鬼の姫に愛を捧げる
―――ああ、つまらん人生だった。
泥と血に塗れた傷だらけの身体を地面に横たえて、男は木々の間から黒い瞳に映る月を眺めていた。
彩の国の君主に代々仕えてきた家の三男に生まれた男。
飛び抜けた才を持っていたわけでもなく、文も武も並よりは上という程度。誰もが見惚れるような容姿であるということもなく、その顔立ちは可もなく不可もなく。強いて特徴を挙げるなら、多少他人より背が高いというくらいか。
二人の兄たちは優秀で、彩の国は戦もなく平和そのもの。平凡なこの男には一生光が当たることはないだろうと周囲から言われ続けてきた。
それでも男は卑屈に歪むこともなく今日まで生きてきた。
そのように生まれたのだから嘆いても仕方がないと笑いながら。
凡人は凡人なりに出来ることを。国のために、家のために、自分の力で出来ることをひたむきに、真っ直ぐに務めてきた。
忙しくも平和な時を過ごし、やがて将来を誓い合う恋人も出来た。それが美しいと評判の姫であったのだから男にとって生涯で唯一自慢できる事になっただろう。平凡であっても悪くない人生ではないかと、笑えたであろう。
その姫が君主の嫡子に見初められることさえなければ。
失うのは一瞬であった。
姫は未来の国母という地位のためにあっさりと男を捨てた。姫と恋仲だったという理由で君主やその周りから疎まれ、家の者たちもそのような不興を買ってしまった男を疎んだ。
そしてある日、男に君主より勅命が下された。
東の深い森に住まう鬼を退治せよというもの。それは嫡子が、そしてかつて恋仲であった姫が男を疎んで手を回したものだった。
―――そこまで目障りであったかよ。
伴の一人も付けることなく東の森に送り出された男に生きて戻ることなどできるわけがなかった。
誰もが、男は死んだものだと考える。
事実。今この時、男は鬼の手によって殺されようとしている。
もはや身体に力は入らず、視線のみを自身を見下ろす鬼へと向ける。
自棄になり。どうとでも成れと刀を振り回していた男は、この時になって初めて鬼の姿を真っ直ぐに捉えた。
額の左に生えた角は煌びやかな玉で飾られ、腰まである長く美しい黒髪はサラサラと夜風に揺れいた。雪のように白い肌は月の明かりに照らされて、まるで白く輝いてるようであり、鮮やかな色彩の衣を押し上げる豊かなふくらみ。
目尻と唇にひかれた紅は白い肌と相まって切れ長の目元と妖しく微笑む口元を艶やかに飾る。
そして何より男が惹きつけられたのは、やや紫みを帯びた鮮やかな青い瞳。
―――なるほど、これは間違いなく鬼じゃ。これほど美しい者が人であるわけがない。
ゆっくりと鋭い爪が生えた指が男の喉元へと近づいてくる。
―――悪くないか、これほどの女の手に掛かって死ぬのなら。
そう思い、男はそっと目を閉じた。
「はっ!まったくっ、つまらん人生だったっ!」
清々しいまでの笑みを浮かべ、そう叫んだ男はその意識を手放した。
○●○
「……ここは?」
障子を透かして差し込む陽の光に男は目覚めた。そして男が目にしたのは見知らぬ天井だった。
「目覚めたか」
声がした方に視線の向けた男は目を見開く羽目になった。
赤い蓬髪、額には二本の角。つり上がった大きな目はぎょろりと男を見据え口元には四本の牙が突き出し、男の顔の倍はありそうな大きな顔に角張った顎。それに見合う、はち切れんばかりの筋肉を有した巨躯に獣の毛皮で作らた腰巻を纏った鬼が居たのだから。
「っ!!……ぐっ!!!!」
慌てて身体を起こした男は激痛に襲われ蹲ってしまった。
「たわけが。そのような身体で動く奴があるか」
胡座をかき柱に背を預けていた鬼が呆れてそんな言葉を吐くと男は自身の身体を見下ろす。全身に布が巻かれており、ところどころ赤く染まっていた。
「何故、俺は生きている?」
そう、あの時に男は鬼に殺されたはずだった。
「知るか。姫様が貴様を殺さなかった。とことん気まぐれなお方だからな、何故かなど分からぬわ」
「姫様?」
