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8:消失と喪失


 水飲み場でうつ伏せになって頭を擦り続けて、ようやくとりもちを落とした頃には、陽一はシャツまでびしょ濡れになってしまっていた。


「あーもー最悪」

 両手の自由を取り戻した夏奈は、手のとりもちの残滓を陽一のシャツに擦り付けて嫌がらせをする。

「そもそもね、棒にとりもち付けて猫を捕まえようなんて発想がありえないのよ。実は脳筋でしょあんた。普通は頑張って罠とか張るのよ? あたしみたいに……って、ああ!」

 夏奈は着ていたニットの裾を握って背中の方まで見回し、さっきのじゃれ合いでべっとりと付いてしまった陽一の血痕を見つけて目を尖らせた。

「このニット気に入ってるのに。どうすんのよこれ。弁償だからね」

 賑やかな奴だなと思いながら、陽一はそのまま手首の傷を水で洗い始める。

「バイトがうまく行けば弁償してあげないこともないけど、その前に、ひなみちゃんが薬局で買ってきてくれたものは全部、立て替えろよ。怪我の原因は君なんだから」

「それは……まあ。いいわよ? 悪いとは思ってるから」

 夏奈はショートパンツのポケットから白い小銭入れを取り出したが、しばらく中身を眺めてからまたしまいこんだ。

「えっとね、今度ね。近々五万入る予定だから」

「うやむやにしようとしています」

 ひなみちゃんはジャケットのポケットに入れていたレシートを取り出し、広げてみせた。

「借用書を書かせましょう」

「子どものくせに難しい言葉を……」

「ドラマで覚えました。それと、みーたんをギャクタイした罪で刑務所にも行ってもらいます」

 ひなみはそう告げると、口元を固く結んで夏奈を睨み上げる。

「虐待……。んー、そっか。そうよね。あんたにとってはアレはペットの猫なのか」

 夏奈は少しの間顎に手のひらを当てて考え込んでいたが、

「えーっと、ひなみちゃんだっけ。あの猫――」

「みーたんです」とひなみが割り込む。


「みーたんね。はいはい。そのみーたんが、本当にただの猫だと思ってる?」


 夏奈がそう尋ねると、ひなみは怒った顔のまま、凍り付いたように動かなくなってしまった。

「思ってないよね?」と夏奈は笑いかける。

「思ってるわけがない。アレは特別な猫なのよね。出たり消えたり、思いのまま。餌もいらない。眠りもしない。あんたの言葉を理解するけど、あんた以外には誰にも見えない。特別な、自分だけの猫」

「……嘘でも、妄想でもないです」

 ひなみは、ようやく動いた唇から、絞り出すような声でそう言った。

「ママには見えないけど、桜井さんには見えました。あなただって、いじめようとしました」

「そうよね。だからあんたは嬉しいけれど不安なはず」

 夏奈はひなみの前でしゃがみ込んで目線を合わせる。

「みーたんがどういう存在なのかも、特別な猫が見えるあたしたちが何者なのかも、何一つ分かってないでしょう?」

 夏奈の強い視線にひなみはひるみ、とうとう目を逸らしてしまう。

「みーたんがなんなのか知りたい?」迫る夏奈に、

「知りたく、ありません」ひなみは、小声で答える。

「あなたの口から、聞きたく、ありません」


「そう。なら、知らないままで探しなさいな」


 夏奈は左手を握り込んで顔の前まで持ってくると、ピンと小指を一本立てた。

 立てた小指の根元が淡く光り、瞬きをする間に、赤く染まった糸が輪っかになって結ばれているのが見えた。細い糸の先は蛇の鎌首のように素早く動いて、ひなみの手先にまとわりつく。

「ちょ、ちょっと! 何ですかこれ」

 ひなみは赤い糸に驚き、振り払おうとしたが、糸は右手の小指の付け根にしっかりと巻き付いて、いくら爪でこすっても取れなくなってしまっていた。

「これはね、魔法でできた約束の糸。――教えておいてあげる。猫はどんどん遠ざかるし、あんたの手には負えなくなる。それでも捕まえたかったら、そのときはあたしを呼びなさい。あたしが代わりに捕まえてあげるから」

「魔法の……?」

 ひなみは右手を開いたまま呆然としている。

「あんたにはこっち」

 夏奈はゆっくりと立ち上がりながら、陽一に向けてさりげなく右手を振った。

 陽一が何をされたのかと訝しむうちにも、濡れて張り付いた黒シャツに、白い糸が縫い止められていく。

 瞬く間に刺繍されたのは、何の変哲もない十一桁の数字だった。


「さっさとメモらないと消えちゃうからね。その数字」


 ――どうやら電話番号のようだと陽一は一拍遅れて気が付いた。

「いちいちシャツに穴開けるなよ――え?」


 自分の胸元から顔を上げた陽一の視界には、既に誰の姿も映っておらず、


「消え、ちゃいました……?」

 それはどうやら、ひなみの視界も同じようだった。

「何それ……信じられない」

 ひなみは自分の小指を見つめて、口元を歪めた。

 さっきまで結び付けられていたはずの赤い糸も、今は見えなくなっている。


「みーたん……」

 

 陽一とひなみは公園の水飲み場で、全身にまとわりつくような不安と非現実感に耐えながら、長い間呆然と立ち尽くしていた。

 


