ライジング作戦
第25歩兵師団の隊員たちは,その日初めて戦争の詳細を知らされた。と同時にニュースでは各々色々な呼称を持つこの戦争が”第二次太平洋戦争”と統一することも知ることとなった。
宣戦布告から中国軍と韓国軍は沖縄を避けて九州の南部へ上陸した。
日本の海上自衛隊はこの上陸部隊を止めることができず撤退を余儀なくされた。
中国を支援する国はその経済的理由もあって少なくなかったので,世界でも有数の海上戦力と見られた日本でもその数を制するには至らなかった。そして内陸においても陸上自衛隊は劣勢を強いられた。
中韓が上陸した地方を含めて,上陸とその進軍を阻止する地上部隊はほとんど配備されなかった。
これはそこに住む民間人を避難させることができなかったことに由来していて,戦備を批判する声への対応で手一杯だったからだった。
おかげで強襲揚陸部隊にほとんど被害はなかった。その後の中国軍の進軍はすさまじいものだった。
とはいえまともな戦闘は少なく,陸上自衛隊は民間人の避難に追われていて,中国軍も韓国軍も激しい抵抗を受けないことが多かった。
およそ一カ月が経たない内に戦線は九州地方を覆い,四国が射程に入った。
だがそれもすぐに更新されて,二カ月後には関西が,そして三カ月後には東海地方が飲み込まれた。
特に韓国軍はその進軍が早すぎたため,補給がうまく行えなかった。不足した食糧などは現地から収集した。
無論法外な収集であったことは言うまでもなかった。
当初激しい戦闘になると予想されたこの戦争だったが,年明けまで日本と言う国が持つかどうか分からないと言われた。年明けまではおよそ三カ月しかない時分である。
しかし一方で航空自衛隊の反撃は敵の予想を超えた。
特に中国は制空権を取れなかったので,当初大規模な地上部隊を派遣することを躊躇った。
海上,地上では劣勢だった日本だが空だけは譲らなかったので機甲部隊や砲兵部隊への空爆を恐れたためだった。
ただ実際には航空自衛隊が民間人の残存による被害を恐れたので,航空空爆が行われることはなかった。
やがて陸上自衛隊が戦線構築に本腰を入れると中国と韓国の進軍はようやく止まった。
東経138度線に連なる山岳,日本アルプスで強固な防衛戦を張ったためで,中国軍は富山・岐阜と愛知の北部を,韓国軍は愛知南部で腰を据え,静岡県の浜松で激しい戦闘となった。
東西に一進一退の攻防が続いたが,両方決め手には欠いていて,日本は基本的な兵力と機甲部隊が不足していること,中韓は敵の散発的な待ち伏せと補給が停滞していることがそれぞれ悩みだった。
その間も米軍が目立った対応をしなかったのは,隊員たちも疑問だった。隊員たちには,きっと日本は健闘しているだろうという期待もあった。
だが実際は隊員たちが考えているよりもずっと深刻だった。
そして同時に「我々なら敵の進軍するよりも速く奴らを日本から追い出せるだろう」と自信を露わにした。
その作戦は”ライジング作戦”と命名された。第25歩兵師団は日本本土の奪還作戦に投入されることが決定された。
この作戦は,日本中部の太平洋に程近い”浜松”から敵を追い返すことを初手として,敵の南へ進軍して回り込み,琵琶湖の手前で分断し包囲する作戦だった。
戦線は200km~300kmに及び,素早い展開と撃破が求められたが,隊員たちがイラクで構築した戦線よりは遥かに小さかった。
25師団の担当は,初手となる浜松の奪還となった。
隊員にその地名を知る者は居なかったが,地図と模型,3Dで再現された浜松の街並みや地形を”暗記”するよう命じられたので,全隊員は徹底的に自分の頭へ叩き込んだ。
