた糸を指先でつまみ、そのままぐりぐりといじくった。
手ごたえはある。視覚だけの幻には思えない。
「これは無から有を生み出しているわけじゃないの。この世界とは別の法則の世界、我々が言うところの魔界から、糸を引っ張ってきてるわけ」
「……」
「理解できない?」
「魔界というのが本当にあるとして――」
「仮定にすると話が進まないわよ。話が進まないの嫌いなんでしょ」
「……そうだな。魔界はある。魔法はある。で、君は魔法を使える」
「そゆこと。そういう認識は魔法使いの講義を聞くための前提条件なんだから、事前にあんたの方で整理してほしかったんだけどね。まあしょうがないか。脳筋探偵だし」
夏奈は手をひらひらさせて糸を消し去ると、腰を浮かせて、テーブルに置いてあるコーラとオレンジジュースを両手に持って座り直した。
「いいわ。整理が追いつかないんだったら、詳しく説明してあげる。このコップに入ったコーラがこの世界の物理法則だと思いなさいな。で、こっちのオレンジジュースが魔界の別の法則、いわゆる魔法ね」
夏奈はそのままオレンジジュースのコップを傾け、コーラのコップに少し注ぎ入れた。
「探偵くん、こっちのたくさん入った方のコップには、今何が入ってますか?」
「……コーラとオレンジジュースの混ざったもの」
「はい、そゆこと。コーラとオレンジジュースは混ざってしまいました。もちろんコーラとオレンジジュースは味が違う。炭酸が入ってたり入ってなかったりする。でもそういう名前や特徴の違いは、あるいは属性や存在そのものの違いは、それらが混ざり合わない理由にはならないの」
「物理法則と、魔法が、混ざり合っている……?」
「そう、それが、この世界の現実ね」
陽一はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて、納得した。
「説明、うまいね」
そう褒めると、夏奈は少し目を見開いてから、コップを静かにテーブルに置き直した。
「……べ、べつに。褒めても何も出ないけど」
「出してくれないと困るよ」と陽一は言った。
「魔法がどういうものかはある程度納得した。その上でもう一回質問するけど、戸瀬さんはどうやって魔法を使ってるの」
「……気になる?」
「うん」
陽一は、剣道の試合で相手に向けるような真剣なまなざしで夏奈を見つめながら、頷いた。
少しでも空気を緩ませると夏奈のペースになる。もう一曲と言い出されては敵わない。
夏奈は何度か口を開いて何かを言いかけたが、結局言葉にならずに、陽一から目を逸らした。
「今、コーラとオレンジジュースが混ざってるって言ったけど」
陽一は問い直して返答を促す。
「普通、コーラはコーラだよね。誰も魔法なんて使えない。なのにどうして君のコップにだけ、オレンジジュースが混ざってるんだろう」
「――あたしが混ぜたから」
夏奈がそう答えると、陽一はうんざりした様子で手を伸ばして端末を取った。
「まじめに答えないんなら歌ってもらうよ」
「なんであたしが」
「あ、下手なんだ」
「下手じゃないし。ってかまじめに答えてるから。この世界と魔界は生き物の幽現を媒介に繋がってるの」
「幽玄……?」
「言い換えるなら、自我、精神体、心、魂、そういうものを葛葉では幽現と呼んでるの。幽霊の幽に、現実の現ね」
「へえ、幽、現ね。――詳しく、お願い」
「いいけど。なんか急に偉そうになってない?」
「君がそうさせてるんだって」
「その、君って呼び方。なんか気取ってて嫌なんだけど」
夏奈はそう言って体を近づけ、陽一の手から端末を取り上げた。
「そう?」
陽一は少し意外に思った。気取ったつもりはなく、道場の影響だった。陽一の通う『陽示流』では、同輩や目下の相手に対しても、呼び捨てや「お前」を使わずに「君」を使う。そういう空気を好ましいと思ったし、それを自然に真似していたのだ。
「次に君って呼んだら続き歌わせるからね」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「うーん……。夏奈でいいわ」
「名前呼び捨て?」
「なんか不満? そうでもしないとあんた堅苦しいのよ」
陽一はしばらく眉間にしわを寄せていたが、やがて小さく息を吐き、諦めた。
「分かった。夏奈って呼ぶよ。そっちも好きに呼んだらいい。桜井でも陽一でも」
「ありがと探偵くん」
夏奈は澄ましてそう言うと、クスクスと小声で笑いながら口元に唇に手を当てた。
陽一は、夏奈との間にどうにもならない相性の悪さを感じたが、我慢して口元を綻ばせた。