異世界のはじまり〈ススキノ〉
意識がはっきりしてきてまず感じたのは、全身の強烈な違和感であった。
着ている服が変わっている、のもそうだがそれだけではないもっと大きな変化。
ぼんやりとした頭のまま、視線を落とすと水溜りが広がっており、水面に移る自分の顔を見た男性は独り言を漏らす。
「……ああ。 そういうことですかにゃ」
反射的に漏れた言葉には、ゲームのキャラクターとしての語尾がついていた。
その顔には黒い毛並みが広がり、形の良い猫耳がぴょこん、と立っている。
これは〈大災害〉直後の日本サーバー最北プレイヤータウン、ススキノでのお話。
他のプレイヤーと同様、この〈猫人族〉のプレイヤーが真っ先にしたことも現在の状況確認だった。
プレイヤーネームは〈にゃん太〉。
種族は〈猫人族〉。
メイン職業は〈盗剣士〉でそのレベルは九十。
サブ職業は〈料理人〉。
その他装備や特技の習得状況なども確認したが、記憶する限り、ゲーム時代との差異はない。
ただ、やはりというべきか、ログアウトとGMコール。
この二つのコマンドはメニューのどこを見渡しても、なかった。
メニューを確かめている間、フレンドリストは以前通り機能していることがわかり、見知った名前が数多く、それこそ暫くゲームから離れていた名前もちらほらインしているのが見られた。
念話こそかけなかったが、いつか会うことになるとは確信を持てた。
だから、今はこの異変に順応し、「この世界での力」を蓄えようと思った。
この世界の中で生き抜くために。
モンスターとの、あるいは他プレイヤーとの争いで力不足を嘆くことがないように。
そして何より、新しい冒険を楽しむために。
この混乱の中にいて、不安より期待が膨らむ。
結局、性なのだ。 ゲーマーの、あるいは、〈茶会〉の。
にゃん太には拠点となるゾーンがなかった。
〈猫まんま〉というギルドに属してはいるものの、他のメンバーとは久しく会っておらず、もともとほぼ唯一のメンバーであったが、この異変を受けて事実上ソロプレイヤーになった。
そのためギルドホールなど借りていないし、ゲーム時代は睡眠など必要とされていなかったため、自分用の家を借りたり買ったりすることもなかった。
しかし、事件――いつしか〈大災害〉と呼ばれるようになった――の後は事情が変わった。
睡眠も食事も元の世界と同じように必要となったのだ。
そのため、街中のとある一軒家を月極で借りることにした。
寝るだけなら金貨数枚で借りられる街の宿屋でもよいのだが、これから戦闘訓練を積むつもりであり、その結果出るであろう戦利品の倉庫も兼ねようと思ったのだ。
こうしてにゃん太は家を借り、レベルの低いモンスターが出るところから、少しずつこの世界に慣れていった。
―――――――――――――――――――――――――――
「うん……。 だから、〈タウンゲート〉も止まってるみたいやねん……。 いま全速力で迎えいく準備してるから、もう、ほーんのちょっとだけ辛抱してな」
セララは、ギルドマスターの励ます声を聞きながら、一泊金貨五枚の安宿屋で膝を抱えた。
運が悪かった。
〈大災害〉時、アキバではなくここ、ススキノでクエストを受けていたことも、一緒にクエスト攻略をしていたメンバーが同じギルドではなかったことも。
「その……ごめんな。 こんなことになっちゃって」
「そ、そんなことない、です」
口ではそう言いつつも、頭の隅では責任を押し付ける誰かを探さずにはいられない。
助けてくれない他のススキノのプレイヤーを?
レベルが九十もあるのに未だアキバの街にいるギルドマスター〈マリエール〉を?
誰も悪くなんかない。
そう自分に言い聞かせて、運が悪かった、と繰り返すのだ。
『それで、助けに来てくれるのはいつになるんですか』
一番訊きたい質問は口に出せないまま。
いつまでも宿屋に篭ってはいられない。
というのは、お金がないからだ。
手持ちの金貨はたった数十枚。
宿屋代だけでも怪しいのに、食事を必要とするようになってしまったため、いつになるかわからない救出まで乗り切るにはとても足りない。
だからといってモンスターと戦う勇気があるわけでもなく、魔法によって召喚した妖精をセンサー代わりに使って、安全を確保した上で薬草などを採取しているだけだ。
それでも、いつモンスターが妖精たちの間をすり抜けて来るかと気が気ではなく、精神をすり減らす毎日を送っていた。
こうしてやっと、日の稼ぎが金貨十枚に届くかどうか。
疲れて帰ってきて、湿気た味のない煎餅のような食事をかじり、硬いベッドに横になる。
そんな生活が十日を過ぎようかという頃の昼前、街中で声をかけられた。
「きみ、一人? 良かったらギルドに入らない?」
声をかけてきたのは前衛職らしき男性二人で、言葉遣いこそ少し穏やかだが、とても嫌な雰囲気を醸し出していた。
二人とも所属ギルドは〈ブリガンディア〉。
この二人は知らないが、同じギルドの人物がNPCに乱暴をしていたところを見た記憶がある。
「いえ……ギルドにはもう入ってるので」
そう、俯いたまま答えた。
似たような誘いは何度かあったが、既にギルドに所属していると答えるとすぐに引き下がった。
が、今回は相手が食い下がる。
「でもそのギルド……〈三日月同盟〉? 他のメンバー見たことないよ。 他のプレイヤータウンをホームにしてるギルドなんじゃない?」
図星を突かれ、言葉に詰まっていると今まで口を開かなかったもう一人の男性が荒っぽく言い放つ。
「あーもー、めんどくせぇな。 ギルマスは『連れてこい』つっただけだろ? 力づくでいいじゃねぇか」
「それもそうか」
その言葉を聞いたセララは体をびくりと大きく震わせ、二人に背を向けて走り出す。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ……っ)
全力で走った。 それこそ、心臓がはちきれるかと思うほど。
けれど、すぐに追いつかれてしまった。
女の子だから、まだ小さいからでは、ない。