おかげで,東京への輸送船に乗り込む頃になると,隊員は”空”で地図を描くことができるようになった。
ポール大佐の中隊の中で,日本を訪れたことがある隊員はほとんど居なかった。それでも東京は多くの隊員が知っていた。
だから東京に着いたら,少しの間は観光も出来るかもしれないと算段を立てる者も居た。
ハワイでの外出禁止令が数カ月も経つと,どうすればすり抜けられるかを心得る者が出てきていた。加えて輸送船は狭く,汚く,臭く,実に不快だった。その上一週間以上も缶詰めにされたので,とてもストレスが溜まった。
しかし観光の機会はすぐには来なかった。
東京に着くなり,有無を言わさず列車に乗るように指示されたからである。
憲兵たちは,彼らが検問をすり抜ける技術を持っていることを既に承知していたのだ。隠密行動も得意とする隊員たちも,今回ばかりは成す術がなかった。
そして多くの米軍兵を載せた列車は,富士を過ぎたあたりで停車した。次はトラックだった。
彼らと同じくして上陸した大型の八輪駆動トラックが見渡す限り並んだ。これに一小隊ずつ詰めこまれ,武器や装備が放り込まれる間,隊員たちはこれを見物に来た民間人とのしばしの間のリフレッシュをすることができた。
彼らとは金網越しではあったが,幾つかの言葉を交わすことができた。
隊員は日本語がほとんど分からなかったが,歓迎してくれていることは理解できた。
開戦から四カ月が経つこの頃には,米軍や自衛隊の活動に反対する市民は姿を消していた。
自国への本土攻撃は,日本人の認識と価値観を変えるほど劇的であることを隊員は感じ取った。しかしここではまだ戦争をしているという雰囲気はあまり感じられなかった。
そういった意味ではハワイに居た時の感覚に近く,隊員たちは各々感慨に更ける余裕があった。
トラックは,浜松の手前にある磐田という街に向かうことになっていて,そこは韓国陸軍の前線から数マイルしかなかった。
戦時のため閉鎖された高速道路を使い,掛川インターチェンジまでは軍用車以外が全く居ない貸切状態だった。そこからは高速道路を降りてルート1を西へ向かうころには,ちらほらと民間人も見えた。
しかし独特な鉄臭さや,火薬のつんとした臭いや,言い様のない重苦しい雰囲気が既にあった。
やがて自衛隊の検問所を幾つか通ったあと,師団は市街にあったピアノの工場跡に着いた。
ここには民間人の姿はなく自衛隊の野営地と代わっていた。
他にも同じような工場跡が近辺に幾つもあったので,25師団の歩兵一個旅団戦闘団とストライカー旅団戦闘団という大所帯が余裕を持って準備をすることができた。
一つの建物にはおよそ一個小隊ないしは二個小隊が配置された。
到着したその日の夜は待機すること以外に任務を与えられなかったので,各自思い切り眠ることにした。
そして翌日に作戦決行日が決定された。それは二日後の1345時だった。
ポール大佐は中隊を集め,市街地戦の訓練を繰り返し行い,最後の仕上げとした。
彼ら特別任務部隊は,他の歩兵部隊と違ってストライカー装輪装甲車や155ミリ砲の支援が受けられないことを知った隊員たちは初め嘆いたが,ポールや小隊長たちが徹底的に訓練したので,隊員たちの自信は相当の物になった。そして滅多に宛がわれない高価なジャベリン・ミサイルを譲ってもらえた。
とはいえ携行するミサイルの数が,予想される敵の装甲車の数よりも少なかったので,”ケチ野郎”と書いた紙を当日別の歩兵師団が使うであろうロケット携行バッグに忍ばせた。