「貴様があの夜に刀を向けた鬼は我ら鬼を束ねる鬼の王、我らが主の姫様じゃ」
それを聞き男は言葉を失い固まってしまった、その時。部屋の障子が勢いよく開かれた。
「おぉ、やっと目を覚ましたか」
開け放たれた障子の向こうに立っていたの今まさに話にあった鬼の姫であった。
自身を見据える瞳に男は目を見開き口を半開きにして随分と間抜けな顔を晒す。
「くはははっ、なんじゃその間抜けな面はっ」
楽しげに笑う鬼の姫。男と話していた鬼はその姿に苦い表情を浮かべて立ち上がる。
「姫様……。目覚めた時にはお知らせしますと、そう申し上げたではありませぬか。何故、度々覗きに来られるのですか」
「そうは言うが、こうして目覚めておるのに妾のもとに知らせは来なかったではないか」
「今しがた目覚めたところでございます。お伝えする前に姫様が来られたのです」
「ならば手間が省けて良かったでないか。妾はこの人間と少し話がしたい、しばらく下がっておれ」
鬼の姫はそう言うが、はい。そうですかと頷けるわけがない。
「姫様、我が儘も大概になさいませ。たかが人間といっても、この者は我らを殺しに来たのですぞ。姫様を残して下がるなぞ、出来ようはずもないではありませぬか」
「やかましいわっ。このような死に損ないにどうにか出来る妾ではないわっ!早う下がらぬかっ」
「しかしっ!それでは我らが主にっ――」
「親父殿には妾が話す。よいから下がれ」
さすが鬼の王の姫。言葉に乗る力が違う。睨まれた鬼は渋々ながらも部屋を出て障子を閉めた。
「やっと話ができるな、人間。三日も待たされるとは思わなんだわ」
あの夜のような妖艶な笑みとは違う、好奇心に彩られた笑みを浮かべて鬼の姫は男を見据えた。
見下ろしてくる青い瞳に男は気圧されながらも、どうにか口を開く。
「……何故、俺を殺さなかった?」
「何故か? 何故だと思うっ?」
胸の前で腕を組み前のめりに聞き返してくる鬼の姫。より一層強調されたふくらみに男は思わず目を逸らした。
「のう? あの時、何故にぬしは笑ったのじゃ?」
「笑った? 俺は笑っておったか?」
あの時、全てを諦めた。生きることを諦めた。それなのに鬼の姫は自分が笑っていたという。
「ああ、笑っておった。これから殺される人とは思えん顔でな。なんというか、清々しいというのかのぉ。こう……」
「ははっ、そうか。笑ったつもりはなかったが。そうか、俺は笑っていたかっ」
僅かでも力を込めれば悲鳴を上げるほどの身体で、それでも男は笑わずにはいられなかった。
いきなり笑い出した男に鬼の姫はキョトンとした顔で首を傾げる。
「今も笑っておる」
「ああ、これは笑わずには居れぬよ。鬼の姫よ。お主に殺されると思ったとき、これほど美しい女に殺されるならそれも良いかと、俺はそう思った。そうか、俺は笑っていたかっ!」
己の生まれを諦め、己の才無きを諦め、惚れた女を諦め、最後には生きる事も諦め、それでも笑った。しかも清々しい顔とは。いっそ自分は大物ではないかと思えてしまうほどに単純な思考に男は己のことが可笑しくて仕方がなかった。
「ほう、美しいか。そうか……ふむっ、人間のくせに妾の美しさが分かるとは大したものではないかっ!」
男の言葉に鬼の姫は手を腰に当てて、満足そうな笑みを浮かべながら胸を張った。
明るいところで改めて見てみも、この鬼の姫はやはり美しいと男は思う。
身の丈は自分と変わらないか。スラリと長い手足。身に纏うのはあの夜とは違い深い藍色の着物が肌の白さを引き立て髪の黒に馴染む。
切れ長の目元、すっと通った鼻筋に桜色の唇。ほっそりとした輪郭と合わせて儚げにも見えるが、浮かべる表情は豊かで少女とも女ともつかぬ不思議な雰囲気を纏っていた。
「……それで鬼の姫よ。俺はこれからどうなるのだ?」
「どう、とは?」
「気になっておったことには答えただろう。もう俺に用はあるまい。用済みの俺をこれからどうなる? 酒の肴としてお前に食われるのか?」
既に諦めた命。怖いものなど無いと、男はそんな事を言うが、鬼の姫はその言葉が大層不満だったようで唇を尖らせながらそっぽを向いた。
