3、駆け出し探偵なりの推理
「麦茶は美味しいですよね」とひなみは言う。
「シンプルでとても美味しいと思います」
母親に似た柔らかい、邪気のない笑顔を向けてくるひなみ。
「そうだね」
陽一は目をそらしながら、それとなく子供部屋の様子を見回した。年季を感じる学習机に、辞書や分厚い図鑑が入ったラック。片付いた床や整えられたベッドからして、まじめそうな印象を受ける。ベッドカバーやカーペット、カーテンはピンク系で統一されていて、それだけ見ると女の子らしい部屋だが、ロシアンブルーとは少し色味が合わないかもなと陽一は思った。
「探偵さんは名刺とかありますか? ママはたくさん作ってるんですけど」
ひなみの期待混じりの催促に、陽一は正座に座り直した。
「名刺は作ってないんだ。桜井陽一と言います。よろしくね、ひなみちゃん」
「はい、よろしくお願いします」
ひなみもつられたように女の子座りから正座に座り直して、小さく頭を下げた。
「いいよ、楽にして」
カーペットの上とはいえ、正座は辛いだろうと思い、陽一は先にあぐらを掻いた。
「そうですか?」
ひなみはハイソックスのたるみを手早く直してから、麦茶の置いてある小さなテーブル越しに座り直した。
「まず言っておくけど、俺は探偵としてはまだまだ駆け出しでね。一生懸命やるつもりだけど、まどかさんより腕は落ちるから、その」
そもそも探偵でもなんでもないのだが、とは、この喜びようの前ではなかなか口に出せなかった。
「謙遜しないでください。ママの探偵事務所の人たちってみなさんすごいんですから。ママはちょっとへぼだけど、いろんな仲間の人に助けてもらって探偵やれてるっていつも言ってます。だからママが紹介してくれた探偵さんならママよりすごい探偵さんのはずなんです。そういうところはママを信用してますから」
ひなみは早口で、胸に手を当てながらそんなことを言う。
娘に与えるものとしては素晴らしい言葉だなと思いながらも、陽一は精一杯の苦笑いを浮かべた。
「まあ、とにかく頑張るよ。で、幾つか確認したいことがあるんだけど、いいかな」
「はい。なんでも聞いてください」
「みーたんがいなくなった時のこと、詳しく聞かせてもらっていい?」
期待のままにそれっぽい体裁を整えようとしている自分にうすら寒いものを感じながらも、陽一はそう尋ねた。
「はい」
途端に、ひなみの顔から笑顔が消えた。
「三月三日の、ひなまつりの日でした。ママは毎年ひな人形の代わりにゲームを買ってくれるんですけど、それがちょうど宅配便で届いたんです。夕方でした……。いつもならドアを開けても外に出ようなんてしなかったのに、いきなり、すごい速さで外に飛び出して……。いっしょうけんめい追いかけたんですけど、アパートの一階に下りたときにはもう、見失っちゃってて」
なんでうっかりドアなんか開けちゃったんだろうと、ひなみは深くため息をついた。
「ゲーム楽しみだったけど、ゲームの代わりにみーたんがいなくなるなんてあんまりです。なんだか、私がゲームで一人で遊ぶの楽しみにしてたから、みーたんが怒ったんじゃないかって、思って。バカっぽいかもしれないですけど、あの日からゲームもやめてるし、ちゃんと毎日探しに出てるし……」
ひなみの声は徐々に小さくなっていく。
きっと責任感の強いタイプなのだろうと陽一は思った。小学生らしい少し上滑った答えではあったが、猫のせいにも、自分以外の誰かのせいにもしていない。むしろ、無理に自分のせいにしようとして理屈が変になっているようだった。
「分かった。――みーたん、完全室内飼いの猫なんだよね」
「そうです。子猫のときからずっと」
「いつから飼ってるの」
「私が小学校に上がったときからです。ちょうど五歳くらいです」
「了解。じゃ、家の近くにいたとしても、迷子になっている可能性はあるね」
「……はい」
他に聞くべきことはあるだろうかと、陽一は、丁寧に掃除機がかけられた、猫の毛一本落ちていないカーペットを手探りながら考えた。
「みーたんの好物ってある?」
「はい。みーたんは煮干しが好きなんです。持って来ますね」
と言うなりひなみは立ち上がって、小走りで部屋を出ていってしまった。
べつに持ってこなくてもいいのになと思いつつ、陽一は立ち上がって、もう一度部屋の中を見回した。見える範囲には猫じゃらしのようなおもちゃも、毛すきや歯磨きシートも見当たらなかった。