作戦決行の日の午前,中隊は天竜川が見える場所に移動した。
この河川は彼らが拠点を置く常盤と,これから攻め入る浜松を隔てる大きな川で,幅が五〇〇メートル近くあり,それを越える二つの鉄道橋が見えた。
歩哨のために借用している五階建てのビルより他に高い建造物はほとんど無く,山々は見えないほど遠いので視界はひどく開いていた。
先の天竜川の東側の堤防には韓国の第9歩兵師団が活動しているのが垣間見えた。
そして本隊が進軍する直前,小規模な部隊が先んじて攻撃を行った。これは敵の歩哨への牽制の意味合いが大きかったので,実に散発的だった。
その為韓国軍へ「いつものことだ」と油断させることも目的の一つだった。
そして1345時きっかりになって,陸上自衛隊と合衆国陸軍の反撃が始まった。
ポール大佐は本部からの前進命令をしかと聞いて,中隊を前進させた。そして退却してきた牽制部隊と難無く合流した。
そこでポールは中隊を一旦停止させ,牽制部隊の小隊長から情報を聞き出した。
牽制を担当した第4騎兵連隊の小隊長は敵の戦力をしっかりと把握していた。数ブロック進むと敵が居り,規模は一個分隊で,全員がK2突撃小銃を装備し,堤防にK3重機関銃を二門持っていることを伝えた。損害は二名の負傷だった。
中隊長のポールは,第一小隊と第二小隊に並列して前進するよう命じた。
そして第四小隊を予備としてその後方に据え,第三小隊は後方部隊との連携のため,この場所を保持するよう指示した。
第一小隊指揮官のウィリアムズと第二小隊指揮官のマックはそれぞれ小隊を牽引し,堤防へ駆け足で直進させた。
周囲は主に二階建ての民家ばかりで,一ブロック北に鉄道を通す高架の草木があった他は碁盤の目のような細い道路で区切られていたので,隊員は交差点を通る度に慎重な確認を繰り返し,民家の窓からの人影に注意を払った。
以前の戦闘で幾つかの民家では窓が割れていたり,屋根が大きく陥没していた。こういった箇所は機銃陣地や狙撃兵にとって恰好の隠れ蓑になるが,韓国軍の姿は見えなかった。
そして七ブロックほど進んだところ,ウィリアムズの小隊は角を飛び出してきた二人の韓国軍兵士と遭遇した。
第一小隊の反応は途轍もなく速かったため,韓国軍兵士たちは角を出ると同時に撃たれたように感じた。ウィリアムズはポールと中隊に接敵したことを伝えた。そして部下に特別角に注意するように命じて隊を前進させた。
陸上自衛隊やこれまでの合衆国陸軍が使用する五・五六ミリの89式小銃やM4小銃とは違い,彼らはMk17を持っていたので,敵の分隊はこの銃撃がこれまでに聞いたことがないことに気付いて動揺した。そして斥候として出した二名がそれを受けたのだろうと察した。
そこで音が聞こえた方向を注視して待ち伏せることにしたが,これは間違いであった。マック大尉率いる第二小隊が,その側面に展開することができたためである。
マックはこの敵分隊に対して右側面に居た。マックは遺棄された乗用車を遮蔽物にするよう部下に指示を送ると,自らも民家の塀を利用して射撃体勢を取った。
敵はすぐにこれに気付いたが,反撃される前に射撃を開始した。
マック他六名がこの火線に並んで,Mk17突撃小銃とM240軽機関銃の猛火を浴びせかけた。敵の兵士は瞬く間に倒れ,生き残った四名が二〇〇メートルほど後方の公園まで退却するのが見えた。
これを待ってウィリアムズは第一小隊を素早く前進させ,マックは敵の固定機銃へ制圧射撃するよう部下に命じた。
