彼と彼女と彼女
「変えてください!」
握りこぶしを机に叩きつけ、シリル・レディスタは言い放った。
白皙な頬も、今に至っては自らの髪と同じくらい紅く染まっている。気の弱いものならば、その表情だけで逃げ出してしまいそうなぐらいの怒り具合だ。
そんなにシリルに対して、怒鳴られた女性はお茶をすすりながら落ち着いた様子で平然と返事をした。
「何を言っているのか、唐突過ぎて分からないのだけれど」
歳は二十代半ばほどだろうか。透き通るような銀色の髪が、うなじの辺りまで伸びている。その髪の先、膨らんだ胸の双丘は、地味なグレースーツで覆われていても、はっきりとその豊満さが分かる。スカートから覗く細長い足は、別段なにかをしているわけでもないのにやけに扇情的だ。
「きちんと説明してもらえるかしら」
女性は髪を耳の後ろにかき上げた。自分が他人からどう見られているのか、よく理解しているのだろう。仕草の一つ一つが色っぽい。
「クラウス・ハ―ラットのことです! メルティア学園長」
メルティア・ホーメリア。それが彼女の名前であり、ハーレーン学園に縁の無いものなら鼻で笑ってしまうような学園長という肩書も、紛れもない事実だ。しかしこの場において、その肩書は大した意味を持たない。
「クラウスくんがどうかしたの?」
「あの人と一緒の班になって一カ月、もう耐えられません。訓練もサボる。話し合いにも来ない。おまけに、問い詰めたら逃げる。やる気というものが感じられません!」
「そう。大変ね」
「大変ね、じゃありません! わたしは、あんな人と一緒に実戦予行演習を受けたくありません。班を変えてください」
実戦予行演習。一年間に二度ある、実戦を想定したテストのようなものだ。いくら日ごろの成績が良くても、これで失敗すると全て無意味になる。
「それは、却下よ」
「学園長!」
はぁ、とため息を吐き、メルティアは空になったカップを机に置いた。翡翠色の瞳を細める。空気が重みを得たかのように、部屋の雰囲気が変わった。柔らかかった表情が、冷たく鋭いものへと変わっている。
気を呑まれて、シリルは精神的に一、二歩後ろに後退りした。
「甘えるんじゃないわよ、シリル。決まった班は演習が終わるまで作り直さないというのは、規則にも書いてあることでしょ」
「で、ですけど……」
「これは決定事項なの。そもそも、教師があなた達の成績や性格などを考慮して作ったこの班割は、一介の生徒如きが文句を言っていいものじゃないわ。分を弁えなさい、シリル・レディスタ」
「ですが……」
「ですけども、ですがも無いの。分かったらきちんと返事をしなさい」
「…………はい」
渋々といった感じで、シリルは返事をする。メルティアはしばらく無言でいたが、ふっと頬を緩めた。
「じゃあ、この話は終わり。そろそろ戻りなさい、昼休みが終わるわよ。今度こんな話をするときは、わたしじゃなくて自分の担任に言いなさい」
「嫌です。次もメルさんのとこに来ます」
「あのね。いくらわたしがシリルの姉の幼馴染で、昔からシリルを可愛がっていたとしても、学園内で特別扱いはできないの。わかるでしょ?」
「それでも、メルさんのところに来ます」
不貞腐れたように頬膨らませながら、シリルはきっぱりとそう言った。その表情は先ほどより五歳ぐらい幼く見える。こっちが限られた身内にしか見せない彼女の地だ。
メルティアは呆れながらも、小さく笑った。
「じゃあ、勝手にしなさい」
「はい。そうします」
シリルは踵を返し、大股で歩き始めた。部屋を出る前に一度だけこちらに振り返り、深々とお辞儀をして扉を閉めた。パタンと、音が鳴ると、静寂が部屋を支配した。
メルティアは大きく背伸びしてから、椅子にもたれかかる。それから部屋の隅に身体を向けた。