「人なんぞ喰らうのは悪食だけじゃ。妾はゲテモノを欲するような愉快な舌は持っておらぬわっ!」
(まるで万華鏡のようじゃ)
ころころと忙しなく変わる表情に男はそんな事を思う。
「それはすまなかった。だが、殺すのだろう? 俺はお主を殺そうとしたのだから」
「ふむ。……可笑しな奴じゃ。折角生き存えた命をそうも容易く手放そうとするとは。短い時しか生きられぬ人は、貪欲に生にしがみつく者ではないのか? この森にやってくる人間は皆そうであったが」
細い指を顎に当てながら、鬼の姫は不思議そうに男を見つめていた。
「そうであろうな……。だが、俺はそいつらとは違うのだ。俺には何も無い」
「何も無いとな?」
「そいつらには欲が有る。名声を欲し、金を欲し、女を欲する。帰る国がある、家がある、家族がいる、帰りを待つ者がいる。生に縋る理由が有る。……俺には、何も無いのだ」
静かに語る男の姿をジッと見つめる青い瞳。
「・・・・・・くふっ」
しばしの沈黙の後、鬼の姫は堪えかねたように息を吹き出した。
「くふっふふふふっははははははははぁぁぁぁ。あぁぁぁはははははははははっ!なんじゃそれはっ!!ははははははっ、何も無いとはっ!ひぃっひぃっひぃぃぃあぁぁぁははははははっ。分からぬっ!ぬしが言うておることが妾にはっ、さっぱり分からぬっ!はははははははっ」
腹を抱えて笑い転げる鬼の姫の姿に男は乾いた笑いを漏らした。
「ははは、そうか。分からぬか……」
立ち上がった鬼の姫は大仰に両腕を広げて男の呟きに答えた。
「あーーっ分からぬっ。さっぱりじゃっ!!……いや待てっ!一つだけ分かることがあるっ」
何かに思い至った鬼の姫は満面の笑みで真っ直ぐに伸ばした人差し指を男に向けて突き出す。
「ぬしと彼奴らが違うというのは分かるっ」
「それで何故分からぬのだ……」
力無く項垂れた男に気分を害したのか、頬を膨らませた鬼の姫は息のかかる距離まで顔を寄せてきた。
「それはぬしが全く逆のことを言うからであろうがっ」
「っ!……ぎゃ、逆とは何だ? お、俺にはお主の言うておることの方が、分からぬ……」
漂ってくる甘い香りに男はしどろもどろになりながら答える。
「逆は逆じゃっ。何も無いのは彼奴らであろうがっ。肉体は朽ち魂は失せ、もはや何を得ることも成すことも出来ぬ者どもに何が有ると言うのじゃ? ぬしには命が有るではないか。得るため、成すために足掻き生きる時間があるではないか。何かを持つ者は生に縋ると言うなら、命を持つぬしが縋らぬのは何故じゃ?」
幼子のように好奇心に瞳を輝かせて見つめる鬼の姫。
「生きるために生きることは縋る理由にはならん。そんなものは死んでおるのと変わらん」
「生きておることを死んでおるとはどういうことじゃ? そもそも死ねばその理由とやらも得られんではないか。ぬしの言葉は死ぬ理由を求めておるように、妾には聞こえるのう。どうなんじゃ?」
見つめてくるその瞳に、問いかけるその言葉に男は何も言えなくなってしまった。
(これが……鬼という、者なのか)
そこには生きろと言う善意も死ねと言う悪意もない。そこに在るのは純粋な好奇心。
「答えよ、人間」
菓子でもねだる子供のような顔で催促してくる鬼の姫。
(なるほど。……それもまた道理か)
「鬼の姫よ」
「おおっ。してっ、どうなんじゃっ?」
「俺にも分からなくなってしまった」
そう答えて笑った男。その笑顔は妙に穏やかなものだった。
○●○
「どうじゃ、傷の具合は?」
「どうにか歩くくらいには、な」
「まこと、人間とは脆弱じゃ。起きるまで三日もかかり、ひと月も経っておるのに歩くのがやっととは」
縁側に腰を下ろして、何を考えるでも庭を眺めていた男を鬼の姫は呆れた顔で見下ろした。
あの時、分からなくなったと言った男。
鬼の姫はそれはそれは楽しげな声を上げて笑い、盛大に床を転げ回った。勢い余って角が床板に突き刺さるほどに。
―――可笑しな男よ!自分のことも分からんと言うかっ!!
