桜花
もう学校が始まっている時間なのに、コンビニで立ち読みしている中学生や、制服のままくわえタバコで闊歩している女学生をあちこちで見るような気がします。そんな人たちに読んでもらいたい実話系のお話です。
■ 直美 ■
いったん卒業してしまうと、好きな母校とは言え1800kmも離れていてはそうそう同窓会や集まりにも行けない。大学を卒業し、故郷の企業に入社した私は、5年ぶりに大学のある沖縄に行く機会に恵まれた。親しい同級生の結婚披露宴へ参加するのが目的だ。参加者の多くは地元沖縄なのだが、私のように本土からの参加者もいるので、ちょっとした同窓会のような感覚である。
こんな事でもないと沖縄に行くことはない。大学時代の友人たちとゆっくり過ごしたかったので、披露宴の前日に沖縄入りして、親しい友人らと会う約束をしていた。彼らの仕事が終わるのは夕方5時、、、飛行機の都合で早めに着いた私は、久しぶりの学び舎、大学に行ってみた。
卒業して5年も経つと変わらないはずの校舎も、どことなくよそよそしく感じる。行き交う学生たちも、見知らぬオジさんが当たり前の顔をして、学内をうろついているのに違和感をおぼえる様子だ。思えば入学した時も今くらいの春で、桜の並木道を花びらのカーテンをくぐって登校したものだ。今からもう10年ほども前の事で、あの時は不安や希望に満ちて歩いていたのを思い出し、少し恥ずかしい気持ちになった。
夕方6時になり、友人の金武の家に行ってみた。
「こんにちは、、、金武くん、いますか?」
「おうおう、佐藤!よく来た。よく来た。元気そうだな。」
「金武〜、お前、太っただろ?」
「ははは、ビールの飲みすぎなんだな。今日はちょっと遠いけど、小録の赤提灯の店に集合なんだよ。そろそろ出掛けないといかんな。」
「小録? ああ、じゃあ、姉御も来るンやね。」
「そうなんよ。みんなが集合するのは久しぶりやん。会いたいってさ。でも今日は花嫁衣裳じゃないぞ。」
会場に着き、広間に通されると、まだ集合時間前なのに10人ほどが集まっていた。みんな懐かしい顔、声、過ぎ去った5年間なんてなかったかのように笑顔になれる。時間を惜しむように話が弾む。
「佐藤、やはり来ていたか。お前は姉御に人一倍世話になってたから、今日は来てると思ったよ。」
「お、嶺井、、、うん、同級生ってのはいいものだな。何年経っても変わらない関係でいられるものな。」
「実はな、俺って今、銀行の融資係をしてるんよ。それで取引先の奥さんがお前を知っていたんだよ。」
「えー、誰だろ?大学の知り合いかな?」
「いや、その奥さんは21歳、、、俺たちが在学していた時は中学生くらいのはずだ。」
「んー、じゃあ、塾の教え子かな?家庭教師先の生徒かな?名前はなんて言うの?」
「旧姓は 川満 直美って言うらしい。」
「川満さん?ううむ、もう5〜6年前の事だから忘れたなぁ。」
「いや、直接の生徒じゃないんよ。お前、製菓工場に家庭教師した事なかったか?双子の男の中学生さ。」
「ああ、うんうん、覚えてるよ。デキの悪い子たちで2人とも第一志望の高校に落ちちゃったなぁ。あ!あの時の、、、」
「思い出したか?」
「ああ、うん、川満って苗字だったのか、直美ちゃん。あの子は絶対に忘れられんよ。」
直美と言う名前を聞いて、切れていた記憶が一気によみがえってきた。
家庭教師のバイトは時間当たりの割が良いのと、教え終わった後に夕食をご馳走になれる。食堂や弁当ばかりの一人暮らしの学生には、家庭料理が味わえると言うオマケ付きのおいしいバイトで、塾の講師もしていた私には塾経由で家庭教師の仕事も効率よく回ってきていたのだ。
私が大学3年の後期に行ってた家庭教師先は製菓工場を営む家で、個人にしては大きな工場で、1階が作業場、2階と3階が自宅になっていた。担当したのは中学3年生の双子だったのだが、どうにもやる気がなく覚えが悪い子供たちで、仕事だと割り切って教えていた。