韓国軍の重機関銃を受け持つ各三名は先の銃撃を以て配置に付き,続いて攻撃を受けた方向へ連続した掃射を行ったが,極めて正確な米軍の制圧射撃を受けたので,機銃を敷く土嚢を積んだ遮蔽物に身を屈めた。
ウィリアムズはその隙を突いて四〇ミリ擲弾発射器を持つ隊員のうち二人に前へ出るよう命じ,それぞれ機銃陣地に対して高性能炸薬弾を見舞うよう指示した。
初弾は向かって左のK3重機関銃に命中し,それを扱う三名全員を即死させることに成功した。
もう一つの機銃陣地に放ったものは彼らの頭上に外れて堤防を超えてしまい,川の中州に当たって爆発したが,次いで発射した炸薬弾は遮蔽物の前面に命中して敵の三名は致命的な傷を負った。
そしてこの光景を見た残りの韓国兵四名は,余りに素早い攻撃だったので,思わず足を止めてしまった。この四名は第二小隊によって程なくして射殺された。
ポール大佐は第一小隊へ両翼に注意して堤防の向こう側を確認するように指示した。ウィリアムズは双眼鏡を持って堤防を駆け上がり,這って向こう側を覗いた。
すると川を挟んだ向こうの堤防で多くの韓国軍兵士たちが攻撃に備えている姿が見えた。ウィリアムズは「正面に一個中隊以上,鉄道橋付近に機銃陣地,右翼にK1戦車二両見えます。」と答えた。
このK1戦車は韓国陸軍の主力戦車で,合衆国陸軍のM1エイブラムス戦車を撃破できると言われるほどの能力があるとされた。
だがこれらはポールの中隊の北から攻め込んでいるM1128装輪装甲車ストライカーか,90式戦車に対応するために転回しているところであった。
ポールは第一,第二小隊へ堤防の手前での待機を命じて,第三,第四小隊には前線への移動とM240軽機関銃の設置,迫撃砲班には公園で六○ミリ迫撃砲を二門据えて砲撃を掛けるよう指示した。
各砲三名の操作員たちは手早く迫撃砲を組み上げて,敵の居る向かいの堤防に照準を合わせた。
ただし彼らには手前の堤防があって直接照準を合わせられなかったので,照準手は暗算と計算で割り出した。ポールは自分の中隊以外の友軍が確実に堤防までたどり着いているかを確認した後,砲手に各二発,計四発を射撃させた。
迫撃砲は本来命中精度があまり高くないため,初めの数発の砲撃から照準を修正し改めて砲撃をすることが一般的だったが,これらの砲撃は韓国軍にとって強い打撃を与えた。
機銃陣地は無力化され,歩兵部隊は多くの負傷兵を出した。
ポール指揮下の迫撃砲班は河川特有の強風を考慮した上でこれをやり遂げた。加えて次々に炸薬弾を撃ち込んだので,堤防で防御態勢を取った韓国軍は一溜まりもなかった。
次いでポールは第一小隊と第二小隊に鉄道橋を渡って川を渡るよう指示した。マックはウィリアムズに先んじて走り始めた。
彼は部下に「俺に続け!」と叫び,まるで短距離走の選手のように駆けた。
ウィリアムズもこれに続き,ポール大佐が後部から追い立てた。第四小隊は軽機関銃による援護射撃を行った。
この動きを見た韓国軍はこの第四小隊,つまり援護射撃をする敵に対して制圧射撃を行うこととした。だが敵の前進を食い止めるためには,橋を渡ってくることを阻止すべきであった。
おかげでウィリアムズとマック,そしてその部下たちは一人の負傷者も出さずに鉄道橋を駆け抜けることができた。
K1戦車は北へ移動してしまったので,彼らに対しては無力であった。そして対岸からの射撃に加えて川を渡ってきた彼らの側面攻撃によって,この堤防を保持する韓国陸軍は壊滅状態となった。
逃れられたのは数えるほどだった。ウィリアムズ自身もこうも上手く行くものだろうか驚いた。迫撃砲によって裂けた木々の傍で,部下に残弾は充分か,怪我はないか確認させる時間もあった。