この世界ではそんなもの何の関係もなく、単純にレベルに裏付けされたステータスの差。
「はじめっから言うこと聞いてりゃ手荒なことはしなくて済んだのによ」
セララの髪を掴み、衛兵が出てこない程度の力で引っ張る男性が吐き捨てるように言う。
こうしてセララは人身売買ギルド〈ブリガンディア〉に捕まった。
連れて行かれた先は町外れの館であった。
おそらく大地人の貴族か商人が住んでいたところであろう。
その主人の姿は見えず、〈大地人〉の召使が何人かいるだけではあるが。
「おとなしくしてろよ、おらっ!」
セララはほとんど放り投げるようにして、暗い部屋に入れられ、そのまま扉の鍵をかけられる。
乱暴なことをされても衛兵が出てこないところを見ると、ここはススキノ内のはずだが街とは違うルールに支配されているのだろう
部屋の中には他に何人も女の子達が蹲っており、その全員が〈大地人〉であった。
彼女らはセララに一瞬目を向けたがすぐに興味を失ったように下を向く。
レベルを見れば、まず10に届いている人はいない。
その時、りんりんりん……と頭の中で鈴の音が鳴り響く。
聞きなれた音、ギルドマスター〈マリエール〉からの定時連絡だ。
「……はい、もしもし」
極力声を押し殺して答える。
「……どしたん、セララ? そんなひそひそ声で」
応答の返事だけで何かあったことを察し、ギルマスは何があったのか尋ねてくる。
声を殺したまま、それでもしっかり聞こえるようにゆっくりと喋る。
「その……柄の悪いギルドに捕まって、いま、閉じ込められています……」
息を呑む音がした。
「それで、その、無事なんか?」
「はい……今のところは……」
『今のところは』。
言葉にすると真実になってしまいそうで、口に出せない恐怖が詰まった一言。
言ったところでどうしようもない、そうはわかっているけれど一言だけ漏れてしまった。
「はやく、たすけて……」
言い終わるかどうかという瞬間、ドアが壊れるのではないかという勢いで開き、反射的に念話を切ってしまった。
「なにぼそぼそ話してんだァ!?」
ひ、と息が漏れる。
「あぁ……。 お前か、新入り。 そういや〈冒険者〉つったっけな。 念話してたんだろ?」
入ってきた男の名は〈デミクァス〉。
どうやらギルド〈ブリガンディア〉のギルドマスターのようだ。
セララはどうしていいかわからず、ただぷるぷると首を横に振る。
「嘘ついてんじゃねーよ、ッ!」
デミクァスがセララの腹を蹴り飛ばす。
体が吹っ飛ぶほどの強さで蹴られることは初めてで、セララは走馬灯のように、一瞬でいろんなことを後悔する。
念話に出なければ。
外出せず宿屋でじっとしていれば。
ススキノでのクエストになんか参加しなければ。
……このゲーム〈エルダーテイル〉を、始めなければ。
「危ねぇ、今のでHPが半分以上飛んじまったか。 職業は……〈森呪遣い〉か。 自分で回復しておけ」
蹴られたお腹を抱えて呻くセララに非情な言葉がさらに降りかかる。
「念話は……別にいいや。 どうせ助けになんて来れないからなァ」
まぁ見つけ次第オシオキだけどな? と下卑た笑い声を上げる。
どうせ助けに来れない、と。
確信を伴うその言葉が突き刺さり、セララの胸をえぐる。
口に出された瞬間、確固たる事実になってしまったように感じて、体が固く、重くなってゆく。
「ま、仲良くやろうぜ。 『セララ』」
名前を呼ばれたセララが大きく震えたのを見ると、満足したようにデミクァスは再び部屋から出て行った。
「……〈ハートビート・ヒーリング〉」
セララは下を向いたまま小声で呪文を唱える。
エフェクトに呼応して、HPはみるみる回復してゆく。
そうして数分も経つと、体の痛みは消えた。
だが胸をつく苦しみに似た痛みは消えてくれなかった。
――――――――――――――――――――――――――
にゃん太の戦闘訓練はホームタウン近くの最弱モンスターから始め、二週間が経つ頃にはレベル40前後のモンスターを倒せるまでになっていた。
これはその強力な体や、性能のいい装備によるところもあるのだが、モンスターも実在の体と意思を持つようになったことも関係している。
体があるなら関節の限界を超えた動きはできないし(関節がないモンスターも多いのだが)、何より呼吸を必要とする。
タイミングを測り、呼吸を読み、攻撃を先読みする。
先んじて攻撃を躱し、その隙に「ツイン・レイピア」というスタイルならではのスピードで攻撃を叩き込み、デバフをかける。
そうしてチェスのように相手を追い詰めていく。
これが〈大災害〉の後、にゃん太が作り上げた戦闘スタイルであった。
もちろん、この形式が有効なのは一対一、せいぜい二対一程度までであり、乱戦になればなるほど不利になる。
ソロプレイヤーゆえの火力不足、継続戦闘能力不足もあり、一週間程度ではこの辺りが限界とも言えるが、一対一で補助アイテムも十分に使えるのならば、レベル50のモンスターとも互角に戦えただろう。
また、発見もあった。
にゃん太のサブ職は〈料理人〉。
それゆえ、食材は現地調達できれば調理もできると思い、初日は何も持たずに街の外へ出た。
しかし、いざ野生の鹿を狩り、その肉を使ってメニュー画面から「こんがり肉」を作ろうとしても、見た目に反して塩気のない湿気た煎餅になってしまうのだ。
まさかと思い、帰ってからありとあらゆる食材を用いて試したが、全て結果は同じ。
「料理に味はしないが塩を振れば塩味になる」とのことだったので、塩だけ買い込むことにした。
そうして着々と世界に慣れてゆきながら、街の雰囲気が悪くなっていることにも気付いてはいた。
まず、街を歩くプレイヤーたちは同じギルド同士で群れるようになったし、町中でも戦闘装備を解かなくなった。
そうして牽制しあうプレイヤーの影で〈大地人〉は怯えながら身を縮こまらせている。
(みんな、みっともないですにゃ)
そう思う。
が、自分はどうすればいいのか、わからない。
〈彼女〉なら?