週3回のバイトは夕方6時から8時まで、2時間きっちり教えて食事させてもらい、8時半くらいに帰るのだ。6時に来た時は工場は稼働中で、甘い匂いと機械の音や従業員さんたちの声が聞こえるけれど、帰るときは作業は終わってシャッターも閉まって静かなものである。
いつものようにつまらない双子の相手をして階段を降りて、バイクに荷物を括っていると工場の裏口が開いて声をかけてきた。
「家庭教師の先生ですか?」
暗がりの中、目を凝らすと白い作業服を着た、痩せていて目だけがやけに大きなのが印象的な女の子だった。
「あの、英語で分からないところがあるんですけど、みてもらえますか?」
「英語? うん、ちょっと見せてごらん。」
「この文とこの文です。どう訳すんですか?」
「うん、これは関係代名詞が消えている文でね、ここにthatが隠れているんだよ。もう一方は構文で、〜〜せずにはいられないって訳すんだ。」
「あ、そうか、わかりました。ありがとうございます。」
「いいえ、どういたしまして。君は?」
「私は工場に住んでいるんです。上の子たちは良いな。分からない時は先生に教えてもらえるんだもん。」
「それが僕の仕事だからね。」
「どうもありがとうございました。」
寂しそうな、どこか陰があるその女の子は、教科書を閉じて立ち上がり、工場の裏口の方へ向いた。
「先生、またみてもらっても良いですか?」
「え?今みたいに帰り際で良かったらね。」
「あ、良かった。君は上の子と違うから、みてあげないって言われたらどうしょうって思ってた。」
■ 受験 ■
家庭教師のバイトが俄然楽しくなった。もちろん仕事してお金をもらうのは社長のところのデキの悪い双子なので、時間的に直美に接していられるのは10分か多い時でも20分くらいのものなのだが、彼女には強烈な知識欲のようなものを感じていた。一度基本から教えたものはすぐに身につけ、簡単にステップアップしてしまう。覚えておいた方がいいと言ったものは確実にマスターしていた。教え甲斐がある優秀な生徒なのである。
「他に質問はない?でもだんだん難しい事を訊くようになるなぁ。」
「わかんないなぁって思って学校の先生に訊こうとしても、授業が終わったらすぐに帰らないと夕方の仕事の時間に間に合わないから、ずっと分からないままだったんです。でも佐藤先生は仕事が終わった後にみてもらえるから、、、。」
「ちぇ、時間だけの話かぁ〜、ところで、工場には直美ちゃんだけしかいないの?」
「うん、工場の人たちは遅くても6時には帰っちゃう。そしたら工場の事務机を使って宿題するの。」
「食事は?」
「売ってるお弁当。でも給湯室にガスがあるからラーメンとかそばとか作れるよ。」
「えー、なんかひどいな。上の人たちとは食べないの?」
「社長が上には来たらいけないって。」
「それじゃあ、どこで寝てるのさ?」
「ここの更衣室よ。工場の人たちが帰ったら、そこに布団をひいて寝るの。でも朝一番の人が7時にくるから、それまでに起きてなきゃいけないんだ。」
「いけないんだって、もう。だいたい、ご両親さんは?」
「あ、先生は知らないんだ。ウチは親に捨てられて、引き取られてきたの。」
「えっ親に捨てられた?」
「もともとは、両親は宮古島で小さな印刷の会社をしてて、その時はウチも親と暮らしていたんです。でもある日、学校から帰ったら家には誰もいなくて、怖いおじさんたちが沢山でやってきて印刷工場にあった機械や家具をみんな持っていってしまったの。」
話を聞くかぎりでは、親が仕事に失敗して夜逃げしてしまい、この子は親戚にあたるここの社長が引き取ったようである。
「それは寂しいね。」
「仕方ないわ。でもたまにお母さんから手紙がくるの。」
「それならお母さんのところで暮らすのが良いんじゃないの?」
「お母さんたちは一所にはいないみたいで、茨城県やら山梨県やらから手紙はくるの。」