自衛隊と米軍による多くの歩兵部隊と機甲師団の反撃に韓国軍は一旦再結集して,抵抗することを決意した。これは堤防から西に一キロほどの距離で,そこには対空陣地も設置されていた。
もっと西には装甲車の連隊本部があって,道路橋を渡ってくる戦車と装甲車への反撃のために準備した。
再結集と状況の整理を済ませた韓国の歩兵部隊は二個分隊を前進させ,ポール大佐の中隊が侵攻することを阻止しようとしたが,これより早くこの中隊は移動と展開を始めていたので,ウィリアムズ・マックの両小隊長は部下たちをそれぞれ遮蔽物に隠れさせるか,アスファルトに伏せさせて,こちらに駆けてくる敵部隊を待ち伏せることができた。
慌てた様子の韓国兵は二列縦隊になって周りが田畑になっている対向一車線の道路の中央を通っていたので,身を隠す遮蔽物は何もなかった。
そしてポール大佐は,目標が一〇〇メートルほどまでに近づいたところで第二小隊に射撃を命じた。一斉に発射された七・六二ミリ弾は次々に韓国兵をなぎ倒した。
不意を突かれた韓国兵たちは素早く道路から離れて田畑の側道に身を隠すことにした。しかし大勢の死傷者を出していて,統率は完全に乱されてしまった。
その上激しい制圧射撃を受けたため,第一小隊が接近してくることに気付くのが遅れた。
結局この二個分隊は米軍に損害を与えることなく全滅した。
第一小隊は第二小隊からの援護射撃によって,続いて小さな工場に陣取る韓国兵に対して素早く前進した。また隣接した給油所には多くの韓国兵が陣地を築いていたので,ウィリアムズは先の工場をやや北側から迂回して敵の銃撃を最小限にするよう部下を展開させた。
そこから北東の方角には友軍の装輪装甲車に攻撃を掛けようとする敵のK1戦車二両と有象無象の随伴歩兵部隊がはっきりと見て取れた。
彼らとの距離は優に五〇〇メートル以上あり,更に段々と離れていったが,展開する第一小隊に気付いていることがウィリアムズには分かった。
ポール大佐はフォーリー中尉へ第四小隊をこの牽制に回すこととした。そして同時に敵戦車から狙われていることを同師団第2ストライカー旅団に伝えた。
これを受け取った中隊は道路橋を渡るM1128ストライカー二両に11時方向のK1戦車へ傾注するよう命じたので,このストライカーが持つ一〇五ミリ砲はすぐに敵戦車を捉えることができた。
砲手は徹甲弾を発射した。
矢のような弾は隊の先頭を進んでいた敵戦車の右側面前方の装甲を貫いた。戦車はしばらく惰性によって進んだ後,完全に停止した。
この凄まじい砲撃音と着弾音はポール中隊にもはっきりと聞き取れた。
無力化された仲間の戦車を目の当たりにした後続の乗員は,それに加えて恐怖を感じた。そして恐る恐る前進すると同じく徹甲弾の餌食となった。
この時,徹甲弾はK1戦車の弾薬箱に当たって引火させたので,車内は瞬く間に業火に包まれ,上部ハッチから高々と火柱をあげた。乗員は脱出することができなかった。
あっという間に戦車を破壊された韓国兵たちは絶望的な状況に陥った。西からは敵の装甲車が迫り,南からは激しい銃撃に晒されていた。
特に南からの銃撃は七・六二ミリ弾によるもので,韓国兵たちの五・五六ミリ弾では到底得られない高い威力と精度を持っていた。その上ポール中隊は五〇〇メートル程の交戦距離を物ともしない技術と経験があった。
第四小隊は韓国兵たちに反撃の余地を与えず,第一小隊が側面攻撃に晒されないよう牽制することに成功した。この支援を受けた第一小隊は廃工場の二階の窓に敵兵の姿を見て,これが機関銃であることを直感した。
