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1、不可思議の始まり


「猫を探してほしいんだ」

 服部圭太はそう言うと、鞄から取り出したA4サイズの封筒をテーブルの上にポンと投げた。

「猫、ですか」

 桜井陽一は怪訝な表情で頭を掻いた。

「そりゃ、探せないことはないですけど、見つける自信はないですよ」

「いいんだよ、探すのがバイトだ。見つかる、見つからないは結果だから」

 服部はにこやかに笑って、テーブルの上に両肘を乗せ指を組む。


 服部は陽一の通う剣道場『陽示流』の先輩で、学年は一つ上の高校二年生。素朴な黒シャツの裏の引き締まった体と、首をかしげたくなるような勝負勘の良さは中々に厄介で、同年代の門下生の中では一目置かれている存在だった。

 人当たりの良さと練習に手を抜かないまじめさは陽一にとっても好印象だったが、それ以上に金回りの良い人だという印象があった。「しっくり来なかった」という理由で筋トレグッズを幾つも道場に寄贈しているし、自販機ではいつも一番高い栄養ドリンクを遠慮なく買っている。

 だからこそこうして「バイトのお誘い」に乗るべく、喫茶店にのこのこやってきた訳なのだったが――。


「全然、自信ないなぁ。ってか、服部さんって警備関係のバイトしてるんじゃなかったでしたっけ? てっきりそういう話かなって思ってたんですけど」

「それとは別件で、知り合いから直接頼まれたんだ」と服部は言う。

「室内飼いの猫だったんだけど、先月に逃げちゃったらしくてね。ペット探偵も雇ったけど成果なし。諦めきれないから藁にもすがりたいってことらしい」

「探偵でも無理だったって……」

「だから、探すのがバイトだって言ってるだろ。見つからなきゃ金払わないってわけじゃない」

 服部はそう言うと、飲みかけのコーヒーに追加のミルクを入れて、くるくるとスプーンでかき混ぜ始めた。

 どうやらこちらからの質問を待っているようだと陽一が気づいたのは、すっかりカップの中が白濁した頃合いだった。

「いくら貰えるんです?」

「経費込みで一万。もし猫が見つかったら五万円」

「……そんなに?」

「そんなに。いい話だろ?」

「それだけ聞けばね。なんか裏がありそうですけど」

「ないない。強いて言うなら期限がゴールデンウィークの始めから終わりまでってとこかな。それまでに見つけられなかったら捜索打ち切り」


 服部がそう告げると、陽一は怪訝そうに眉をひそめた。


「ゴールデンウィーク……は、来週ですけど。三日からですか? 探すんなら早い方がいいんじゃないですか?」

「それは先方の都合だよ。ペット探偵との契約期間が五月の二日までなんだ」

「……それを、引き継ぐと」

「そう。諦めきれない延長戦ってとこだね」


 ――依頼人は相当なペットロスを抱えているようだと、陽一は理解した。


「でも、たしか今年は土日と繋がって五連休でしたよね」

「だね」

「……単純計算だと日当二千円になるんですけど」

「日当で考えるなよ。一日二時間かけなければ時給千円以上だろ」

「それは、まあ。そうですけど。そんなもんでいいんですか?」

「猫と追いかけっこしろって話じゃないんだ。ポスター貼ったり、チラシ配ったり、そんな感じ。どっちも封筒の中に入ってるから、適当に刷り増してくれればいいよ。ルート巡回してほしい場所の地図もプリントしてある」

「ふうん……。そこまで準備してるんなら、服部さんがやってもいいんじゃ」

「俺は別件で用事があって、ゴールデンウィークは遠出してるんだ。でも、この件も断り切れなくて困っててね。しょうがないから、暇そうな後輩に声かけてるわけ」

 服部はそう言うと、手を大きく上げてウェイトレスを呼びつけ、追加のオレンジジュースとクッキーを注文した。

 空っぽになっていたコップをウェイトレスに渡しながら、どうしたものかと陽一は考えた。


 気おくれしているのは、働いて賃金を貰うという経験が今までにないからだった。やることはある程度決めてくれているようだったが、成果が出るかも曖昧な、なんとなくふわふわした仕事だというイメージが拭えない。