大笑いしながら、そう言った鬼の姫は腹を抱え目尻を拭いながら男に言い放った。
―――分からぬなぁ。まこと、可笑しな男よ。じゃが、だからこそ面白い。ぬし、此処にとどまり、妾の話し相手になれ。飽きるまでは生かしておいてやるわ。
そう言って、ひと月。
鬼の姫が毎日やってきては、男の話を聞き一頻り笑って帰っていくという日々だった。
「何をしておった?」
「心地よい風が吹いておったのでな。風にあたりながら、お主を待っておった」
「鬼を待つとは酔狂な人間じゃの」
風に揺れる黒髪を撫でながら、鬼の姫は庭へ視線を移す。
「お主しか話し相手がおらんのでな。何もせずに過ごすのはどうにも落ち着かんのだ」
「落ち着かんと言うわりには暢気な顔をしておるではないか」
「ははっ、今はお主と話しておるからな」
「たわけたことを……」
もう一度呆れ顔を男に向けた鬼の姫は男の横に腰を下ろした。
「何かしとらねば落ち着かぬとは、人の里ではどのように過ごしていたのだ?」
「……日の出とともに起き、己に課せられた務めに動き回り、月が頭上に輝くころに家に帰り泥のように眠る。それの繰り返しかの」
「なんじゃそれは。虫でも、もう少しのんびり生きておるだろうよ。ぬしは命を質にでもとられておったのか?」
膝の上に肘を乗せて頬づえをつき、鬼の姫は信じられないというように目を細めて男を見据えた。
「ははっ。進んでやっておったのだ。それくらいしか自分には出来ないと思っておったからな。……今になって思えば、つまらん生き方であったと思うよ」
静かに笑う男。
「そうして生きてきた結果が、鬼に殺されてこい。だったのだからな」
「何故、そんなことになったのだ? ぬしは何かとんでもない事をやらかしたのか?」
鬼の姫は表情の抜け落ちた顔で男に問う。纏う空気は随分と剣呑なものだった。
「惚れた女がいた。評判の美姫でな、姫も俺のこと好いてくれていてな。ともに歩んでいこう誓い合った」
穏やかな表情を浮かべながら淡々と語る男。
「しかし、姫は君主の息子に見初められてな。姫にはあっさり捨てられ、息子に俺は疎まれ、この森の鬼を討てと命じられた。目障りだから死んでこいと言われたのさ。仕えた主に、尽くした家族に、な。俺は全ての者に疎まれた」
「なんじゃそれはぁ? 意味が分からぬ。欲しいモノが手に入って、何故疎ましく思うのだ? それに、ぬしらの恋路に君主も家族も関係なかろう」
理解できないと呆れ顔を浮かべた鬼の姫からは矢継ぎ早に疑問の言葉が飛んでくる。
男はそれに苦笑いを浮かべながらも静かな声で答えていた。
「体面というのをな、人は気にするものなのだ。だから、姫と恋仲であった俺は邪魔だった。君主にとっては次代の醜聞、家族にとっては君主の不興を買う厄介者、何よりに息子は姫に惚れ込んでのことであったからなぁ。俺の存在はさぞ忌々しいものであったろうよ」
「ふむ……。やはりよく分からぬな。人とは面倒な生き物じゃの。しかし、そんな面倒なことになっても欲するほどの姫であったのか?」
「まぁ、美しい姫ではあったよ」
「ぬしはまだ、その姫を好いておるのか?」
そう問う鬼の姫の表情はいつになく真剣なものであった。苛烈なまでの光を宿す青い瞳に、男は魂を持ち去られるのではないかと思えてしまう。
「何故だか憎む気持ちはないが……。かと言って今だこの胸を焦がすこともない。……美しい姫ではあったが。今は、……いや、よう分からぬ」
男が言い終えると鬼の姫は立ち上がり背を向け歩き出す。
「つまらぬ話じゃ。興が失せた、妾は戻るっ!大体なんじゃっ!妾を前にして人の女なぞを!それも己を捨てた女を美しいなどとっ!美姫などとっ!」
「そこは怒るとこなのか?」
そして数歩進んでから立ち止まると首だけ振り返り、男を睨みつけ不機嫌な声で言いつけた。