話を聞いてやるせない気持ちになった。次のバイトの時からは塾で使っているワンランク上の対高校受験用の問題集をコピーして持って行った。彼女の実力は相当高いものになっていたので通常の教科書では物足りなくなっているはずである。
ある日、いつものように直美の質問に答えていると、
「明日は休みなんです。先生は?」
「明日は大学の講義が昼からあるだけだね。」
「あのね、ウチ、先生が行っている大学ってとっころに行ってみたい。どんなところか見てみたいの。」
「そんなの、お安い御用さ。じゃあ、明日、昼前の10時にここで待っていなよ。迎えに来るから」
受験生が、その最後の目標となる“大学”を見たいというのは少しもおかしい事ではない。今後の自己啓発の1つになればと思ったのだ。
「わぁ、大きなオートバイ。なんだか怖くないですか?」
「しっかりつかまっているんだよ。」
「ここが大学の入口、この岡が全部、大学の敷地でね、春になったら道沿いにある桜の花が一斉に咲いて、桜の花びらで埋め尽くされてね、きれいなんだよ。」
「見てみたい。」
キャンパス内を問題がない範囲で案内してまわった。
「お!佐藤。どうしたん?ずいぶん可愛い彼女だなぁ。」
「おー、俺の可愛い教え子だよ。4年後には後輩になるぞ。」
直美は冷やかし半分に友人が投げた言葉に、首をすぼめた。
「大学になったら自分で自分の受けたい授業を選ぶ事ができるんだ。」
「みんな同じ授業を受けるんじゃないの?」
「違うよ。一般的な勉強は高校まででほぼ終わり。大学は専門科目に集中して勉強するようになるんだ。」
「先生は?」
「僕は経済学部。直美ちゃんはどちらかと言うと理科系になるんじゃないかな。」
「私、頑張ってここに来る。先生たちの後輩になりたい。」
「ははは、直美ちゃんならもっと上の大学に行けるよ。」
そして年が明け、彼女と上の双子が受験する年度になった。
いつものように双子を教え、食事をもらっていると、
「あー、佐藤君!」
「はい、社長さん、どうしました?」
「今日、三者面談ってのがあってね。確かに佐藤君が来るようになって、子供たちの成績は少し上がった。それは認める。しかし、それ以上に川満直美の成績が飛びぬけて良いらしいじゃないか。ええ。どういうことなのかね?うちの子たちにはいい加減に教えて、川満には真剣に教えてるんじゃないのか?」
「直美ちゃん、そんなに成績が上がったんですか?」
「上がったも何も、クラスで1位、学年でも4位だよ。そんな事、頼みもしないのに。まったく、おもしろくない。」
「そうなんですか。いえいえ、ちゃんと教えてますよ。直美ちゃんは帰り際に質問を1つ2つ答えてやっているだけです。」
「まぁ、とにかくだ。さっき、家庭教師センターに電話して先生を変えてもらうように頼んだからの。君はもう来なくて良いよ。」
突然の解雇通告だった。成績が伸びないのは双子の努力が足らないためだが、何の言い訳も聞く耳を持たないようで、追い出されるように帰された。仕方ない。
「先生、、、」
「直美ちゃん」
「ごめんなさい。」
「いや、君が気にする事はないよ。僕ら受験生の家庭教師はどのみち受験する1日前までしかみてあげられないんだ。だからもう後、数回しか来れなかった。ちょっとお別れが早くなっただけさ。」
「今日、進路指導の説明会があって、第一志望の高校に合格できるって言ってもらえました。」
「そうか、そうか、それは良かった。だったら僕的にはもう思い残す事はないよ。」
「、、、、。」
「どうしたの?」
「でも、受けないんです。」
「なんで?どうして?」
「社長さんが、中学を卒業させてやっただけでもありがたいって思えって。」
「そんな、今まで一生懸命勉強してたのに。」
「でも、1年間真面目に働いたら、夜学の高校に行かせてやるって。1年間、ちょっとお休み。」
「そんな、夜学だと高校は4年かかるんだよ。」