笑い飛ばすだろう。 それこそ、こちらが悩んでいるのがばからしくなるくらい、高らかに。
その〈彼女〉の後始末をいつもしていた眼鏡の青年なら?
きっと自分では思いも寄らない奇策で、世界をひっくり返してしまうだろう。
いつも下ネタで場を和ませてくれる彼なら?
妙に女の子に好かれる好青年なら?
他の〈茶会〉のメンバーなら、こんな時いったいどうするだろうか?
(……年をとると愚痴っぽくなっていけないですにゃ)
どうにも他人頼りで、〈茶会〉のメンバーに過度な期待をしている自分に気づいて、その考えを振り払うようににゃん太は頭を振った。
道ばたで蹲る少女を見つけたのはそんな時だった。
メニューで確認すると、名前は〈セララ〉。
レベルはたったの19。
「どうかしましたか?」
声をかけるとびくり! と震えながらも、おそるおそる顔を上げる。
その顔は恐怖に染まっていて、少女にこんな顔をさせる街をどうにもできなかったことに対し、罪悪感が胸に広がる。
「その……悪いギルドに捕まって、いて。 逃げてきた、んですけど、お金もとられちゃったから、宿屋にも入れなくて……」
話しながら涙を流しはじめ、話が要領を得なくなっていく少女。
にゃん太はその手を取って背中をさする。
「よく、頑張りました。 ほら、可愛いお顔が台無しですにゃ?」
少女の頬を伝う涙を拭うと、人の善意に触れることが久しぶりなのだろうか、もっとたくさんの涙があふれ出す。
だが、ささやかな安息も続かない。
「いたぞ! あそこだ!」
セララを見つけた〈ブリガンディア〉のメンバーが、二人を見つけて指を指す。
「ひ……っ」
思わず固まってしまうセララを横目に、にゃん太は鞄から一つのアイテムを取り出す。
店売りの〈煙玉〉。
ただ、モンスターから逃げる確立を多少上げるだけのアイテム。
「ちょっと揺れますにゃ」
煙玉を地面にぶつけたにゃん太は、電車の車掌さんかのように声を掛けてセララを抱きかかえた。
「えっ?」
あっけにとられるセララを尻目に事態は進む。
「げほっ……〈煙玉〉か!」
「逃げるつもりだ! 回り込め!」
そう聞こえるか聞こえないか、にゃん太は既に走り出し、それこそ目にも留まらぬ速さで路地を駆け抜けていった。
「はい、到着ですにゃ」
セララが何が起こっているのか把握できた頃には、既に静かな家の中に居た。
もともと家に近いところだったのもあるが、にゃん太の、いや、レベル90の〈冒険者〉の脚力が凄まじかった。
セララがお姫様抱っこされていることに気付き照れていると、にゃん太がセララをそっと下ろし、微笑んだ。
「おぉ、そう言えば自己紹介がまだでしたか? 初めまして、〈盗剣士〉のにゃん太ですにゃ」
「あ、えと! 〈森呪遣い〉のセララです! 助けて頂いてありがとうございます!」
もちろん、お互いメニューを見れば名前と職業くらいすぐにわかる。
それでも、その儀礼的なやりとりは場の空気を柔らかくした。
「セララさんは疲れているでしょう。 何もない所ですがごゆっくりどうぞ」
そう言って一段と芝居がかった礼をひとつ。
そしてセララは、久しぶりに笑った。
セララが落ち着いた頃、にゃん太は「お茶という名前のただの水」を用意して、セララの話を聞いていた。
「――そうして、〈帰還呪文〉を思い出して〈ブリガンディア〉からは逃げられたんですけど、お金が無かったのでどうすることもできなくて……」
「その時に、我輩が通りかかった、というわけですかにゃ」
話しながら恐怖を思い出したように身体を震わせたり涙を目尻に浮かべるセララに、にゃん太はあくまで穏やかに話を聞いていた。
最後を引き取ったにゃん太の言葉にセララがこくり、と頷く。
「最後……なんかっ、いつ『襲って』くるかもわからなくて……っ。 わたし、必死で……!」
「本当に、よく頑張りました」
涙を流しながら途切れ途切れに話し終えたセララの頭を撫でる、にゃん太の手のひらは温かくて。
〈猫人族〉特有の肉球の感触が手袋越しに伝わって、全てを受け止めてくれるように柔らかくて。
流れる涙は止めようとすればするほどあふれ出してきて、しかしそんなセララをにゃん太はただ優しく撫でていた。
「ご、ごめんなさい。 みっともない所見せちゃって」
涙は止まったがまだ鼻をぐすぐす鳴らしているセララが謝る。
「いえいえ。 こんな年寄りでもお役に立てたならよいのです。 ……それはそうと」
セララが落ち着いた事を確認して、にゃん太が思い出したように口にする。
「ギルマスさんには連絡しなくていいのですか? きっと心配しているにゃ」
「あ……! そ、そうですね! 連絡します!」
今の今までいっぱいっぱいだったのだから仕方ないが、すっかり忘れていたらしいセララが慌ててメニューを操作する仕草をとり、話し出す。
「お、遅れてごめんなさい! 無事です! え、はい今は安全な所で……」
報告に夢中になっているセララを見て微笑むと、にゃん太も誰かに念話をかけはじめた。
りんりんりん……。
頭の中に直接聞こえるコール音が二ループ目に入るかどうかというとき、念話がつながった。
「もしもし。 がろっちですかにゃ?」
セララに聞こえないように声を潜めた問いかけに、不機嫌そうな声が返ってくる。
「あ? そっちからかけてきたくせに他に誰が出るってんだよ」
