4、猫の視線の先の猫
「あ、白猫だ」とひなみが立ち止まる。
そう歩かないうちに、一匹の猫が一軒家のガレージで背伸びをしているのを見つけた。
雪のように真っ白な体を地面にこすりつけて、ずいぶんとご機嫌らしい。首には赤い首輪が付けられている。この家の飼い猫なのだろうか。門構えも立派な三階建てで、猫を飼う経済的な余裕はあるように見える。
「猫さん、逃げないかな」
ひなみは渡したマタタビの袋を少しちぎって、手のひらに振りかけ、白猫の元に駆け寄っていった。
白猫は特に警戒する様子もなく、自分からひなみに頭を向ける。ひなみが手のひらを差し出すと、ぺろぺろと舌を出して舐め始める。
「あはっ、くすぐったい」
ひなみは楽しげに舐めさせながら、もう片方の手でこれでもかと白猫の胴体をさすり始める。
陽一はその様子を眺めながら、「探すのがバイトだ。見つかる、見つからないは結果だから」という服部の言葉を思い返した。
みーたんが実在するなら話は簡単だ。見つければ成功報酬が手に入り、見つけられなければ手に入らない。
だが、元々みーたんが実在しない猫だったとするならば――。
(服部さんと安城さんは、俺に何をさせたいんだ?)
実在しない猫が見つかる訳がない。成功報酬ははなから望めないということになる。
だが、――成功報酬は用意されている。
考え方としては、二通り。一つ目は、担がれているだけという考え方。安城まどかは娘の気晴らしのために存在しない猫を探させて、お茶を濁しているだけ。成功報酬はただの釣り。
「ねぇ、君、みーたん知らない。珍しい、青い猫なの。私の猫なの。きっと、お腹減ってると思うの」
ひなみはしゃがみながら、少し切なそうに猫を撫で続けている。
もう一つは、猫が実在しようと、しなかろうと、ひなみの気が済めば、それで成功という考え方だ。
(「あの子が納得するかどうかが大事なところなんだよね」
――そう安城さんは言っていた。
言葉通りに受け取るなら、ひなみちゃんにみーたんのことを諦めさせることができれば、それが成功ということになる。
安城さんが長い間、みーたんを存在するものとして娘の妄想に付き合っていたのなら、面と向かって「本当はみーたんはいない」と告げることはやりにくいだろう。だからバイトを雇って一緒に探させてみる。バイトが娘と一緒にまじめに猫を探すだけなら、状況は進展しない。その場合の報酬が一万。バイトが猫の非存在に気付いて、娘に真実を告げ、諦めさせる。その場合の報酬が六万)
――深読みのし過ぎか?
陽一はひなみの様子を改めて観察する。取り立てて変なところは見受けられない。むしろ人懐っこく、小学生にしては頭も回る方だという印象も受ける。
妄想の猫を飼うことは、小学生の女の子にはありえることなのだろうか。陽一は判断に困った。自分が小学生だった頃は、男友達ばかりと遊んで、仲のいい女子は一人もいなかったからだ。
常識的に考えれば、小学校の高学年ともなれば、そういう妄想とは縁を切っているように思える。周りの客観的な目に負けて、続けられなくなるだろう。いくらいると言い張ったところで、他の人に見えなければ、それはいないも同然だ。
「桜井さん」
いつの間にか、ひなみが顔を上げている。
「どうしたの?」
「この白猫さん、ちょっと、おかしいんです」
「おかしい?」
ひなみは真剣そのものの口調で、手元の白猫に目を落とした。
白猫はひなみの手のひらを舐めるのをやめて、じっと遠く、一点を見つめているようだった。思わずその視線の先を目で追ったが、ハス向かいの一軒家があるだけで、特に目立ったものはない。
「ひょっとして、みーたんの居場所を、目で教えてくれてるんじゃないでしょうか」
「え、そんなまさか……」
陽一はそう言って目を輝かせるひなみに、少し、引いてしまった。
「そうだよね、白猫さん」
ひなみがそう言って喉を撫でると、白猫は喉をゴロゴロと鳴らしてから、「うにゃーん」とあくびついでのように大口を開けて、間抜けな声を出した。
だが、その間も視線だけはぶれることなく、遠い一点を見つめている。
「あっちの方角ですね。行ってみましょう。ありがとう白猫さん」
ひなみはお別れに白猫の頭をポンポンと叩くと、立ち上がって、陽一に笑いかけた。
「早速手がかりが見つかりましたね。行きましょう」
「……ああ、うん」
陽一は面食らってしまい、ひなみにうまく答えることができず、曖昧に頷いてしまった。
ひなみは上機嫌で足取り軽く歩き続ける。仕方なく後を追いながら、どうしたものかと陽一は困った。
みーたんがやはり妄想なのだとしたら、その妄想を解くのは、容易なことではなさそうだった。
○
陽一の困惑をよそに、意外なことにも、捜索の糸は続いていく。
角を幾つか折れた先、白猫の視線の先にいたのは、内科医院の看板の傍で箱座りをしている薄汚れた三毛猫だった。首輪もしていないし、猜疑心の強そうな険のある目つきをしている。
にも関わらず、ひなみがマタタビを手のひらに振りかけて近づくと、三毛猫はあっさりとひっくり返り、お腹を見せて手のひらを舐めまわし始める。