そこで一旦停止して水田の土手に張り付き,制圧射撃を行うこととした。同時に第二小隊の選抜射手にこの機関銃を狙うよう要請した。
テレスコピックサイト付きM14小銃を装備したベックス伍長は,素早く照準を合わせて静止しその時を待った。
制圧射撃に屈めた身体を反撃せんと起こした韓国兵は突然強い衝撃を感じたかと思えば,糸の切れた人形のように倒れ込んだ。
ベックスの放った弾丸は右の胸から入って肩甲骨を砕いていたので,次に彼は呻き声を上げることすら出来ない程の激痛に襲われた。
ベックスは続いて同じ廃工場の別の窓にもう一発放つと,擲弾発射器を構えていた韓国兵の額の右に命中させた。
先に被弾した韓国兵はそれを見て,狙撃兵に狙われていたことに気付いたが,出血が気道を圧迫するので声を出すことができなかった。
そして第一小隊が廃工場の側道に到着する時には,心肺が停止した。廃工場に侵入した第一小隊は障害物を上手く使って敵を回り込んでは各個撃破していった。
大方制圧が済もうとするとき五人の敵兵が小さな小屋に逃げ込むのを見たウィリアムズは部下に手榴弾を投げ込むよう指示した。その韓国兵たちはもう戦う気力を失っていて,窓から差し込まれた手榴弾を投げ返すような余裕はなかった。
やがて手榴弾が爆発すると小屋は血煙りで一杯になり,韓国兵は酸素を求めて彷徨うように小屋を出ようとした。瞬間,第一小隊は彼らを射殺した。
小隊の一部は廃工場の倉庫の二階へ上がり,隣接した給油所に向かって上方から銃火を浴びせた。これはポール下の中隊を前進させるに十分な効果を発揮し,同時に韓国軍が拠点としている学校を見渡すことができた。
広い土のグラウンドには二〇ミリバルカン対空砲が設置されていたため,ウィリアムズは小銃で牽制して,韓国兵たちがバルカン砲を撃てないよう制し続けるよう小隊に命じた。
だが後退して結集した韓国兵たちを抑えることは難しかった。
バルカン砲の射手は容赦なく倉庫へ銃撃を食らわせた。水平へ薙ぐ様な射撃によって屈強な鉄筋コンクリートや鋼材が,ケーキを切るかのように砕けては消えた。
このままではマズいと感じたウィリアムズは倉庫から出るよう部下に命じ,残りの手榴弾も四〇ミリも動員してバルカン砲を潰すよう指示したが,これらは組み敷かれた土嚢を弾き飛ばすに留まった。
このバルカン砲に手を拱く間に韓国兵たちは学校に立てこもる準備をすることができ,その上,東から装甲車を忍ばせることが出来た。
ウィリアムズは敵の装甲車の履帯が路面を打つ音を聞き,汗で蒸れた背中が一気に冷えるのを感じた。
進路をバルカン砲に経たれ,側面には装甲車,そして歩兵が展開しつつある。小隊の多くが死亡するには十分な状況だった。
ウィリアムズは咄嗟に,中隊の支援範囲を超えて先行し過ぎたと思ったが,ポール大佐は違う見解を持った。現に第一小隊はバルカン砲の迎角外に居たので,前進出来ないというだけで被弾する訳ではない。
敵の装甲車は脅威だが,銃撃されるまでの時間はある上,彼らは第一小隊を攻撃することに夢中だった。
そこでポール大佐は第一小隊へその場に伏せて待つよう指示して,迫撃砲班を廃工場の裏でもう一度準備させた。ポールが方角と距離をアレン二等軍曹へ伝えると,彼は手際よく照準を合わせて,すぐさま迫撃砲を発砲した。
高々とあがった四〇ミリ炸薬弾は廃工場を軽く飛び越えてバルカン砲の砲身に一発で命中し,六本の砲身を無残に引き千切って見せた。
またポールは第二小隊の特技兵へ対戦車ミサイルを構えさせ,敵のK200装甲車を捉えるよう命じた。