「ならよかった。 がろっちはいまススキノですか?」
「そうだよ」
急に念話かけてきたと思ったらなんなんだよ……と愚痴を零しながらも律儀に答える、にゃん太が「がろっち」と呼ぶ男。
「では、明日そっちのギルドホールを訪ねますが構わないかにゃ?」
「来るのは構わねぇが、時間を決めてくれ。 こっちにも予定があるんだ」
「なるほど。 では昼過ぎに行きますにゃ」
「お、おうよ。 来るってんなら待ってるぜ。 じゃあ、明日な」
たったそれだけの、短い念話。
それを終えると、にゃん太はふぅ、と一息吐いてカップに注いだ色つきの水に口を付ける。
まだセララの念話は終わらない。
が、熱心に話している所から、とても心配されていることはわかった。
舐めるように飲んでいたコップの液体が無くなる頃、セララの念話が終わった。
「はい、はい……。 では、また連絡しますね!」
言い切ると、ふぅ、と息をついてにゃん太と同じように、カップに口を付ける。
「みんなの心配は拭ってあげられましたか?」
セララはにっこりと笑みを浮かべる。
「ええ! ギルマスなんか、『そんな親切な人が居るなんて、ススキノも捨てたもんじゃないんやな』って言って!」
「それは、よかった」
『ススキノも、捨てたもんじゃない』。
にゃん太はその言葉にちくりと罪悪感を感じたものの、それは表に出さずに嬉しそうに目を細める。
「えっと、それで。 数日前、ここへの迎えがアキバを出発したみたいで」
「迎えというと、ギルドのメンバーかにゃ?」
一応聞きはしたものの、にゃん太はこの質問にはイエスが返ってくると思っていた。
セララがこのススキノで苦労していたのも、ギルド以外の知り合いがいないから、だったからだ。
しかし、セララから返ってきた答えは違った。
「それが……ギルマスの知り合いが代わりに来ることになったそうです。 『その方が確実だ』って言われたらしくて」
ふむ、とにゃん太は思う。
ギルマスの知り合い、という方向は予想外だったが、それ以上にこの異常事態下において、わざわざ面倒事を抱え込むお人好しが居る、ということに驚いた。
「その『代わりの方』とは?」
聞いたところで誰だ、とわかるとは思えなかったが、そのお人好しに興味がわいた。
自分も、似たようなものだ。
「えーと、三人組で、凄腕で……。 詳しくは聞いていないんですが、ギルマスは『うちより頼りになるから大船に乗った気でいればいい』って……」
三人組。 凄腕。
当然だがそれだけでは何もわからない。
わかったことといえば、中規模とはいえひとつのギルドの主をしてそこまで言わせる能力と人徳を持った人物なのだということだけ。
「それは頼りになりそうですにゃあ。 さぁ、今日はもうお休みなさい。 大変な一日だったでしょう」
ベッドは自由にしていいですからにゃ、と言うとセララは少し顔を赤くしたようだったが、とたたた、と小走りになってベッドに向かっていった。
……迎えがくるにしろ、アキバからススキノならばきっと一ヶ月近くかかる。
それまでに自分はできる限りのことをしなければ。
にゃん太は明日の段取りを頭の中で組み立てながら、ソファで横になった。
「では、セララさん。 我輩は少し出かけてくるですにゃ。 鍵はかかっていませんが、外は危ないので出来るだけ出かけないように。」
翌日、早めに湿気た煎餅の昼食を済ませて、にゃん太は家を後にした。
〈ブリガンディア〉と同じことはしたくない、と思って鍵はかけていないが、少し不安もある。
だが、〈フレンドリスト〉のことも説明してあるし、あんなことがあったのもまだ昨日の出来事だ。
きっと、おとなしくしているだろう。
にゃん太が向かった先は、ギルド会館。
銀行機能があり、財産を安全に保管するために誰もが世話になる場所であるが、今回の目的は違う。
ギルド会館内部にある、ギルドホールへとつながる扉。
ギルドホールを借りられないほど小規模か、ギルドホールでは収まらないほど大規模で建物を改装して使っている、それ以外のギルドはほとんどこのギルドホールを拠点としている。
〈ブリガンディア〉と遭遇するかも、と思ったが、セララの話を聞く限り、〈ブリガンディア〉は町外れの貴族の屋敷を占領している。
ギルドホールを拠点にしてはいないだろう。
今回にゃん太が向かうのはギルド〈わんこそば〉。
にゃん太の所属するギルド〈猫まんま〉と偶然にもほぼ同時期にススキノを拠点として発足したギルドであり、争ったり協力し合ったりと〈猫まんま〉と縁が深いギルドである。
しかしこれも偶然か、衰退の時期もほぼ同時で、〈わんこそば〉に残ってるメンバーも実質一人だったはずだ。
それが先日の念話の相手である。
違いといえば、ギルドの金庫に十分な資金が残っているか、であろうか。
聞いた所によると、引退したメンバーが「未練を絶つ」といって資産を処分してギルド資金にしたらしい。
その額は、無駄遣いしなければ数年はホールを維持できるほどだという。
とはいえ、ホールが維持できてもメンバーが一人しかいないので、いつも静かなものであった。
扉の隣のギルド名を確認し、その取っ手を押す。
「だァから、そうじゃねぇって! もっとこう、くいっと!」
「わかりませんよ! 感覚的すぎて!」
「あぁもう、俺に貸せ!」
「それだと『なぜか』失敗しちゃうんですってば!」