ひなみの後を追って廊下に出る。突き当たりのドアは開けっぱなしで、そこがカウンターキッチン付きのリビングになっているようだった。大きなテレビと、座り心地の良さそうな白いソファーが目に付く。床はフローリングで、やはり掃除が行き届いている。
「たしかこの辺りに――」
ひなみはキッチンの棚を漁り続けている。キッチンに入って目についたのは、冷蔵庫に貼り付けられたホワイトボードだった。『今日のごはん』、その下に『しょーがやき、おみそしる、ポテトサラダ』と子供っぽい丸文字がマジックで書かれている。
「ひょっとして、ひなみちゃんって料理作れる?」
「はい。料理は得意ですよ。ママの好物ならだいたいなんでも作れます」
「すごいな」
うまいこと教育しているなと感心しているうちに、ひなみは消沈した面持ちで、あちこち開けた戸棚を一つずつ閉じていった。
「すみません、見つからないです」
「大丈夫、なくてもなんとかなるよ」
「でも、手がかりになるかもしれなかったんですよね。……ごめんなさい、実は、こないだ、みーたんの使ってたもの、いくつか、捨てちゃったんです。猫じゃらしとか、トイレとか、見てると、辛くなって……。煮干しもそのときに一緒に捨てちゃったのかもしれません」
「捨てちゃった……。そうなんだ」
「すみません」
小声でそう言ってうつむくひなみに、陽一はしゃがみ込んで目線を合わせた。
「大丈夫だよ。今日は秘密兵器持ってきたから」
ズボンの尻ポケットから、粉末マタタビを三袋取り出して、ひなみに見せる。
「昨日ペットショップで買ってきたんだ。これでうまいこと猫が寄ってくるかもしれない」
「マタタビ! すごいです」
ひなみは、それこそ猫のように素早くマタタビの袋を引っ掴んでしげしげと眺めた。
「これは、どうやって使うんですか?」
「そうだな……。とりあえず一袋分、出かける前に手にこすりつけてみようか」
「はい! そうかマタタビ……。思いつかなかったなぁ。さすがは名探偵さんですね!」
「うん、まあね」
ひなみはすっかり機嫌を直して立ち上がり、陽一に微笑みかける。
「お茶を飲んだら、さっそく、探しに行きませんか。私、なんだか今日は見つかる気がするんです。桜井さんのおかげです」
「そうだね。行こうか」
小学生くらいの子供ってこんなにテンションの切り替わりが激しかったっけと、少しこそばゆく思いながら、陽一は立ち上がった。
マタタビくらいで捕まえられる自信はまるでなかった。
○
ひなみはドアのカギをしっかりと閉めて、クリーム色のポシェットの外ポケットに入れた。
「可愛いポシェットだね」と陽一は褒める。
「ママが去年の誕生日に買ってくれたんです」とひなみは笑う。「一緒にデパートに買いに行って、自分で選んだんですよ。似合ってます?」
「うん。とっても。小さいけど、いろいろたくさん入りそうだね。――そうだ、ひなみちゃんってスマホ持ってる? 万が一はぐれたときのために、連絡先知りたいんだけど」
「……大胆ですね」とひなみは玄関先でたじろいだ。
「え?」
「いえ、なんでもないです。番号教えますね」
ひなみはポシェットから赤いカバーのかかったスマホを取り出す。陽一は番号を交換しながら、それとなくひなみのスマホを確認した。おそらく子供向けの通信制限くらいは付いているのだろうが、機種は一般的なそれで、陽一のものと比べても遜色ない、比較的新しいもののようだった。
「男の人と番号教え合うのって、ちょっと照れますね」
「そうなんだ。クラスの男子とか、教え合ったりしないの?」
「するわけないです、そんなの」
ひなみは大げさにかぶりを振って、
「そう言えば、桜井さんの、ずいぶん重そうなリュックですよね」
と、唐突に話題を逸らした。
「さっきから気になってたんですけど、何が入ってるんですか?」
「いろいろだよ。開けてみる?」
「はい」
陽一は部屋の前でリュックを下ろし、マジックテープを剥がして括り紐を広げた。
「これ、何ですか?」
ひなみの目に留まったのは白いプラスチックのステッキだった。
「昔、土産物屋で買った飛び出し式のマジックステッキだよ」
「まさか……これで叩いてつかまえるんですか?」
ひなみは瞳を不安げに瞬かせる。
「違うよ。奥の方に、とりもちが入ってるでしょ」
陽一はリュックを手探りして、とりもちが入った容器を取り出してみせた。