      ○


「休憩、しようか」

 やがて我に帰った陽一は、うつむいたままのひなみに声をかけた。

「暑いし、ファミレスでも行こう」

「はい……。そうですね」

 ひなみは消沈した面持ちだった。無理もないと陽一は思ったが、ひなみのこと以上に、手首のひりつく痛みと足先からぞわぞわと這い上がってくる虚無感をなんとかしたかった。

 文学的な比喩ではなく、世界観は本当に足元から崩れるのだと陽一は知った。まるで地面がガラス張りになったかのようだった。何処を踏んでも、かかとを踏ん張っても、落ち着けない。高い塔のてっぺんで片足立ちをしているような気分だった。どう転んでも、きっと無事では済まなさそうな。


 ベンチに戻ってリュックを回収し、どちらからともなく手をつないで歩く。アプリを起動すると、少し歩いた通り沿いにファミレスがあるようだった。

 ひなみに歩調を合わせて、ゆっくりと公園から出る。二人並んで歩くには少し狭い歩道だったが、陽一はひなみの手を離さなかった。この上ひなみまで消え去られてはたまったものではないと思った。


「うまく行きませんね」と歩きながらひなみは呟く。

「ママじゃなくて、高校生の探偵さんが一緒に探してくれるって聞いて、今度こそ行けるかもって思ってたんです。――本当は、いつだって探しに行けたんです。猫たちの視線には気付いてたから。一人でも、行けたんです。でも、なんだか怖くて……。辿った先にみーたんが居るって、分かっては、いたんですけど。でも、それがどういうことなのか分からなくて」


 陽一はひなみの独白を聞こうとしたが、うまく耳に入って来ない。

 頭の中では公園で体験した情景がぐるぐると早回しで空回っていた。


「みーたんとまた一緒に暮らしたいと思ってるのに、どうしてか、独りだと勇気が出なくて。だから、誰かに傍に居てほしかったんです。一緒に探してほしかった。でも、ママは、わざと、邪魔をするから。役に、立たないから」


 ――服部に喫茶店で話を持ち掛けられてからのあらゆることが、頭の中で勝手に滝のように流れ落ち、雨のように降り注いでくる。考えることが苦痛だったが、自分の意思では止められなかった。


「学校のみんなだって、こういう、大事な話ができる子なんて、いないから。だから、不安だったけど、楽しみにもしてたんです。――すごく、うれしかったです。私の話をさえぎらないでくれて。一緒に、黙って、探してくれて。きっと桜井さんがそういう人だから、私と一緒に探してくれたから、桜井さんにもみーたんが見えたんだと思うんです。でも……」


 滝つぼの飛沫に、食い違う情報が一滴、跳ねた。


”「いつから飼ってるの」

 「私が小学校に上がったときからです。ちょうど五歳くらいです」”


”『よし。なら話せるな。――ひなみちゃんは三歳の頃からみーたんと一緒に暮らしてきたんだ。というより、まどかさんが、娘が見えない猫と暮らしていることに気付いたのがその頃らしい』”


 ――ひなみちゃんは自分が五歳の頃から猫を飼い始めたと思っている。

 だが、まどかさんは娘が三歳の頃から猫と遊んでいるのを目撃している。


「だったらあの女は何なんでしょう」

 ひなみの手に力がこもる。

「すごく、嫌な感じです。みーたんは私の猫なのに。どうして知りもしない人に見えるんでしょう。私はあんな人知らなかったし、今だって、認めてないのに」


 つまり、みーたんは、ひなみちゃんの中で五歳の頃から猫になったのだ。


”「魔物は成長するものだし、成長したら例外なく宿主は狂うわよ。見た感じ、あの女の子、けっこう頭やられちゃってる感じじゃない。さっさと引き剝がしてあげないと手遅れになるわよ」”


 それまでは、実は猫ですらなく。

 ひなみちゃんと一緒に遊ぶ、得体の知れないナニカだったのだ。


「ひなみちゃんによって猫になったけど、ひなみちゃんから生まれたものではない……?」


 陽一が我知らずにそう呟くと、繋がっているひなみの右手がビクンと跳ねた。

「え……?」

 陽一が気付いて顔を向けると、ひなみの顔は蒼白になっていた。

「ごめん、深い意味があるわけじゃないんだ。ただの憶測で……」

 言い訳を並べる陽一をよそに、ひなみは立ち止まり、震える左手で前方を指さした。


 そこには一匹の黒猫が居て、

 真正面から、黄色い目を光らせて、立ちすくむ二人を見つめていた。


「――行こう、ひなみちゃん」

 陽一は黒猫を睨みつける。

「まっすぐ後ろだ。視線の向く方に行けばいいんだろう?」

「……やです」

 ひなみは小さく首を振る。

「嫌です。今日は、もう……勇気が出ません……」

 ひなみは小声でそう言うと、足元にしゃがみ込んでしまう。

 

 陽一はひなみの手を握りながら、ゆっくりと後ろを振り返り、猫の視線の先を追った。

 残念ながらロシアンブルーの姿はなく、代わりに、何人かの子供たちがはしゃぎながら公園に走り込んでいくのが見えた。

 夏奈が公園にかけた人払いの魔法とやらは、もう解けてしまったらしい。

 

「ごめん、休憩に行くんだったね」

 陽一は優しい声音を意識して、自分もしゃがみ込んだが、

「……ごめんなさい」

 ひなみは苦しそうに肩で呼吸しながら、目をうるませるばかりだった。

 陽一はひなみの背中をさすって少しでも落ち着かせようとしながら、

 視界の端で黒猫の姿を探した。

 黒猫はまだ目の前の歩道にいたが、

 やがて退屈したかのように大きくあくびをすると、

 身をひるがえして車道を横切り、そのまま反対側の横道に姿を消してしまった。


「なんで逃げるの……みーたん……」


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