扉を開けた瞬間、そこには記憶とは違う騒がしい風景が広がっていた。
「……部屋を間違えましたかにゃ?」
にゃん太が困惑げに声を漏らすと、昨晩の念話相手、豪快な男性〈狼牙族〉の〈牙狼〉(がろう)がホールに隣接する部屋から出てきた。
「おお、来たかにゃん太! 相変わらず取って付けたような語尾だな!」
「これは猫人間の正式言語なんだにゃ? それはそうと、どうかしましたか?」
牙狼が出てきたのはどうやらキッチンのようだ。
……それも、久しく嗅いでいない「料理」の匂いがする。
キッチンを覗くと、そこでは〈妖術師〉らしき少年が四苦八苦しながらフライパンで何やら細切れの野菜を炒め、その隣で〈神祇官〉らしき少年がお腹を鳴らしながら料理を眺めている。
「何を作ろうとしていたのですか?」
にゃん太は少年からフライパンを受け取り、馴れた手つきで野菜を炒めながら訊く。
「え、あ。 ケチャップなしオムライス……です」
困ったような顔をして答える〈妖術師〉の少年。
「おいおいやめとけ。 こいつ以外が料理しても黒焦げになるだ……け……?」
牙狼もまた広がる香ばしい匂いに鼻をひくつかせながら首をかしげている。
にゃん太以外の三人が首をかしげたまま料理は進み、やがて三人ぶんの料理が完成する。
「『ケチャップなしオムライス』三丁上がり、にゃ」
「お、おお。 ありがとう」
牙狼も少年二人も、困惑したまま皿をホールまで運び、スプーンで掬って食べ始める。
「! なんだこれ! うまっ!」
「今までぼくたちが食べていたのは料理ではなかったのだ!」
「うるさい! 味無しよりよかったろ! でもうまい!」
がつがつ、とそれこそ掻っ込むように食べる三人を眺めながら、にゃん太は独り言を漏らした。
「実際に料理すると味がつく、ですかにゃぁ。 いやはや、今まで思いつかなかったとは、年をとると頭も固くなるのですかにゃあ」
「いや、ただ料理する、だけじゃだめ、のはずなんだ」
既にオムライスを平らげた牙狼がげっぷをひとつしてから答える。
「現に俺が試してもただの黒焦げになっちまうんだよな。 こいつじゃなきゃ、だめなんだ」
そういって親指で隣に座る〈妖術師〉の少年を指差す。
指された少年はどうも、と頭を下げて自己紹介をする。
「どうも、〈妖術師〉の〈クロード〉です。 レベルは三十二」
ふむ、と顎に手を当て、クロードと名乗る少年を眺める。
レベルはもちろん、装備も職業も違う……職業?
「クロード少年、〈サブ職〉はなんですかにゃ?」
「サブ職……? それは〈料理人〉、あっ」
何かに気づいたように声を漏らすクロードの横で、〈神祇官〉の少年も納得している。
「そっか、そういうことだったんだ……」
他の全員が納得している中、ただ一人牙狼だけが実に堂々と首をかしげていた。
「おう、で、どういうことだ?」
理解していない牙狼に、興奮気味のクロードが説明を買って出る。
「『サブ職に〈料理人〉をもつプレイヤーがメニューからでなく実際に料理をする』。 これが味のある料理の秘密だったんですよ!」
犯人を追い詰めた名探偵さながらにばん、とテーブルを叩いて力説するクロード。
「あー! なるほどな! 納得したわ!」
言われてみればそうだ、と納得がいった様子の牙狼。
だがクロードは牙狼さんは絶対わかってない……と肩を落とす。
「いやわかってるぜ。 十分すぎるほど」
「じゃあ言ってみてくださいよ」
口を尖らせたクロードに向かって牙狼は自信を持って言い放つ。
「他人よりうまいメシが食えて嬉しい!」
「わかってない!」
すぐ近くでにゃん太と〈神祇官〉の少年がにこにこしながら二人のやり取りを眺めていた。
「で、本題に入ってもいいですかにゃ?」
「あ、ぼくたちは席を外したほうがいいです?」
先ほどのコントの後、自己紹介をした少年、〈時守〉(〈神祇官〉、レベル三十)が席を立とうとする。
「いや、居てくれ」
神妙な顔つきでそれを止めたのは牙狼。
「俺じゃ忘れちまうからな。 大事な話なんだろ?」
にゃん太は頷き、少年二人もすに座り直し、真剣な顔つきになる。
「みんなは〈ブリガンディア〉を知っていますかにゃ?」
三人とも頷く。
「もちろん。 ススキノで一番有名なギルドですから」
「有名つっても悪名のほうだけどな?」
「そうですかにゃ。 ……ならば、〈ブリガンディア〉が人身売買に手を出しているというのは?」
「それも薄々は……です。 時々、〈大地人〉の女性を売りつけようとする人を見かけるです」
言いにくそうに、けれどはっきりと時守が答える。
「残念ながら、それだけじゃないにゃ。 ……〈冒険者〉も被害を受けているにゃ」
居心地の悪い沈黙がギルドホールを埋める。
「……話はだいたい想像がついた。 で、具体的に何をすればいい。 俺に何をさせたい」
話が早くて助かりますにゃ、とにゃん太は笑みをこぼす。
「手の届く範囲で構わないにゃ。 ……きっと、全てをは無理だから。 〈ブリガンディア〉、もしくは他の人身売買に手を出す輩から被害者を守ってやって欲しいのです」
想像だけど、と付け加えてにゃん太が続ける。
「そこの二人も似たような感じじゃないかにゃ? 強引な勧誘から庇ってやったらそのまま世話することになったみたいな、にゃ」
少年二人は心当たりがあるような顔をする。