「すごいです、マタタビってこんなに効き目があるんですね」
「ああ……すごい効き目だね」
陽一は、薄気味悪さのせいか、自分の呼吸が荒くなっていることに気付いた。頭の端で、野良猫にさわるのは衛生上あんまり良くないよななどと実際的なことを考えていたが、それも何処か、現実逃避のように、上滑った考えに思えた。
三毛猫の瞳は、また、遠くの一点を見つめている。
「今度はあっち、ですね。ありがとう、みけさん」
ひなみは三毛猫の頭を撫でて、立ち上がる。
「行きましょう。だんだん、近づいている気がします」
「――そうかもね」
陽一はため息混じりにそう答え、黙ってひなみの少し後ろを歩くばかりだった。
次の猫は、黒猫だった。大通りの道端に設置された道祖神の祠の屋根で、ぐったりと背中を丸めている。毛並みは良さそうだが、首輪は付けていなかった。
「お昼寝ですかー?」
ひなみは例によって無造作に、マタタビを手のひらにつけて近づいていく。
黒猫はチロリと手のひらを舐めてから、「んにゃーお」と何度もうるさく鳴いて、それから視線を固定した。――まっすぐ、太陽が照っている東南の方へ。
「あっちは――小川公園のある方ですよね。あっちに行けばいいんですね?」
ひなみがそう尋ねると、黒猫はひっきりなしに手足をばたつかせて、まばたきをしながら太陽の方を見つめ続ける。黄色い目の細くなった瞳孔は、じっと見つめていると不吉に思えて、陽一は視線を切った。
「じゃ、行こうか。次は小川公園かな」
「はい」
ひなみは嬉しそうに頷くと、お別れに黒猫の喉を撫でてから、歩き始める。
また少し先を歩くのかと思っていたが、陽一と歩調を合わせて、隣の位置をキープしている。
「……変だって、思ってます?」
交差点の信号待ちで、ひなみが不意に口を開いた。
「――まあ、そりゃね」
陽一は頷く。
「いつも、こういう探し方をしてたの?」
「こんなにうまく行ってるのは初めてなんです」とひなみは答えた。
「ママはいつも邪魔するから。猫の見てる方とは関係ない方に行こうとするし、私が野良猫に近づくの嫌がるし。――猫さんたちも、ママがいると、ママが近づくとすぐに逃げちゃうの。だから、役に立たないんです。猫と私が通じ合ってるって、信じてくれないの」
信号が青に変わる。
ひなみは歩きながら、口調も速める。
「ママのやり方じゃ見つからないって、分かってたんです。でも、私一人でも、うまく行かないの。……一人で歩いてると、何故だか、猫が見つからなくて。どうしようもなかったんです。一人でもダメ、ママともダメ、だから、どうしても、他の誰かが必要で……」
他の誰か、というところに、陽一は切なさを覚えた。
「――友達じゃ、ダメだったの?」
「……こんな大事なこと、みーたんのことは、誰にも秘密にしてるんです。本当に大事なことは、内緒なんです。ママだけには話してたのに、でも、役に立たないから。――ほんの少し、好きにさせてくれるだけで、きっとみーたんは見つかったのに」
ひなみは少し涙目になりながら、どんどん足を速めて歩いていく。
陽一も、合わせて足を速めながら、隣の位置をキープした。
「俺は、このまま、ひなみちゃんの探し方を見守ればいいんだね?」
「はい。そうしていただけると、助かります。ごめんなさい、探偵さんには探偵さんの探し方があるんですよね。でも、たぶん、これが一番早いと思うんです。猫のことは、猫が知ってるから。マタタビだって上げたから、きっと嘘はつきません。視線の先にはみーたんがいるはずなんです。私には分かるんです」
陽一は、迷ったあげく、それ以上の追及はしないでおいた。
(ひなみちゃんの妄想は、おそらく元々、自壊しかけていたのだろう。ひな祭りに買ってもらったゲームの方が妄想の猫よりも大事になった。たぶん真相はそれだけのことで、そしてそれは、年齢から考えれば自然なことだ。
視線の先に、きっとみーたんはいないだろう。猫たちはマタタビで目つきがおかしくなっていただけだ。
自分という見知らぬ高校生を証人に、ひなみちゃんは、思い知るのだろう。妄想の猫はゲームの代わりに逃げてしまって、それはもう二度と、手に入らないものだということを)
猫の視線の先に、猫がいるなんて、偶然だ。
――偶然が三回続くこともある。
○
三回では済まなかった。
「みーたん!」
件の猫は、あっさりと、公園のジャングルジムの上で見つかった。
背筋をピンと伸ばしたロシアンブルーが、真っすぐに、呼びかけた飼い主を見下ろしている。
「みーたん! 逃げないで! そこにいて!」
ひなみは必死になって新しいマタタビの袋を破り、躊躇なく頭から振りかけて、ジャングルジムに駆け寄っていく。
陽一は必死なひなみをよそに、自分の推理が破たんしたことに動揺して、凍り付いたように立ち尽くすばかりだった。
猫の視線の先には、またしても猫がいて。
みーたんは、妄想の産物ではなかったのだ。
(独り相撲、だったのか……?
変だったのはひなみではなく――俺?)
「ダメ! 入って来るな!」
陽一を現実に引き戻したのは、唐突な、女の叫び声だった。