「いいの、学校の先生が受ければNH高校に絶対受かるって言ってくれたから、、、ウチの高校受験はもう終わったの。」
耐え切れず直美の頬に涙がこぼれた。同時に高校受験したら上の双子が世間から比較される事になる。それは仕方ないことなのに、なんて卑劣な、、、と憤りをおぼえるけれど、たった今解雇になった身分で、しかも私はこの子の担当の家庭教師ではない。なんの発言権も持たないのだ。
そんな事があって、家庭教師のバイトそのものが嫌になり、この件を最後にこのアルバイトを辞める事にした。
■ コマネチ ■
4月、大学4年になった段階で、取得しないといけない単位は16単位、うち8単位はゼミなので事実上3科目、週に2日登校すれば良い状態にあった。以前から興味があったいくつかの講義を選んでも週に3日のお気楽カリキュラム。6月には故郷の地元企業への就職内定ももらっていた。
これから最後の大学生活を楽しむ事になるのだが、遊び代金を親にせがむのも心苦しいのでアルバイトを探した。今度は今までと違う業種の仕事がしてみたかった。学生課に来ていたバイト斡旋票に夕方からの酒屋の配達の仕事があった。家から距離的に近いという理由で、そこに決めた。
「与辺名酒店」は、4台のトラックで近隣の歓楽街を手広く活動している酒屋で、宵の口に社員さんがルートで酒の注文をとってきて、その後 出勤したバイトがその伝票を見ながら商品を倉庫や冷蔵庫から積み込み、社員と店を回って配達する。ちょっと休憩したら手分けして、今日配達した分の集金をしてレジに入れるのが主な業務で、日頃は行かない飲み屋、ステーキハウス、居酒屋、カフェーなどをまわってあるくので初めて経験する事が多い。塾や家庭教師のバイトばかりしていた私には非常に面白いバイトだった。
一月もすると要領がつかめてくる。メインは やはりビールで、全部の出荷量の半分近い。居酒屋は泡盛(沖縄の焼酎)、ラウンジはカクテルベース、カフェーは洋酒が多く出る。洋酒はそれほど多くはなく、特に輸入洋酒の高級なものはクラブなどの店でも1日に1〜2本しか出ないものである。
「佐藤君、『コマネチ』にオールドパー3本、IWハーパー2本、シーバスリーガルは5本ね。」
「はい、僕は初めて行くけど、すごい注文ですね。」
「あの店は現金払いだから、、、まぁ、酒屋からしたら上得意さんだよ。」
その日、そのコマネチの担当社員が体調不良で休みをとっていた。それで代わりに私とペアの社員が行く事になった。
「う〜ん、ここは洋酒だけだから佐藤君は残って、待ってて。」
「え、良いですよ。僕が運びます。」
「そう?うん、だったら、中で見たことは他言しないでね。」
「コマネチ」は「波の上繁華街」の入り口にある一軒屋の古い飲み屋で、もう何人も経営者が変わっている店らしい。なにやら訳ありな様子だが、店内はやや古いクラブの造りで、カウンターにおばさんが二人、客が一人いるだけで、これと言って変わったところはない。
「なんか、変わったところがありましたっけ?」
「う〜、今日はなかったね。いいやんいいやん。気にしないで。」
次に私がコマネチに配達に来たのは、秋になったばかりのまだ暑い日のことであった。
「さすがに、洋酒が多いコマネチさんも今日はビールが入ってますね。」
「うん、カウンターの奥に冷蔵庫があるから、そこに中身を出して、裏の土間に空瓶があるから、それと交換で空ケースを置いといて。」
「おはようございま〜す。与辺名酒店でぇす。ビールお持ちしました〜」
カウンターにいたおばさんが、煩いぞと言う顔でカウンターの奥を指差す。暗いバックルールに入ると、そこは空調が効いておらず、むっとして蒸し暑い。暗がりに目が慣れてくると、そこは厨房でエプロン姿の若い女性がチャームを作っているようだ。
「酒屋です。ビールはどこに?」
「そこ、廊下の冷蔵庫の中に、、、」
「承知しました。ちょっと失礼します。」
