眠れる屋上の王子様。
おねがい。
めをさまさないで。
まぶたがゆっくりと持ち上がって、まつげが水をはじく。
濡れた空をうつした瞳があたしを捕まえてはなさない。
「――寸止め?」
その薄いくちびるから発せられたひとことは、この頬を赤く染めるには充分だった。
長くて細い指が、汗ばんた額をかすめて前髪に触れる。
呼吸が、とまった。
「ご、ごめんなさい!」
その場を駆け出した足は止まることなく、追われることのない場所へと向かう。
女子トイレを逃げ場にするなんて、まるで小学生だ。
個室へ駆け込んで、鍵を閉めて、ようやく呼吸をくり返す。
吐き出した大きなため息と同時にこぼれたのは、涙。
「っ……」
ぼろぼろとあふれ出た熱いものは首筋を伝って、タイルを濡らしていく。
拭うこともこらえることもできなくて、落ちていく水球ばかりをただ見ていた。
はずかしい。
どうしよう。どうしよう。
彼の目が、脳裏に焼きついてはなれない。
あの声が、耳に残ったままはなれてくれない。
どうしよう。
間違いなく嫌われた。
彼が、――東城隆之が放課後の屋上で眠っているのはいつものことだった。
色素の薄い髪、モデルみたいな長身、頭も良くて顔もいい。
何もかもを兼ね備えた、学校の王子様みたいなひと。
あたしはそんな彼と住む世界がちがう。
これまで遠巻きに見ているだけだったのに、出会いとはなんともあっけない。
席替えの結果、派手な子ばかりの班になってしまい、予想どおり掃除を押しつけられた。
清掃場所の屋上へたどりついたあたしの目にうつったもの。
それは、あのキレイな顔をしたひとの寝顔だった。
掃除当番は五日間。
彼の寝顔を見れるのも、五日間。
彼とあたししかいない屋上の掃除をはじめてからというもの、いつもその寝顔を見るようになった。
口を開けていたり、腕を組んでいたり、なにかうわ言を口にしたり。
これまで近づきがたかったのに、なんだかとても可愛く思えてしかたなかった。
彼を起こさないように、静かにほうきを動かす。
それが日課になっていて、いつのまにか楽しみになっていた。
あの寝顔を見る。
ただ、それだけでいいと思っていたはずだったのに。
やってきた金曜日。
掃除当番、最後の日。
空は雲に覆われた灰色で、しめった暑い風が雨を運んできた。
ぽつぽつと顔にあたる雨粒。
それなのに、彼が起きる様子はなかった。
「あ、あの! 雨がっ」
勇気をふりしぼって声をかけてみるも、その目はやっぱりひらかない。
この五日間、眠ってしまった彼は一度も目を覚ましたことがなかった。
一歩踏み出して、停止して、また一歩。
今まで、決して近づかなかった場所へ。
彼のもとへ。
鼓動と、足音と、雨音が重なる。
彼の足元にひざを下ろして、顔をのぞきこむ。
思わずため息が出るくらい、ほんとうにキレイな寝顔。
その寝息が頬をかすめたとき、あたしは理性というものをなくしてしまったに違いない。
お願い。
目を覚まさないで。
距離を縮めて、さらに近づいた瞬間。
ひらくことのないはずの彼の目が、空とあたしを捕らえた。
「……っく、っ」
トイレのなかで泣きつづけることしばらく。
しゃっくりが止まらなくて、胸も痛ければ目も痛い。
確実に、嫌われた。
見ているだけでよかったはずなのに。
どうして、あんなことをしてしまったのだろう。
寝顔がキレイで可愛くて、ずっと見ていたくて。
ただそれだけだったのに、こんなの自分が自分じゃないみたいだ。
流した涙の分だけ忘れられると思ったのに止まらなくて、彼の目が頭からはなれない。
これじゃ、いつまでたってもここから出ることができない。
気持ちを切り替えるために顔を洗おうと、ドアの鍵を開けた。
トイレの小さな窓から入ってきた生温い風に、濡れた髪が揺れる。
雨の匂いは、もうしなかった。
風にさそわれるまま、近づいた窓。
わずかな隙間から外をのぞけば、屋上の一部が見えた。
フェンスの下。
揺れる色素の薄い髪。
また、彼はあのまま眠ってしまったのだろうか。
ほんとうに、見ているだけでよかった?
ほんとうは、あの目がいつかあたしをうつしてくれることを期待していなかった?
ゆっくりと、ひらかれた目。
あのとき、その瞳の中にはたしかにあたしがいた。
うずく胸に、痛みと振動が混りあって溶けていく。
足が、勝手に動く。
はずかしくて、どうしようもなくて、でも。
あたしはあのとき、間違いなく彼に触れたくてしかたなかった。
音を上げて、加速がつく。
はやく、はやくと足が急かす。
理性を、自分を抑えるココロを。
どこかに置き忘れてきてしまったみたいだ。
忘れ物は、あの場所。
あたしのココロは、きっと屋上の王子様に捕らえられたままに違いない。
** *
屋上の扉を開け放てば、彼は寝転んだ体勢のまま顔だけをあたしの方に向けた。
まだ眠いらしい目をこすったあと、指先で目じりをつついているのが見える。
「目、真っ赤」
その声が自分に向けられているなんて夢みたいだと、思った。
じんじんとうずく痛みが、現実を嫌というほど教えてくれたけれど。
あわてて目元を制服のソデでこすっていると、小さな笑い声が耳に入った。
「こっち、こないの?」
ひらひらと手を振る彼にさそわれるまま、一歩ずつ踏み出した足。
寝顔ばかり見慣れていたけれど、目をあけた彼の顔もまたキレイだ。
雲の流れた空は赤く焦げていて、それが彼の髪を染めてなびいている。
踏み出す音と鼓動がぶつかりあって、耳をふさいでしまいたいくらいうるさい。
それでも足を止めることはなかった。
「実はずっと見てたんだよ。掃除してる姿」
「え、」
さっきと同じように、足元へ腰を下ろそうとすると。
上半身を起こした彼に、とんでもない事実をつげられた。
見られていた。
あたしは、ずっと。
そんなこと、ちっとも気がつかなかった。
「ずっと、こうして近づいてきてくれたらいいのにって思ってた」
近づいてきた彼の指がやさしく、はれあがった目尻をなでていく。
胸が、爆発してしまいそうだった。
指が目尻から頬へ、そしてくちびるへ。
赤い空の色をした目にあたしがうつる。
彼の目の中で、あたしが大きくなっていく。
「さっきの続き、してもいい?」
ささやかれた声に、反応することもできなくて。
あたしはいつのまにか王子様に、すべてを捕らえられていたのだった。
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読んでくださって、本当にありがとうございます。
まとめるのにかなり四苦八苦しました。
ご感想いただければ幸いです。
(追記 2008.11.14)
加筆、修正しました。
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