 服部からバイトを紹介してくれるという連絡が来たときは、もっとかっちりした警備関係の仕事を想像していたし、いろいろ教わりながらやれるだろうなという算段もあった。当てが外れたというのが、正直なところだった。


「その、なんて言うかな」

 陽一は、少し迷ってから、思っていることを服部に告げた。

「ぶっちゃけ、一人でやるのが不安です。俺、働いた経験ないし。……うーん、その、もっと気楽な感じだったら引き受けられるかもしれないんですけど。猫探しなんて、金もらわなくても」

 服部は少しの間じっと伏し目がちの陽一を見つめていたが、やがてふっと口元の力を抜いた。

「なるほど。賃労働に伴う責任を引き受けられるか分からない。むしろただの頼まれごとの方がやりやすいってこと」

「……まあ、はあ」

 そういうことになるんだろうかと、陽一はいくらか首をかしげながら頷いた。――そういうことになるんだろうが、そうまとめられてしまうと、いかにも子供っぽい考え方のような気がして、少し恥ずかしく思えてきた。

「あんまり生真面目だと人生損するよ。責任は俺に預ければいいだろ。桜井ならできると思って仕事頼んでるんだからさ」

「そういうものですか?」

「そうそう。それに、必ずしも一人でやる必要はない。人数が必要だと思ったら誰かの助けを借りるのもいいんじゃないかな。道場に寄れば暇してる連中には事欠かないだろ」

「暇というか、みんな練習してるんじゃ……」

「暇だから練習している、という考え方もある」

 服部はそう言って、くすくすと笑う。

 陽一は眉をひそめて、小さくため息をついた。服部のことは概ね尊敬しているし、実力も認めているが、事、武道に対してのスタンス――精神性の違いだけは、常日頃から残念に思っていた。

 

「ただでさえ日当二千円なのに、二人になったら千円ですよ?」

「まあね。でも、前金一万、成功報酬の五万にしたって、俺が適当に先方と交渉しただけの金額に過ぎない。もっと必要だと思うなら、交渉してみるのもいい。依頼人の連絡先とプロフィールも封筒の中に入ってるよ」

「……そんな調子でいいんですか?」

「他にどんな調子があるの?」と服部は聞き返す。

 陽一は閉口しつつ、なんとなく、断った方が無難だなと思った。一万円は魅力的ではあったが、どうも話がうさん臭い。

「やっぱり俺は猫探しには向きませんよ」

 陽一はそう言うと、ウェイトレスが持ってきたクッキーを齧って、歯に引っ付く前にオレンジジュースで流し込んだ。早く食べ終わって、話を打ち切るつもりだった。

「まあまあ、話は最後まで聞きなよ」

 服部はそう言うと、隣の席に置いていた渋色のボディバッグから、青いビニール袋を取り出した。

「依頼人からの報酬は一万ないし六万だけど、これは俺からの頼み事でもあるから、もちろん俺からの報酬もあるわけだ」

 服部はコーヒーカップを脇にどかせて、ビニール袋の中から、分厚い三冊の文庫本をテーブルに並べた。


 古めかしい、飴色のシンプルな表紙だった。

 向かって左から『鳥羽伏見』『西南』『征韓』と、表紙のほぼ中央にシンプルな白抜きのタイトルが記されている。

 そして表紙の何処にも、作者名は書かれていない。


「これって、……前に先輩が話してた『名無し』の西郷三部作ですか」

「そうそう。作者不明の、あの『名無し』。前に『神授』と『幻獏』は貸したよな」


 陽一は、迷惑にも高校受験を控えた一月に貸し与えられた二冊の歴史小説を思い浮かべた。


 『神授』は太平洋戦争開戦前夜から真珠湾攻撃までを見てきたような克明さで描いた群像劇風の小説だった。日本軍視点と米軍視点をしなやかに切り替えながら、爆撃のカタルシスを身震いするくらいに高めた痛快な小説である。

 そして『幻獏』は、『神授』とは対照的に、敗戦間近の本土で戦況や日常を懸命に弥縫し続ける日本人たちの努力が、八月の二回の爆撃で灰燼に帰す様を痛切に描いた小説だった。