「次はもっと面白いことを話せ。……つまらぬ話をしたら殺す」
男はその言葉に可笑しそうに笑いながら、その背に言葉を投げた。
「瑠璃と玻璃を比べるなぞ、愚者の所業であろう。そうは思わんか、鬼の姫よ」
「どちらが瑠璃じゃ?」
自身を睨みつける、やや紫みを帯びた鮮やかな青。瑠璃色の瞳を見つめて男は静かに微笑んでいた。
「……たわけが」
それだけ言い残して歩き去る鬼の姫を見送った男は空を見上げた。
「なぁ、鬼の姫よ。俺は、いつまで瑠璃を愛でておれるのかの?」
○●○
鬼の姫が言った“次”は男が思っていたよりも幾分早く訪れた。
鬼の姫が去ってからぼんやりと庭を眺めていた男。
日が落ち、月が昇ってしばらく経った頃。
鬼の姫が酒を手に男のもとへ訪れたのだ。
しかもあの夜と同じように美しく着飾った姿で。男はその姿に心臓が跳ねるのを感じた。
「鬼の姫よ。今宵は何ぞ宴でもあったのか?」
「いいやぁ、そんなものはない」
夜空の月を眺めながら何を話すともなく静かに盃を煽っていたのだが、酔いが回ってきたのか男は深く考えることなくそんな事を鬼の姫に聞いてみた。
「なんじゃ。何故そのようなことを聞く?」
酒のせいか、月夜のせいか。魂を抜かれるかのように錯覚する。
妖しく目を細め、微笑を浮かべて見つめる鬼の姫に男は息を呑んだ。
「……お主のそのような姿を見たのはあの夜だけだからな。そういったものはあまり好まぬのかと思っていた」
「ふふっ。あぁ、好まぬな。あの夜は特別な宴であったから仕方なく、な」
「特別とは?」
男の言葉に鬼の姫は一層、妖艶な微笑みを浮かべた。
「妾の夫を決める宴であった」
その言葉に男は手に持つ盃へ視線を落とした。
(あぁ……)
黙り込んだ男に鬼の姫は先ほどの妖艶な笑みを消して、探るような視線を送る。
「のぉ、何を黙り込んでおるのじゃ?」
「……いや。大したことではない」
「ふむ……」
男の態度に鬼の姫は思案顔を浮かべた。
「人の流儀ではどのようにして伴侶を決めるのだ?」
「……そう、だの。親が決めるかの。……家の格が高いほど家同士の繋がりに重きを置き、当人同士の意思など勘定に入らない。まぁ、好きおうて夫婦になることもあるが……貴賤の差はあるが、やはり根にあるのは繋がりを広げるため。そのために相手を選ぶことが、大半かの」
「なんとも味気ないのう」
つまらなそうな顔で鬼の姫は盃を呷った。
「鬼の流儀ではな、伴侶は女が決めることになっておるのだ」
「……そうか」
男は気の抜けた相槌をうつが鬼の姫は特に気を悪くした様子もなく話を続けた。
「子を産めるのは女だけ。長く栄えるため、次代を担う子を産むという大役を務める女の特権じゃ」
「……ああ」
「鬼は子を成すとなれが百、二百の子を産み育てることになる。つまらん男なんぞ、子を成す以前に肌を重ねる気にもならぬ」
そこまで言って、鬼の姫は空になった自身の盃と男の盃に酒を注いだ。
満たされた酒に映る己の顔を見て、男は自嘲ぎみ笑う。
(情けない顔じゃ。……命すら諦めた身であるに、この瑠璃を諦めることができんとは)
正体を無くすほど酔えれば、まだ救いがあったかもしれない。だが男はどれだけ呑んでも酔うことができなかった。
「じゃからな。……その宴で妾は夫を決めることができなんた」
「・・・・・・・・・・・・・は?」
口を開け、間抜けな顔を晒す男。鬼の姫はその顔を見て吹き出すが、話を再開するとその美しい顔を不機嫌そうに歪めた。
「我こそが、と名乗り出たものがおってな。ならば、その証を立てよと言ったのじゃ。そのための宴であった」
―――比類なき力を持つ我こそが姫に相応しい。
「張り倒してやったわ」
―――誰にも勝る知を持つ我こそが姫に相応しい。