その女性の横を通って廊下に進もうとして、気が付いた。この女性はエプロンの下は何も着ていない。下着すらつけていないのだ。エプロンの脇から乳房が見える。思わず足が止まる。目を疑った。
私のそんな素振りに女性も動きが止まる。目が合う。よく見たらまだあどけなさが残る若い十代だと思われた。彼女は首を軽く振って「騒がないで、見なかった事にして」と目配せしてきた。前回、社員が店内で見たことは他言無用だと言っていたのは、このことだと直感した。
ビールを冷蔵庫に入れて、空ケースを交換に土間に出た。土間は陽が差さないせいか、雨水や洗濯機のすすぎ水のようなもので濡れて異臭がきつい。物陰には猫だか、大きなねずみだかが蠢いている。
空き瓶を抱えて戻ろうとしたら、土間の横に畳の部屋があって、そこに裸電球1個の下に何人かのエプロン少女たちが食事をしていた。
「え? な、直美ちゃん?」
その少女たちの中に、なぜかあの直美の姿をみた。
その少女は私の声に顔をあげた。以前に比べたら髪が長くなったような気がするが、大きな目が印象的な直美に間違いない。
その少女はすぐに立ち上がり、部屋を逃げるように出ていった。後を追おうとしたら、キッチンでチャームを作っていた女性が制して言った。
「追ったらだめ。忘れてあげるのが一番の思いやりよ。」
「そんな!」
振り向いた時に、もう直美と思える少女はいなくなっていた。私は無言のまま店内に戻った。すると事情を察したように、カウンターのおばさんの一人がほくそ笑んで言った。
「兄さん、知り合いかい?なんなら安くしとくよ。ふぇっふぇっふぇっふぇっ」
「いえ、そんなんじゃ、、、」
「だったら、この事は内緒にしといておくれ。お互いが困らないようにね。」
この店がどういう店なのか瞬時に理解できたが、何故 直美がここにいたかが分からない。気持ちが晴れないまま、自宅に戻った。
翌日、気になって仕方ないので、あの製菓工場に行ってみた。たまたま裏口あたりに見覚えがあるパートさん数人が雑談していた。
「あれ、先生、久しぶりだね〜。元気にしていたかね?」
「はい、ご無沙汰してます。今日は、直美ちゃんは?」
「直美ちゃん、、ちょっと、辞めちゃったんだよ。」
「辞めた?頑張って働いて高校に行くんだって言ってましたよ。」
「それは、そうかも知れないけど、あんな事があったらねぇ、、、ここにはいられないよ。」
「あんな事?あんな事って何です?」
そばにいた別のパートさんが、無理やり話に介入してきた。
「とにかく、もうあの子はここにはいないんだよ。 さぁ、みんな、仕事に戻ろう。」
やはり、何かあったようだが、この件には触れたくないようで、仕方なくバイクのところに戻ると、後ろから声がかかった。
「先生、あんた、直美ちゃんの勉強をみてくれてたんだろう?直美ちゃんがしきりに感謝していたよ。」
「ええ、それで気になっていたんですよ。何があったんです?」
「あれはまだ4月になったばかりだったよ。あたしら、早番の時に、出勤してきたら更衣室から裸の直美ちゃんが泣きながら逃げ出してきたんだよ。」
「えー。」
「そんでもって、更衣室にはここの社長がいてね。何をされたのか想像できるってもんよね。」
「だったら、直美ちゃんは被害者じゃないですか。」
「それが、社長が言うには、相談にのっていたら直美の方が誘ってきたって言うんだよ。」
「そんな話を誰が信じるんですか?」
「誰も信じちゃいないさ。でもね、社長に逆らうと、この不景気な最中、あたしら高齢者にはパートでもそうそう働き口はないものね。」
憤りで体中の血が逆流するのが分かった。とにかく、一刻も早く直美を保護してやらねばと焦る。バイト先の酒店に向かった。しかし、直美の唯一の手がかりは途絶えていた。
「佐藤君、コマネチのお女将から電話でね、昨日の女の子が今朝からいなくなっているらしいんだよ。君、知らないか?」
「なんですって?どうして?」