この感触ならば当たらずとも遠からずであろう。
二人は不安そうに牙狼に視線を向け、当の牙狼は腕を組んでうーん、と唸っている。
「わかった。 できる限りのことはしよう。 ……言っとくが、頼まれたからじゃねぇぜ? 知ってしまったからには動かずには居られない。 俺がそんな男だからだ。 いいな?」
変わってないにゃ、とにゃん太は思う。
急に頼まれごとをされて引き受けるかどうかもそうだけれど、これほど「いい意味で損得を考えない」男でなければこんな頼みごとはできない。
「で、てめぇはどうするんだ?」
言い出したからには自分でも動くんだろ? と言外に含ませて。
「そうですにゃ……。 アキバに、行くかもしれないですにゃ」
「アキバァ?」
三人が揃って怪訝な顔をする。
「さっき、〈冒険者〉も〈ブリガンディア〉の被害に遭った、と話をしましたにゃ? その被害者をいま我輩のところで匿ってるのです。
そう遠くないうちにアキバからその子の迎えが来るから、様子を見て同行しようかと思っているのですにゃ」
いつまでも隠れてるわけにはいかない、ススキノから逃げるなら逃げ先が必要だにゃ? とそう締めくくって。
「様子を見るってのは?」
「……逃げた先、アキバがここ以上に殺伐としていれば、逃げたところで意味はない、むしろ巨大ギルドはアキバに集中しているぶん、余計に酷いことになるでしょう。
それよりならここで集まって力をつけたほうがいい、と思ったのです。 もちろん迎えの人に話を聞いて判断しようと思っているんだがにゃ」
「なるほどな……よく考えてるもんだ」
俺にはマネできねえよ、と言わんばかりに牙狼が大きくため息をつく。
「迎えが来るまでは保護を手伝うつもりにゃ。 距離が半分になっているとはいえ、そう簡単な道程でもないだろうしにゃ」
「オーケーわかった。 いや、俺がわかってなくてもこいつらがわかってるはずだ」
途中から話をただただ聞いていた少年二人の背中を叩く牙狼。
「で、保護対象は低レベルやソロの〈冒険者〉と〈大地人〉でいいんだな?」
にゃん太は微笑む。 あえてぼかしていたのだが、大事な所はきちんと汲み取ってくれている。
ギルド会館を後にして、帰宅したら新しい料理法を試そう、と食材マーケットに足を向ける。
が、ふと気になってフレンドリストを確認したところ、どうやらセララが街に出てきているようだ。
(念の為に確認してよかったですにゃ)
フレンドリストでは、同じゾーンに居ても方向しかわからない。
そこでにゃん太は先日の逃走劇でも大活躍した脚力を利用し、建物の屋上に飛び乗り、おおよその位置を割り出す。
三角測量の応用だ。
どうやら路地裏をジグザグに進んでいるらしい。
そのまま屋根の上を走って近くまで行くと、セララの姿が見えた。
上からなら丸見えだ。 マーケットで買い込んだのだろうか、なにやら大きな買い物袋を抱えている。
少し離れた場所でそっと降りると、背後に立ち、猫を掴むように、首のあたりを掴んで持ち上げた。
「キャ……」
セララはその手を振りほどこうともがくので、手を離し、静かにするよう、ジェスチャーをした。
振り向きながら、セララは嬉しそうに声を上げる。
「にゃん太さん!」
「無用心ですよ、セララさん」
そう言ってにゃん太はセララに手を差し伸べた。
――――――――――――――――――――――――――
にゃん太が出かけた後、セララは家から動かなかった。
出がけに注意されたとおり、外で〈ブリガンディア〉と出会ったら、と思うと怖かった。
だからサブ職業の〈家政婦〉スキルを使って、家の中を掃除したり、食器を拭いたり。
単純作業を繰り返しながらセララはぼーっと食事のことを考えた。
(にゃん太さんも、食べているのもはあの味のない食事だったな……)
〈大災害〉のあと、誰もが辟易している味のない食事。
にゃん太もその例に漏れてはいなかった。
(おいしいもの、食べて貰いたいな……)
料理には味がないけれど、素材となる果実や野菜には味がある、という話を聞いたことがある。
アキバではそういったものが買い占められているらしいが、人数の少ないススキノならば売っているかも知れない。
財産は捕まっていたときに取り上げられてしまったが、にゃん太が「近いうちに装備なども整えておいた方がいいかもしれませんにゃあ」と言って預けてくれたお金が少しある。
にゃん太においしいものを食べて貰いたいという気持ちと、再び〈ブリガンディア〉に見つかる恐怖を天秤にかけ、セララは外出を決意したのだった。
そうして読み通り流通していた果実を購入し、袋いっぱいの果物を手に入れたセララが路地裏をこそこそと歩いている時に、にゃん太に見つかったのであった。
しかし、落ち着いたのも束の間。
「いたぞ! あの小娘だ!」
どうやら〈ブリガンディア〉に見つかってしまったようだ。
「引っ捕まえろ!」
セララがあの貴族の屋敷で聞いた、脅すような声が背後から迫る。
またしても必死で走る。
最近、逃げてばっかりだ。 けれど、今回は前とは少し事情が違う。
普段持ち歩いている杖だけでなく、中身の詰まった買い物袋も抱えているため、重いし前がよく見えない。
にゃん太の先導を追って、右に左によろめきながら走るが、足元がふらつき小石に躓いてしまった。
だめ、転ぶ――!