「盤上の遊戯すら妾に勝てなんだ」
―――その者たちより財を持つ我には姫の望むものを揃えることができる。
「これが一番つまらなかった。なれば、妾の退屈を消し去るモノを揃えてみせよ。そう言ってやった」
そして宴の席で並べられたのが、北の地で幻と言われる獣、南の地に咲く美しい花、東の地で手に入る珍しい石、いくつもの国でその名を知られる西の地に住まう芸に秀でた人間。
「どれもこれもつまらん物ばかりじゃった。特にあの人間は論外じゃったわっ。良い笛を聴かせると言っておったが怯えて、ろくに笛も持てなんだ。あの怯えた面も見慣れたものじゃ、何が望むものを揃えるじゃ。あのたわけがっ!」
盃を一気に呷ると苛立たしげに息を吐いた鬼の姫。それから何かを思い出したように一転して柔らかい笑みを浮かべた。
「そんなであったのでな。妾の夫はその宴では決まらなんだ。つまらぬモノに付き合わされた憂さ晴らしに森を歩いておった時に、主に会ったのじゃ」
「……ああ。それで」
「妾を見た時のぬしは傑作であったわ」
肩を揺らし笑う鬼の姫の横顔を見つめながら男は、静かな声で聞く。
「どんなであったよ?」
「眠たげで覇気は無く。何故この森に来たのか、まるで分からなかった。時折ため息すら漏れておったぞ。鬼を前に怯えるでもなく、かと言って猛るでもない。強いのかと思えば、そんな事もない。妾はぬしのことがまるで測れなんだ」
盃を置き、鬼の姫は男の前に立った。
「そして、ぬしは笑った。死を前にして、あのように気持ちの良い笑顔を浮かべる者を妾は初めて見た」
鬼の姫を見上げる男はその言葉を聞きながら、月明かりを背負うその姿を美しいと思った。
諦めることなどできないと思った。
「お主が美しかったからじゃ」
「妾を前にして、そんな言葉を吐いた人間は初めてじゃ」
「それは、そいつらの目玉が玻璃で出来ていたのであろうよ」
「ふふっ……あの夜の、あの顔を見て、妾はぬしのことを面白いと思うた。ぬしのことをもっと知りたいと思うた。……じゃから、妾はあの夜。ぬしを我が夫とすると決めた」
その言葉に男は目を見開いた。
鬼の姫は男の驚きに構うことなく、言葉を続ける。
「ぬしは、まこと面白い男であった。ぬしへの関心が尽きることはなかった。ぬしは命乞いどころか怯えることもしなかった。人で在るぬしが妾を美しいと言う。鬼である妾を待っていたと言う。妾はぬしに会うのが嬉しくて仕方なかったっ。ぬしと話すのが楽しくて仕方が無かったっ」
鬼の姫は男の頬に手を伸ばす。
「昼間、ぬしが他の女を褒めることが耐えられんかったっ。……のう、妾は美しのだろう? ならば妾だけを見よっ、妾だけを思えっ。人間の女のことなぞ忘れよっ!」
男は潤んだ瑠璃色の瞳を見つめていた。これほどに心が震える言葉はなかった。
「……俺は、もう諦めなくてもよいのか?」
頬に触れる手に男は自身の手を重ねた。
「俺は、そなたが愛おしい。叶うならば、この身尽きるまで共に在りたい。それは願っても良いことなのか?」
男の言葉に、鬼の姫は男に飛びついた。
「離さぬっ!ぬしは妾のものじゃっ。ずっと妾のものじゃ!」
縁側に倒れこんだ男はしばらく呆然としてから瞼を閉じる。目尻からは雫が伝っていた。
男は鬼の姫の背に腕を回し、力の限り抱きしめた。
「鬼の姫よ――」
「桔梗じゃ……」
男の言葉を鬼の姫は遮る。
「名で呼ばぬか。妾はぬしの妻であろうが」
「桔梗か。良い名じゃ」
惚れたの女の名を知らなかった自身の間抜けさに笑いながら、男は声を発した。
「俺の名は八雲じゃ」
男の腕に更に力が篭る。
「桔梗、俺はお主と共に在りたい」
「当たり前じゃ。妾が離すと思うなよ、八雲」
鬼の姫は唇を重ね、男の口を塞いだのだった。