5、青い猫と赤い糸
ジャングルジムの隣には一対のシーソーがあり、叫び声を上げたのは、その真ん中に腰かけていた少女だった。アイボリーホワイトのニットを着て、デニムのショートパンツに茶色のブーツを合わせている。格好は大人びているが、背は低く、顔つきも幼い。せいぜい中学生くらいの印象だった。
「その中に入るなってば!」
ショートボブの髪の先を苛立たしげにいじりながら、少女は公園に轟くような大声で言う。
だが、ひなみの耳には入っていない。ジャングルジムの上の猫をめがけてまっしぐらに駆け寄っていく。
――その中、という少女の言葉の意味が、陽一にはよく分からない。そもそも何のために叫んでいるのかも分からなかった。
突然現れた意味不明な少女のことよりも、陽一は猫の方が気になった。下から見える限りでは、何の変哲もない青灰色のロシアンブルーだ。ひなみの妄想の産物ではなく、自分の目にも映っている。
にも関わらず、陽一にはまだ確信が持てなかった。
捕まえてこの手で抱けば、少しはしっくり来るのだろうか。――あれが存在しているということが。
「みーたん!」
ひなみは焦りのせいか、ジャングルジムの手前で足をもつれさせて転んでしまった。
陽一が慌てて傍まで駆け寄ると、ひなみの足に光る糸のようなものがまとわりついているのが見えた。
「大丈夫?」
「平気です……」
ひなみは左膝を擦りむいてしまったようで、手のひらで強く抑えながら、それでも立ち上がろうとする。
「あ……れ?」
だが、立ち上がろうとした腰はストンと抜けてしまった。
足だけではない。いつの間にか、ひなみの腰や肘にまで光る糸がまとわりついている。
「何これ……」
ひなみは腕に絡みつく糸を取ろうとするが、糸はそのたびにきつくひなみの体を締め付けていく。服の上から強く食い込み、尻餅をついたままのひなみを地面に縫い止めてしまう。
「みーたん……」
ひなみの視線はそんな異常な状況にも関わらず、ジャングルジムの上のロシアンブルーに注がれていた。陽一はその据わった視線が、今までひなみを導いてきた猫たちと同じものだと気づき、ぞっとした。
自分の体に起こっている異常事態よりも、
あの猫のところにたどり着けるかの方が、ひなみにとって大事なのだ。
「穴ができた。あんたらのせいよ!」
少女は叫ぶと、指揮棒でも振るかのように右手を大きく顔の前まで持ち上げた。すると、ジャングルジムの周囲の地面から砂埃が起こり、無数の細い糸が陽光をキラキラと反射させながら空中にまき散らされていく。
ロシアンブルーはそれに反応して機敏に動いた。ジャングルジムの隙間を縫って斜め下に駆ける。まっすぐひなみの方に向かって来る。
「みーたん、そうよ、こっちよ」
ひなみは歯を食いしばって両腕に力を込め、ロシアンブルーを抱き留めようとする。だが糸の拘束は強く、指一本を持ち上げることもできそうにない。
「読めてるわよ!」
少女は人差し指をひなみに向け、そこから斜め上へと動かす。その途端、ひなみにまとわりついていた糸が一斉に解け、蛸が脚を広げるかのように幾つかの束にまとまり、四方八方からロシアンブルーへと襲い掛かる。
――速い。
陽一は現象の意味を理解できないままに、猫と糸の動きを目で追った。まっすぐこちらに向かってくる猫の左前足に糸の束が触れる。――捕まる。そう思った瞬間、猫は手足を縮めて空中でくるりと回った。空振りした糸の束を目で追った陽一が視線を戻したときには、もう猫の姿は消えている。
――何処に?