「知らないみたいだね。ふうむ、、そろそろあの店とは縁を切っておいた方が良さそうだね。」
店主の読み通り、それから1ヶ月もしないうちに警察の捜査が入り、コマネチは少年法および売春防止法で検挙され閉店し、直美の行方はまったく分からなくなった。そんな事があっても時間だけは過ぎてゆく。年が明け、私は卒業して故郷に戻り、直美の記憶は薄れていってしまった。
■ 遅咲桜 ■
姉御の結婚式は那覇から少し離れた海岸にあるセレモニーホールで行われた。笑いあり、涙ありの内容があるもので楽しく時間が過ごせていた。「姉御」と呼ばれるにはそれなりに意味があって、姉御が高校生の時に、交通事故で母親を亡くしてしまったのだ。父親にも重い後遺症が残り、父親の介護やまだ幼い弟たちの面倒をみるために3年ほど大学進学が遅れたのだった。
「姉御。おめでとう。良かったな。良い人そうじゃない?」
「へへへ、当たり前だろ。この私のメガネに適う男はそうそういないよって。」
「うん、本当に良かった。」
「あ、それでね、2次会も来るだろ?那覇に戻って2次会するからね。」
「おう、今日はとことん 付き合うよ。」
「そう言えば、嶺井が2次会にお前に紹介したい人がいるから、2次会に連れてきて良いかって訊くから承知しておいたよ。」
「そう?誰だろう?」
直感で直美ではないか?と感じた。それまでの楽しい気持ちから、2次会で会うことになるその人に緊張に似た期待がふくらんだ。その事が気になって、2次会の乱痴気騒ぎに心酔できないでいたら、嶺井が寄ってきた。
「お前にぜひ会いたいという人がいて、今日 姉御の結婚式で沖縄に来ていると伝えたら、今 この店の向かいの喫茶店に来ているんだよ。会ってやれないかな?」
「直美ちゃんかい?」
「いや、旦那さんのタンさん、台湾人だ。台湾の輸入家具の店を那覇を中心にいくつか展開されてる。その融資の件で俺と接点があったんだ。」
「台湾の人?ふうむ、、、」
「良い人だよ。奥さんと一緒にタンさんもこの春、俺らの後輩になるんだよ。もう30歳は越してると思うけれど、立派な人やと思うよ。」
「え?後輩になる?どういうこと?」
「聞きたいやろ?へへ、俺はこのタンさんが個人的に好きなんだよ。人間的に魅力のある人でね。その人が選んだ奥さんとお前が学生時代に接点があったことが俺は嬉しいんだ。」
「くすくす、変わってるな、お前。いいよ。行こうか。」
呼ばれていった喫茶店の奥の席にその男は待っていた。ずいぶんと大きな男で、顔は浅黒くあごが角ばっていて、どうにも厳つい雰囲気である。嶺井と一緒に現れたので、私が佐藤だと思ったのだろう。席に近づいたら立ち上がって深くおじぎをして、見た目とはかなり違う印象の笑顔で挨拶した。
「はじめまして、ワタシ、タンと言います。突然お呼び立てしたりして、すみません。よく来てくださいました。」
「はじまして、佐藤です。どうそ、お座りください。」
「ワタシ、妻の直美から佐藤さんの事をよく聞いていました。一度会ってみたいと思っていました。会えて嬉しいです。」
ちょっとイントネーションがおかしいけれど、日本語は達者なようである。彼は自国で商売にある程度の成功を収めて、その延長で沖縄に事業拡大が目的で乗り込んできていたらしい。若手の青年実業家と言うところだろう。
「ワタシが直美に始めてあったのは、接待で役人を特殊浴場に連れてきていた時でした。ワタシについた女性が直美で、ワタシは非常に違和感を覚えました。彼女は理知的で話す事柄が興味深くて楽しい。内面が豊かな印象で、普通なら そう言うところにはいない感じの女性で、そう言うところにワタシ魅力を強く感じました。」
「そうですか。特殊浴場で働いていましたか。」
「はい、でも佐藤さん、お金もない住むところも保証人もいない状態で、女が一人で生きていくには仕方ない事だと思いますよ。」
「ふむ、そうですね。誰も彼女をすくってはくれませんでしたものね。」