「同じ、作者なんですよね」

「たぶんね。文体は同じ。力量は完璧。どの出版社の目録にも載ってない、いつ書かれたのかも定かじゃない、自費出版の同人誌だ」

「何処で手に入れたんですか」

「秘密。――まあ、分かってるだろうけど、何処の本屋にも置いてないよ。読みたかったら、俺の頼み事を聞くしかない」

「……ずるいな」

 陽一は小声でそう言うと、うつむいて思いにふける。


 彼は、ちょっとしたロシア文学ほども分厚い『神授』と『幻獏』をそれぞれ五回読み返していた。五回目に至っても鮮烈な読後感は衰えず、むしろ読み返すに連れて二つの小説の関連が深く理解でき、とりわけ『幻獏』の痛切さはより増した。あまり受験勉強は捗らなかったが、不思議と日に日に頭は冴え、受験本番時にはどの教科でもニ十分は余らせて、小説の筋を思い返して時間を潰したほどだった。


「西郷三部作は、どんな作品なんですか」

「『神授』と『幻獏』よりもっと写実よりだね。『幻獏』みたいに幽霊は出てこない。――ただ、西郷の書かれ方が、それぞれ明確に書き分けられていて、そこがおもしろい」

「西郷の書き分け、ですか」

「うん。『鳥羽伏見』では軍神。『西南』ではただの人。『征韓』では祟り神って感じ。あんまり言うとネタバレになるから、この辺でね」

「……はい」

「読みたくなった?」

 服部は何処までもにこやかに、陽一に問いかける。


 陽一は『神授』と『幻獏』を読むまで、小説というものにあまり興味が持てなかった。中学時代を剣道に打ち込んでいたせいでもあるが、まだ竹刀を振るっていなかった小学生の頃も、読むのが面倒くさいと思っていた。漫画やゲームや映画の方が気軽に暇が潰せるし、おもしろかった。

 だが、たった二冊の小説のせいで、そういう長年の感覚が狂わされてしまっていた。

 仮に『神授』と『幻獏』が漫画になったなら、きっと絵柄が邪魔になる。

 ゲームになれば操作性が、映画になれば俳優の存在が、邪魔になる。

 今までありがたく享受してきた刺激物が、この二作に限っては、ただの不純物になってしまう。

 ――そう思えてしまうくらい、陽一にとって『名無し』は大きな存在だった。

 

「服部さん、ひょっとして俺に『名無し』を読ませてくれたのって、こうやって便利に使うためですか」

「餌にしてるって? 考えすぎだよ」

「……してますよね、きっと。俺の他にも被害者がいるんでしょう」

「さあね。否定はしないけど」

 服部はテーブルに並べた文庫本を手早くビニール袋に戻すと、そそくさとバッグにしまって、コーヒーを飲み直す。

「――美味しいね」

 

 つまるところ、と陽一は思った。

 ――俺はまだ、目の前の、たかだか一つ年が上なだけの先輩に、幾らか及ばないようだ。

 腕前も、わがままの通し方も。

 そして、世の中の楽しみ方も。


「分かりました。引き受けます、猫探し」

「ありがとう」


 服部はわざとらしく右手をテーブルの上に差し出して、握手を求めた。

 陽一は、服部の筋張った小手と自分のそれの太さを無意識のうちに比べた。

 そしてやはり、面倒だなと思ったのだが、今更どうにもならなかった。

 


      ○


 依頼人:安城まどか

 依頼概要:行方不明になったペットの猫、『みーたん』探し。

 猫の特徴:五歳の雌猫。品種はロシアンブルー。目は青、毛並みは青灰色、手足と尾が長く、右側の耳をひくひく動かす癖がある。

 行方不明になった経緯:三月三日の午後。まどかの娘であるひなみが宅配便を受け取ろうとした際、ドアからするりと抜け出してしまう。

 その他:捜査状況はペット探偵から引き継がれたし。五月三日の午前九時に被害者宅のアパート駐車場にてアポイントメントを取っている。

 報酬:一万+『名無し』作、歴史小説同人誌『鳥羽伏見』『西南』『征韓』

 成功報酬:五万



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