この隊員は重いFGM-148を担いで照準器を覗き,敵の装甲車をロックオンしたことを大佐に伝えた。
ポールが射撃を命じた瞬間,ミサイルは轟音を上げて空高く舞い上がったかと思うと,大空を蹴って真っ逆さまになり急降下を始めた。
韓国軍のK200は装甲が薄い天井を,このミサイルの爆風によって打ち破られ,大量の黒煙と炎を吹き上げて停止した。爆風は随伴する歩兵部隊をなぎ倒し,彼らに炎の津波を浴びせた。
第一小隊は脅威が消えたことを確認すると第二小隊と合流し,学校へと踏み入って前進を再開した。四階建ての校舎の至る所から敵の火点を見ることができ,グラウンドの砂は銃弾に掘り返され次々に巻き上げられた。
第二小隊の隊員たちは遮蔽物から遮蔽物へと稲妻のように移動しては,代わる代わる発砲するので,韓国兵たちは照準をどこに合わせたら良いか一瞬迷ってしまった。
この一瞬を巧みに利用して第二小隊は校舎の左中央へ突進した。
一階の教室を占拠していた韓国兵たちは意を決して飛び出し,彼らに白兵戦を仕掛けたが,体格と技術と冷静さにおいて勝るポールの部下たちは,小柄な韓国兵たちを文字通り薙ぎ倒していった。
アメリカンフットボールさながらの強烈なタックルに気絶する者もいた。だがそれは幸運と言えた。
何故ならそうでない者は銃床で殴られたか,ナイフを突き立てられたか,M9拳銃を連射されたか,の何れかに分類されるからである。これに例外はなかった。
その様子を見た他の若い韓国兵たちは逃走することしか考えられなくなり,第一小隊は易々と校舎までたどり着く事が出来た。そこで逃げ出してきた敵兵と遭遇すると,「止まれ!」と叫んで小銃を構えた。
しかし韓国兵たちは止まらなかったので,彼らの足を撃ち,一人とて逃さなかった。これでもう逃げ場がないと悟った他の韓国兵たちは投降する他なかった。
先んじて学校から退却した韓国兵は短い間の安堵を得ることは出来たが,これまで自分たちが拠点としていた学校から激しい銃撃を受けると,再び恐怖の中に引きずり込まれてしまった。
この内二〇名ほどが被弾して,その多くは退却することができなかった。
ポールは校舎の壁を背にして第三小隊のバーンズ少尉を呼んだ。そして敵への追撃と周辺の掃討を命じ,残りは負傷者と捕虜の確認をさせた。
その後バーンズは敵の装甲車三両を見つけ出し,二両はジャベリン・ミサイルで破壊して,一両を包囲した。
そこで第二ストライカー旅団戦闘団に,ここから南は占拠したことを告げて,同時に北は彼らが手中に収めたことを知った。ポールはそれ以上の追撃は不要と判断し,中隊を占拠した学校に集結させ,反撃に備えることとした。
だが反撃されることはなく,日が暮れる頃には,捕虜たちを連隊へ引き渡すことができた。
ポール中隊は敵の前哨陣地と対空拠点を制圧して捕虜を十七名捕えた。
中隊はこの戦闘で一〇〇名以上の敵兵を殺害し,それを超える数を負傷させた。対して中隊の損害は八名の負傷に留まり,その何れも軽傷で戦闘に支障がないほどだった。
ウィリアムズ大尉は取り返した学校の校舎の屋上に登って,自らと隊員たちが今日駆け抜けた道筋が夕焼けに染まる様子を眺めることにした。そして初日の成功を噛みしめた。
陸上自衛隊と合衆国陸軍の歩兵部隊と機甲部隊は橋を渡ることに成功し,遂に浜松へ歩を進めることが出来た。
日本人たちは万歳の掛け声を上げ,泣いて喜び酒を酌み交わした。
この一歩は彼らにとってそれ程に大きな意味があった。そして韓国軍は西へ敗走することとなり,もう二度と浜松の地を踏むことはなかった。