「戻ってきた。……戻ってきてくれたんだね」
気が付くと、ひなみがお腹に何かを隠しているかのように体をまるめて地面にうつ伏せになっている。
「邪魔よ!」
蛇の頭のように太く二本にまとまった糸の束が、上空からひなみに襲い掛かる。陽一の思考はその不可思議な現象に付いていけなかった。ただ、彼の両手は反応した。剣道で鍛えた動体視力と反射神経が糸の束を掴もうと動く。そして糸もまた、縮こまっているひなみではなく、素早くこちらに向かってくる両腕の方に絡みついていく。
「邪魔すんなってば!」
糸の滑らかな手触りと血が止まりそうな締め付けの強さに陽一は顔をしかめたが、次の瞬間、それどころではない光景に、口を半開きにして呼吸を止めた。
ジャケットをまとったひなみの背中から、
青い目をしたロシアンブルーの顔面が、突き出ている。
形の良い鼻梁、つぶらな青い目、灰色がかった青い毛並みに色素の薄い髭。
「なん……で……」
頭が真っ白になった陽一は、それでも、ひなみの背中からぬるりと脚を抜き出す猫の動きを、目で追った。
「みーたん?」
ロシアンブルーは跳躍し、ひなみの体から完全に抜け出した。そのいかにも自然な動物じみた動きに陽一は嫌悪を覚え、そしてそれ以上に、猫が自分の腹を目がけて跳躍してくることに鳥肌が立った。
胴打ちで一本取られるときの、手遅れが寒気に変わる感覚。
猫が腹から体に入り、そして背中から出ていくまでの一瞬、陽一は何度も味わったその感覚を濃密に味わい直した。まるで本当に刀で貫かれたような、得体の知れない虚脱感。全身の鳥肌が抑えきれなくなり、手足は勝手に、小刻みに震えた。
「あーくそ、逃げられたぁ!」
少女は腰かけていたシーソーから立ち上がる。
「信じられない。あの猫追い詰めるために何日かけたと思ってるの。あんたらのせいで全部台無しじゃない」
「みーたん?」
ひなみはこの世の終わりのように目を見開いて、体を掻き抱きながら振り返った。
「あの、今、みーたんって、もしかして、桜井さんの体の中ですか?」
狂ったようなその言い回しは、しかし、陽一には自然に理解できるものだった。
「――いや、俺の背中から、逃げてった」
陽一がそう告げると、ひなみは擦りむいた膝を押さえながら、静かにうつむいて唇を噛んだ。
目元から一筋の涙が流れるのを、陽一は目で追った。
「無視してんじゃないわよ」
少女は右手の人差し指と中指を立て、顔の前から斜め下に引き下ろした。糸の束がそれに連動して機敏に動き、陽一の両手を引きずる。
腕が抜けるかと思うような衝撃に耐えかね、陽一は地面に這いつくばらされた。
「あんたらが何処の組織の誰だろうと、ただじゃ済まさないからね。あたしの邪魔をしたんだから」
少女は左手の人差し指と親指を、ネジを回すかのようにくるくると動かした。次第に引き絞られていく糸は陽一の両手首の血を止め、皮膚を破って激痛を走らせる。
その痛みでようやく少し、陽一の混乱は落ち着いた。
だが冷静にはなれなかった。
(――糸で捕まっているから逃げられない。
腕が封じられているから、脚で蹴るしかない)
断片的で戦術的な理解と共に体を起こした陽一は、さっきの猫のようにまっすぐに、得体の知れない少女に向かって駆けた。怒りというよりも、逃避だった。何かに向けて体を動かさないと、考えたくもないことを考えてしまうような気がした。それはあまりにも苦痛を伴う思考に思えた。
「読めてるってーの!」
少女は右手の人差し指を頭の上までピンと跳ね上げた。
すぐさま糸の束がその動きに連動する。陽一は空中に吊り上げられ、脚をジタバタさせることしかできなくなってしまった。
「どうしてやろうかしらね。ほんと憎たらしいったら――」
少女は嗜虐的な笑みを浮かべながらゆっくりと陽一に近づいていく。
だが、その笑みは長くは続かなかった。
半透明だった糸の束が、陽一の血を吸い上げるかのように鮮やかな赤色に染まっていく。
「嘘――なにこれ。対抗魔法?」
少女は慌てて陽一を縛る糸を解こうとしたが、
「みーたんも、そうやって、いじめたの?」
いつの間にか立ち上がったひなみから向けられる、子供らしい容赦のない殺気に気が付いた。
(この子も使えるの?)
少女の指先から新たな糸の束が飛び出す。二人目の得体の知れない敵に対応しようとした少女のとっさの判断は、
「――あ」
結果的には間違っていた。
毛細管現象のようにあっという間の速度で糸を伝った鮮やかな赤色が、少女の手元にまで届いた途端、彼女の全身から力が抜けていく。
「――え?」
視界がぶれ、混濁し始めた少女の意識。
それとは裏腹に、地に足がついた陽一の思考はシンプルだった。
(なんだかよく分からないけど、勝機だ)
駆け寄った陽一は、ぐったりと口の端からよだれを垂らしている少女に向けて、拳を振りかぶった。
――しかし、
(勝機……なのにな)
陽一は結局拳を振り下ろすことはできず、小さくため息をついて、痛む手首をさすった。
「優しいんですね」
ひなみはずいずい少女のところまで歩いてくると、容赦なく右手を振り上げる。
「私は殴りますよ。このネコギャクタイ女。絶対に許さない」
少し背伸びしながら放たれたビンタが、少女の左頬に音高く炸裂した。少女はろくに反応もできずにふらつき、そのまま膝から崩れ落ちる。
「もっと殴ってやろうかな」
「そのくらいでいいよ」
陽一はひなみの肩に手を置き、思いとどまらせながら、一体何を何処から考えたらいいものかと途方に暮れた。
惚けるうちに、ポケットに入れていたスマホが小さく震える。
取り出してみると、服部から返信が着ていた。
『そりゃ巻き込んでるけどさ、面倒だから仕事になるんだよ、少年探偵くん』