「おっと」
転ぶ、と思った瞬間先を走るにゃん太に抱きかかえられ、そして、荷物ごと「担がれた」。
(は?)
「追いつかれますにゃ。 行きますよ、セララさん」
そう言って、一瞬屈んで力を溜めるとにゃん太はセララを担いだまま建物の屋根の上に飛び乗った。
「ひ、ひええええええ」
昨日は煙に紛れてよくわからなかったけれど、ものすごいスピードでにゃん太は駆けてゆく。
スピードの割には驚く程揺れないのだけど、感覚的にはジェットコースターに乗っているようだ。
「くそ! なんだあの猫!」
「弓持ってる奴呼べ!」
「ばかっ! やめろ! 衛兵が来るだろうが! 追うんだよ、登れっ」
〈ブリガンディア〉のメンバーは何か叫びながら念話で仲間を呼び、その数を増やしてゆく。
「その女置いてけこのクソ猫!」
にゃん太がすごいのか、はたまた単なる種族や職業の関係か、わざわざ建物をよじ登ってきた男が口汚く言い放つ。
「お断り……」
そう言いながらにゃん太は腰のレイピアに手をかけて建物から飛び降り、
「ですにゃ!」
落ちながら、レイピアで途中引っかかっていた洗濯物のロープを断ち切り、洗濯物のシーツがばさばさと音を立てて追っ手の頭に被さる。
(このままじゃ、いつまでも追ってくる……!)
そう思ったセララはにゃん太に担がれたまま、追っ手を撒くことが出来そうな呪文をメニューから探す。
(あった、採取のときよく使った魔法……!)
「おねがいっ、出てきて! 〈マイコニド〉!」
唱えると、50センチメートルほどのキノコの精のようなものが数体、ぽこぽこと地面から湧くように出現した。
この魔法は〈従者召喚:マイコニド〉という〈森呪遣い〉の魔法で、主にその効果は二つある。
ひとつは、術者の回復魔法の射程距離を上昇させる効果。
もうひとつは、術者に付き従い荷物運びをする効果。
<大災害>後のセララは主にソロで活動していたため、ひとつめの効果はあまり関係なかったのだが、<魔法の鞄>を持っていないセララには採取の際の荷物持ちとして重宝されていた。
さらに効果ではないがもうひとつ、<大災害>後に表れた特徴として、数が増えることが挙げられるだろう。
胞子で増えるキノコの特徴を反映してのものなのか、僅かな間に道を埋め尽くすほどの数に増え、事実上の行動疎外魔法として作用する。
そして〈マイコニド〉に足止めされているうちに、にゃん太の俊足は追っ手との距離をみるみる広げていった。
「さあどうぞ」
追っ手を大きく引き離してから、噴水のある広場でにゃん太は担いでいたセララを下ろした。
「ありがとうございます、にゃん太さん!」
あれほどの距離をあの速度で走りきったというのに、汗一つ流さず、呼吸一つ乱さないにゃん太。
かなり引き離したはずだが、追っ手がこちらの居る方向がわかる以上、安全な場所はない。
家へ急ごうと思った瞬間、噴水の影からうう、といううめき声が聞こえた。
近づくと、そこには〈大地人〉の怪我をした父と、その手当をする息子らしき少年がいた。
セララが駆け寄ると、その少年が目に見えて怯え出す。
「ぼ、〈冒険者〉……!」
「あっ、こ、怖がらないで」
この街で〈冒険者〉が〈大地人〉にどんな扱いをしているかは知っている。
怖がるな、というのも無理な話だろうけど、あなたたちに乱暴した〈冒険者〉とは別だよ、と。
「セララさん」
「ごめんなさいにゃん太さん、少しだけ……」
追っ手の気配は感じないが、きっと〈猫人族〉は耳も良いのだろう。
けれど、放ってはおけない。
近くまで寄って、傷の様子を見る。
「どこでこんな怪我を……」
「き、貴族様の屋敷……。 みんな逃げてった……。
今は〈冒険者〉が住みついてる」
〈ブリガンディア〉だ。
捕まっていた時を思い出して、セララの体が一瞬硬直する。
「そう……。 まってて、いまお父さんの傷をふさぐからね」
たった数日前の悪夢に向き合うように、強く杖を握りしめて、唱える。
「脈動回復………〈ハートビート・ヒーリング〉っ」
祝福を可視化したようなエフェクトとともに、減ったHPバーが脈を打つように回復してゆく。
「セララさん、いつ追っ手が来るかわかりませんにゃ。 急ぎましょう」
セララはにゃん太に向かって頷くと、〈大地人〉の父子を振り返り、少しだけ言い残した。
「少ししたら気がつくわ。 もう、あの屋敷には近づかないようにね」
不安そうに頷いた少年を確認して、セララはにゃん太の後を追う。
「ありが、と」
掠れるような声での感謝の言葉はセララに届いたが、
「……ごめんね」
その返事は少年には届かなかった。
―――――――――――――――――――――――――――
「それで、どうして外に出たのですかにゃ?」
追っ手と遭遇することなく無事に家に帰り着いたにゃん太が荷物を下ろしながら問いかける。
「市場に……その、にゃん太さんにせめて果物を食べて欲しくて。 味が……ありますから」
そう言って袋から林檎を取り出すセララ、にゃん太はその頭を撫でながら林檎を受け取る。
「我輩のことは気にしなくて大丈夫ですにゃあ」
「でも……」
セララはそう言ったきり押し黙ってしまった。
受け取った林檎を磨きながらにゃん太はこの林檎を使って手料理を試してみよう、と思った。
「……こちらにお迎えが向かってきているのでしょう?」
磨いた林檎をナイフで切り分けながら訪ねる。
もしかすると、〈料理人〉でなければ切り分けることすらできないのかもしれないな、と考えながら。
ウサギ形にカットされた林檎を手渡すと、セララは嬉しそうに答える。
「はいっ。 明日にはススキノに着くそうです。 合流の場所と時間が決まり次第、ギルマス経由で念話連絡が来ます」
(ふむ。 思ったより速い……)
思ったよりとは言っても、一月近くかかるという予想と比べるととんでもない速さだ。
この世界での一般的な移動方法である馬ではまず実現できない。
可能性としては、たまたまアキバーススキノ間の〈妖精の輪〉を覚えていたか……〈鷲獅子〉を使っているか。
(知り合いの可能性が、高まりましたかにゃ?)
