第1話「昆布と魔節と一番出汁、はじめました」
──薄闇の中、煮介は目を覚ました。
「……ん?」
乾いた草の匂い。
吹き抜ける風が、肌に異様にやさしい。
どこか人工ではない、自然そのものの空気。
視界に広がるのは、竹のようでいて、どこか異国めいた葉を茂らせる林。
「こりゃあ……やっぱ、死んだんか……オレ」
半ば冗談、半ば確信だった。
事故の一瞬の衝撃、血の味、遠ざかる意識。
確かに“その後”のはずだった。
そのとき、頭の中に何かが走った。
《転生者・鮎川煮介──再起動完了》
《スキル確認中──保有スキル:一番出汁ノ極意(唯一・特級)》
「……は? 一番出汁?」
声に出して言ってみて、思わず苦笑する。
「オレ、異世界でも料理人か」
目の前に、ひとつの包みが転がっていた。
竹皮のような紐で括られたそれを開くと、出てきたのは奇妙に親しみのある道具類。
「……土鍋。鉄鍋。火打石。ナイフ。キャンプ用の飯盒……ああ、魔節……って、まさか!」
包みの端から顔を出したのは、昆布。
しかも羅臼か利尻のような高級種だ。
魔節と記された小袋を開けば、花かつおに似た乾物が香り高く舞った。
「これは……いい」
日本に出汁の神がもしもいるのならばその神がセレクトしたような道具と素材。
その中には、小型の濾過器、魔力の布と刺繍された不思議な手拭い、食器と菜箸、薬味入れまでもが丁寧に揃っていた。
「女神さんよ、感謝する。おかげで死に土産はうまい味になりそうだ」
と、ここでまた頭に響いた。
《スキル発動条件を満たしました──《一番出汁ノ極意》使用可能》
《素材:水(濾過済)・昆布・魔節──調和率、優》
「……スキルって、勝手に発動するのか。しかも“調和率”とか、なんだその専門的な……」
とにかく、腹が減っては判断力も落ちる。
煮介は湧き水らしき小流れの近くに腰を下ろし、濾過器を通した水を土鍋に入れた。
昆布を丁寧にふき取ってから、水に静かに沈める。
「水温は……うん、ちょうどいいな。ゆっくり、じんわり、旨味を引き出していこう」
思考は自然に“料理人モード”に切り替わる。
五十年。
プロの料理人として、和食ひと筋。
だしは料理の命だ。
だしを制す者は、世界を制す。
異世界でも変わらん。
鍋のなかで昆布が少しずつ呼吸をはじめる。
そこへ、魔節。
「……さて、お手並み拝見だ」
煮介は魔節をひとつまみ取り、指で弾いて質を確かめる。
節が砕ける瞬間に香る、深い旨味の予兆。
「こいつは……鰹とはまた違うけど、似てる。脂の香りと、どこか草っぽい複雑さがあるな」
昆布を取り出し、魔節を投入。
ぱっと香りが立つ。
「……くるな」
瞬間──
《スキル《一番出汁ノ極意》が発動──出汁精製度:S、経験値+10》
《現在の料理人レベル:1→2》
「……レベルアップ? おいおいマジかよ」
頭の中で妙にリアルなアナウンスが響いた。
自分の仕事が評価された感覚とでも言うべきか。
「なるほど……“食わせて、評価されて、経験値”ってワケか。ってことは──」
できあがった出汁を器に注ぎ、一口──
「……っく」
しみる。
五臓六腑に染みわたる、やわらかで、複雑で、それでいてどこまでも澄んだ一番出汁。
己の人生の集大成が、一口に込められていた。
「生きてる、って感じがするな……」
「……女神のやつ、好きなスキルをたったひとつ、か。いや、されど一番出汁。和食の真髄を極めるって意味じゃ、これほど贅沢なもんはない」
煮介はそう微笑む。
ただし心の奥では──
(いずれ“焼き”にも、“包丁”にも、“保存”にも、“創造”にも……応用力が試される時が来るはず。
オレがこの世界で料理人として突き抜けるには、《一番出汁ノ極意》を“核”に、他の感覚も自分で磨くしかねぇ)
このとき、彼は決めた。
「オレはこの世界で、うまいもんを作って……誰かに食わせる。
そんで、世界をちょっとだけ幸せにしてやろうじゃねぇか」
それが、自分に託された使命なんだと。
その時、竹林の奥に小さな影が動いた。
だが煮介はまだ気づかない。
物語は、まだ、始まったばかりだ。
──次話、「ツンデレと出汁の香りと」へ続く。