「ワタシ、通いました。来る日も来る日も。そしたら10日目に『もう来るな』と言われてしまいました。」
「毎日ですか?」
「はい、しかも10日間、ワタシ、サービスを受けてませんでしたから、サービス料金をもらってくれなかったんです。はい、彼女に迷惑かけたと思いました。それで、食事に誘いました。」
「きっと、豪華なディナーでしょうね。」
「はい、そのつもりでレストランを予約していたのに、直美は自分のアパートで自分の作った料理を出してくれました。グルクンと言う魚を揚げただけ、それにご飯と味噌汁の普通の食事でした。私は夢があって今の仕事をしているから私にかまうなと言われました。私はますます彼女が好きになり、彼女の夢を一緒に追いかけてみたいと思いました。」
彼女の夢、、、なんだろう?」
「はい、ご存知かもしれませんが彼女は事情があって親と分かれ、離れて暮らしていました。それで ちゃんと仕事をして、親を探して一緒に住むのが彼女の夢だったんです。そのために、ちゃんとした企業に入社できるように大学に行きたかったんですね。私と知り合ったときには既に大検に合格していて、高校には行けなかったけれど大学受験の資格を取得していました。」
「大検を、、、そうですか。」
「はい、絶対に佐藤先生の後輩になるって約束したらしいですからね。」
「そんなことまで覚えていたんですか。」
直美はあの製菓工場を着のみ着のままで追い出され、行く当てもないまま那覇の街をさまよい、流れ着いたのが夜の繁華街だったわけである。その事を誰が非難できようか、未成年の少女がたった一人で、生きてゆく糧を得る方法なんてそんなにいくつもあるはずもない。それがどんなに辛かったことなのかは想像するに余りある。
「ワタシ、直美を自分の会社に社員として入れました。彼女が20歳になったばかりの時で、彼女は驚くほどよく働きました。最初は事務員としてでしたが、彼女は仕事の能力が高いので、秘書にしました。正解でした。」
「彼女は努力家でした。私は工場にいたときしか知りませんが、若いのに人望もありましたね。」
「はい、ますます、ワタシ、気に入りました。それでプロポーズしました。10歳近く差があるんですが、ワタシまだ独身でしたから資格はありますね。」
「返事は?」
「条件付でOKでした。」
「条件?どんな条件なんですか?」
「はい、仕事しながらでいいから、大学に行かせて欲しいと言いました。彼女の大学に行く目的は就職でしたから、ワタシの会社に入った事で進学の意味はないはずだったのだけれど、佐藤先生との約束が残っていたのです。彼女は夜の街で泥をなめながら生きてきました。でも心が折れなかったのは佐藤先生との約束があったからです。ワタシ、感動しました。」
「、、、。そうですか。」
「この春、ワタシと直美、きちんと受験して合格しました。4月から大学生です。一緒に直美の夢を果たせました。ありがとうございました。」
「いいえ、私は何もしていません。あなた方のそばを少しだけ通りかかっただけです。でも、本当に良かった。直美さんを大切にしてあげてください。」
「面会人は帰ったの?」
「うん、6年前の沖縄に残していたモヤモヤがすっきり、きれいに晴れたよ。」
「なんだか分からないけど、嬉しそうね。」
そこに一陣の夜風、路肩に吹きたまった桜の花びらが舞い上がった。
「姉御は3年遅れで入学してきたんだっけね?」
「そうよ。入学も3年遅れ、卒業も3年遅れ、就職も3年遅れたわ。」
「はぁ〜、でも結婚は3年以上遅れたんじゃない?もう30歳になるんじゃないのかね?」
「ばかー!誕生日は来月じゃ。29歳のうちに結婚したかったから今月、無理に式をあげてるんよ。乙女心を分からんのかーー。」
沖縄の桜は日本で一番早く開花する。しかし、ごく稀になかなか開かないつぼみがある。何年も遅れてようやく開いたその花は、どの花びらよりも美しく誇らしげに咲くことを私は知っている。