懐かしい冒険を共にくぐり抜けたのは誰々だったかな、と思い出を振り返りながら、アルコールランプでお湯を沸かす。
ポットのお湯が温まっていく音だけが静かな部屋を埋める。
「あの、今日はごめんなさい。 勝手に外に出たりなんかして……」
体を小さくして頭を下げるセララににゃん太は微笑みを返す。
「若人を助けるのは年長者の義務であり喜びなのですにゃ。 そんなことより、こんな狭い家で窮屈でしょうが、もう少し、辛抱できますかにゃ?」
謝ろうと思ったら逆に気遣いを返されてしまって、セララは慌てる。
「そ、そんな! 窮屈だなんて……」
セララの様子を見て笑みを浮かべると、にゃん太はお茶のセットを一揃い取り出した。
「では、よい子のセララさんにご褒美を」
異世界初の手料理は、アップルティーにしよう。
紅茶の葉と林檎の皮を入れたティーポットにお湯を注ぐと、温かく、豊かな香りが部屋に広がってゆく。
それからさらに一晩を過ごして。
「そんなにそわそわしていたらお迎えが来る前に疲れてしまいますよ?」
現在はススキノを出る準備を済ませ、ギルマスを経由した念話連絡を待っている所である。
「わ、わかってますけど……」
そう言ってまた部屋の中をうろうろとし始めるセララ。
「! きたっ!」
来た、とは念話だろう。
「はい、はい。 わかりました。 合流しに行きます!」
どうやら迎えの一行が待ち合わせ場所に到着したらしい。
待ち合わせ場所はこの家からすぐ近くだ。
「ラオケBO」という壊れかけの看板がかかった廃ビル。
〈ブリガンディア〉がいないか辺りを窺いながらこそこそと進むが、数分で到着する。
〈付与術師〉の青年が一人で待ちあわせに来ている、ということだった。
壊れて扉もない入り口をくぐると、確かに魔法職らしきローブを着た青年が一人で立っていた。
その後ろ姿は妙に見覚えがあって、もしかしたら、という思いを強める。
「〈三日月同盟〉のセララです、今回はありがとうございます」
「にゃー」
「って班長じゃないですかっ!」
他のギルドに代わってはるばるススキノまで迎えに来るお人好しは、三白眼の上から丸眼鏡をかけた、頼れる〈茶会〉の参謀役であった。
キャラクターは昔のままで、実際に会ったことはないけれど、シロエだと言われるとすんなり受け入れられる、声やプレイスタイル通りの神経質そうな顔つきをしていた。
セララをおいてけぼりにしたまま、昔のように軽口を交わしあったあと、シロエかが質問をしてきた。
「にゃん太班長……〈猫まんま〉は?」
この質問にはセララを返したら、どうするのかという質問も含まれているだろう。
少しだがシロエと話をして、アキバの街もそこまでいい状況ではない、ということは察した。
けれど同時に、この青年もその状況を良しとせず、どうにかしたいと思っている、とも感じた。
この青年がそう思っているということは必ず何か大きなことをやってのける。
……ならば、近くに居てその手伝いをすることが、いろんな問題に対する最善手であろう。
「風雪に耐えかねて母屋が倒壊したにゃ。 我輩も、このススキノの地を離れてアキバに赴けという思し召しかもしれないにゃあ」
ススキノはひとまず牙狼に任せよう。
後で、家に置いてある素材等の資産を自由に使ってよいと連絡しておかなければ。
いつもサポートに周り、年寄りを自称するにゃん太が〈ブリガンディア〉の蛮行をただ見ていたとは思えなかったのです。
本編や、ハラ先生版コミカライズの裏話、別視点を目指しました。
多少の矛盾はお目こぼしくださいませ。
2013/10/1 追記
橙乃ままれ先生の「ログ・ホライズン 資料集」の更新に伴い、本文の一部<マイコニド>に関する部分を改訂しました。
「本編やメディアミックスの更新によって過去作に矛盾が生まれる」ことはこれからもあるかと思いますが、今後も同様の対応するかは保証できませんのであしからず。
出来るだけやっていきたいとは思っていますが、整合性を気にして萎縮したり面倒になったら本末転倒だと考えているので。