そこは、別段目を遣るような場所ではない。植木を飾っているわけでも、壁紙が他と違うようなこともない。なんの変哲もない、ただの部屋の隅だ。強いて言うなら、影が濃いぐらいか。それも、この広い部屋なら電球の光が行き渡らないのは幾分しょうがないことだ。
しかしそれでも、メルティアはじっと部ら屋の隅を見つめる。そうして、ぽつりと口を開いた。
「あんなこと言っているけど、どうするの」
独り言のような小さな声は、意外なほど部屋に浸透した。
だがもちろん、返事は来ない。
否、来ないはずだった――
「どうもしないさ。あの反応は、至極まっとうなものだからな」
影が動く。
ゆらりゆらりと。黒い塊が意思を持ったかのようにゆっくりと近づいてくる。それは次第に大きくなり、実体を帯び始めた。メルティアの正面に立つ頃には、完全な人の形になっていた。
「さて、おれもお前に言いたいことがある」
線の細い顔立ちはいまだ幼さを残しており、男らしいというより中性的といった表現が似合う。乱雑に切り揃えられた髪は、上質な炭を思わせるような黒。身につけているぼろぼろのジャケットも漆黒だ。
あまりに極端なその格好は、しかし少年によく似合っていた。おそらくは、その瞳が理由だろう。
鋭いのだ。
色や形が特徴的なわけではない。ただ、鋭いと、言えるだけの何かがそこにはある。それが、全身黒という極端な格好にも負けない力強さを作っていた。
「あら、何かしら。クラウスくん」
唐突に現れたこの少年に対しても、メルティアは余裕で返事をする。動揺は見られない。
さっきまで話題に上っていた人物――クラウス・ハ―ラットは顔をしかめた。
「やめろ。何がクラウス“くん”だ。気持ち悪い」
「酷いわね。せっかく敬愛を込めて呼んでいるのに」
「ただの嫌がらせだろ。そんなことより、おれも班の変更を要求する」
「却下よ」
メルティアは頬笑みを維持したまま即答する。普通の男性なら顔を赤くしそうな華のある表情だが、クラウスは憮然としたままだ。
「何故だ?」
「さっき言ったでしょ。これは決定事項で、覆せないの」
「おれは、一介の生徒ではないが」
「それでもよ。だいたい、いまさら言ってこないでよ。決まったのは一カ月も前じゃない」
呆れるような声音。クライスは数秒、メルティアを見据えていたが、やがて頭を垂れた。
「最初はな、我慢できると思っていたんだ。だが、無理だった。どの面下げてあいつに会えばいいのか分からない」
「普通に会えばいいじゃない。少なくともサボるより、よっぽど向こうはそれを望んでいるわよ」
「ふざけるな。おれは、あいつの姉を殺した男だぞ」
「ねえ、クラウス。あれは、仕方なかったの。どうすることもできなくて、あなたに非は――」
「――黙れ」
ぞっとするような冷たい声で、クラウスは言葉を発した。
身体中を切り裂かれたような感触に、さすがのメルティアも口をつぐむ。
「おれをシリルと同じ班にして、お前が何をしたいのかは分かる。おれにあいつの面倒を見させたいのだろう。この学園で起こっていることは、あいつもかなり関係してくるからな。だがな、おれがシアを殺したという事実がある限り、それは不可能な話だ」
「けれど……」
「不可能なんだよ。何があっても」
「クラウス……」
沈黙が流れた。
メルティアは泣きだしそうな表情で何度か口を開こうとしたが、言葉は出てこない。先に沈黙を破ったのは、結局クラウスだった。
「悪い。感傷的になった」
「ううん、いいのよ。気に障ることを言ったわたしが悪いんだから」
「いや、元はと言えばおれの我が侭だ。班は、このままでいい」
「構わないの?」
「ああ。じゃあ、おれも戻る。邪魔したな」
クラウスは無表情でそう言うと、音もなく部屋を後にする。メルティアにそれを止めようとしてできなかった。遠ざかる背中に、なんと声をかければいいか分からなかったのだ。誰もいなくなった部屋で、虚空に向かって呟いた。
「ねえ、シア。わたしは、どうすればいいのかしら」