「これをステッキの先につけて捕まえるんだよ」
「とりもち……?」
「ぴたって引っ付いて、水をかけないとなかなか取れない、おもちみたいなもの。普通はネズミ捕りなんかに使うんだけど、まあ猫でも捕れないことはないかなと思って、持ってきたんだ」
――去年の秋、剣道場にネズミが出たというので騒ぎになったことがあったのだ。そのときに買われて、そのまま倉庫に残っていたとりもちを、少し借りることにしたのだった。
「そんなことしなくても、みーたんは、私が呼んだら逃げたりしないですよ?」とひなみは言う。
「念のためだよ。あとはポスターと厚手の手袋とタオルと、いちおう猫缶も。お腹空いてるかもしれないからね」
陽一は朝にまどかに念押しするのを忘れていたが、請求すれば経費は払ってもらえるということだったので、それなりに準備をしてきたのだった。
「さすがは名探偵さんですね。七つ道具をきちんと用意して……。やっぱりママとは違うなぁ」
ひなみは口を尖らせながら、ステッキをリュックの中に戻す。
「ママとも何度も探し歩いたんですけど、なんだか、その、もっと真剣に探してほしかったっていうか。ママっていつもあんな感じだから」
「……明るい人だよね」
「明るいとか、そういうことじゃなくて。なんて言うのかな。ちゃんと考えてないんです。パパと別居するって言いだしたときも、あっさり笑顔だったし。きっと、みーたんがいなくなったのも、どうでもいいと思ってるんです。私がごねてるから仕方なしにやってる、みたいな感じなんです」
ひなみはうつむきながらリュックの口を縛っていたが、顔を上げて陽一が見つめているのに気が付くと、急に顔を赤らめて立ち上がった。
「その、言い過ぎました」
「ああ、うん」
陽一はどう答えるべきか少し迷ったが、やがてリュックを背負い直しながら、あまり深入りしない言葉を選んだ。
「安城さんは――まどかさんはきっと真剣だと思うよ。わざわざ高校生をバイトで雇うくらいなんだからさ」
「……そうでしょうか」
「そうそう。まどかさんは、ひなみちゃんに、一人で猫を探し歩いて欲しくなかったから、俺がここにいるんだよ。それだけ心配してるってこと」
「私を、でしょう?」
「それじゃ不満?」
「私は、猫が嫌いなのにペット探偵やってるような人、嫌いです。……ママの話なんてしても、時間の無駄です。行きましょう。今日こそみーたんを見つけないと」
ひなみは我先にとアパートの廊下を歩いて、階段を下りていく。
○
陽一はひなみの後ろを付いて住宅街を歩きながら、つらつらと、これまでのことを考え直してみた。
違和感を覚えたことは三つ。
一つ目は、「正直猫を見つけるのは難しいと思う」という、まどかの言い方だった。自分の家のペットを「猫」呼ばわりするのは不自然に聞こえる。
二つ目は、安城家に猫を飼っている痕跡が見つけられなかったこと。猫トイレや猫じゃらし、好物だったらしい煮干しもない。カーペットには猫の毛一本落ちておらず、壁や柱が引っかかれているような痕跡も、今思い返してみても見つからなかった。
どちらも、ひなみの言葉を真に受ければいちおう理屈は通る違和感ではある。
まどかは猫が嫌いで、自分の家のペットに何の思い入れも持っていない。
みーたんのことを思い出すのが辛いから、家から猫がいた痕跡を消し去った。
理屈は、通らないこともないのだが――
「ひなみちゃん」
「なんですか?」
「みーたんの写真、あるなら見せてくれないかな」
ひなみは振り返り、困ったような表情で、ポシェットの中を撫ぜた。
「スマホにあるなら、送ってもらいたいんだけど」
「……みーたん、写真撮られるの、苦手なんです。撮ろうとすると、いつもすぐに逃げちゃって。スマホとかカメラとか、ぎょっとしちゃうんでしょうね。ちょっと、神経質な子だったから」
ひなみはにこやかに笑顔を作って、そんなことを言う。
三つ目の違和感――。探すべきみーたんの写真を、まどかからもひなみからも、見せられていないこと。
どうやらこれは、拭えそうもない。
――五分五分、いや、七部三部の確率で。
安城家は猫を飼ってない。
陽一は自分の思いつきに、背筋の寒さを感じながら、ひなみがあまり先行しないよう、少し歩く速度を速めた。
歩きながら、一件だけ探りのメールを打つことにした。
『服部さん。ひょっとして、俺をすごく面倒なことに巻き込んでませんか?』