第15話「ブリンの記憶と酸味の鍵〜ゴブリン村再訪記~」
朝の光が、静かに移動式屋台の帆を透かしていた。
煮介が干していた布を取り込んでいると、ブリンが屋台の隅でじっと座り込んでいた。
いつも元気に跳ねまわる彼女にしては、あまりに静かだ。
「おい、ブリン。飯の時間だぞ」
声をかけても、返事はない。
フィリーネが眉をひそめ、煮介が近づくと、小さな肩が微かに震えていた。
「……あのね、にすけ……あたし、思い出しちゃったの……」
顔を上げたブリンの瞳は、うっすらと涙で滲んでいる。
「すっぱいって言葉で、ね。前に、あたしの村の誰かが、木の下で拾った果物を食べて……すっごくすっぱい!って、大騒ぎしてたの……」
「……それ、いつの話だ?」
「たぶん……すごく昔。まだ、みんなと笑えてた頃。あたし、ちっちゃくて……たぶん、それが“酢”ってやつなんじゃないかなって、思ったの」
静かな語りの中に、何かを振り払うような切実さがあった。
煮介もフィリーネも、しばし言葉を失った。
「ブリン……お前、そこに帰ってみたいか?」
「……うん。でも、正直、こわいよ」
ブリンはきゅっと小さな拳を握った。
「すごくこわい。あたし……“村を裏切った”って言われて、出てきたんだもの。
でも……にすけと出会って、変わったの。
“帰ってもいいのかな”って、少し思えた。
酢のことだけじゃ、ない……本当は、もう一度、自分の気持ちにケリをつけたいの……」
フィリーネがそっと膝を折り、ブリンの小さな頭を撫でた。
「なら、行きましょ。あんた一人じゃないでしょ?」
「……うん!」
煮介は静かに頷く。
「よし決まりだ。“すっぱい思い出”の味、確かめに行こうぜ」
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7日後――
一行は、瘴気の薄い谷間を抜けた先、朽ちかけた見張り台の残る村跡にたどり着いた。
かつては多くのゴブリンたちが暮らしていたと思しきその場所は、今では廃墟に近い様相だった。
だが、確かに――人の気配がある。
「……焚き火の跡だな」
煮介が辺りを見回すと、藪の影からひょっこりと一つ、そしてまた一つ、小柄な影が現れた。
「ブリン……?」
「ほんとに、あのブリン?」
その声に、ブリンの肩がぴくりと跳ねた。
そして一歩、また一歩と、迷いながら前に出る。
「……ただいま、みんな」
その一言で、静寂がざわめきに変わる。
「今さら何しに来たんだ!」
「人間に媚びて、生き延びた裏切り者が!」
怒号が飛ぶ。しかし、ブリンは下を向いたまま、煮介の袖をぎゅっと掴んだ。
「……ごめん。でも、あたし……伝えたいことがあるの」
その声は震えていたが、消え入りそうなほど真っ直ぐだった。
「村を離れてから、たくさんのものを見た。
にすけの料理も、フィリーネの優しさも……全部があったかくて……だから、あたしも、もう一度……誰かの役に立ちたいって、思ったの!」
村の中央、かつての広場のような場所で、煮介は静かに薪を組み、屋台の調理台を開いた。
「味の話をしに来たわけじゃない。
でも、これがオレのやり方だ」
焚き火の上、鉄鍋が湯気を立て始める。
「味で伝わることもある。……食って、感じてくれ。ブリンの気持ちを」
調理が始まった。
乾燥肉、香草、保存しておいた昆布だし。
野菜の皮まで丁寧に剥き、塩加減も慎重に。
そして――一口目の汁物が、ゴブリンの少年の前に差し出された。
彼は疑いの目を向けつつも、そっと、啜った。
「……う、うまっ!? なにこれ!? なにがどうしてこうなるの!?」
ざわめきが、広場を包む。
次々と振る舞われる料理に、警戒していた者たちの顔が変わっていく。
「なんか……あったかいな、これ……」「俺ら、こんな味……知らなかった……」
そのとき―― 一人の老婆が、ブリンの前に進み出た。
背は曲がり、皮膚はしわくちゃだったが、その瞳は、確かに彼女の過去を知る者のものだった。
「ブリン。お前……こんなに立派になって……すっぱい実を口にして、泣いてたお前が、今じゃ……」
「おばあ……ちゃん……」
ブリンが駆け寄り、その胸に顔を埋めた。
村の空気が、まるで春風のように変わっていく。
煮介は鍋を洗いながら、ぽつりと呟いた。
「これでようやく……お前の“心の濁り”も澄み切ったか」
そしてその夜。
おばあちゃんが大事に取っていた――白い果肉の、熟れすぎた果実が差し出された。
「これか……!」
煮介は、さっそく数粒を潰し、瓶に入れて封をしながら言う。
「酢を生むには時間がかかる。でも、今日から始めれば……未来の“酢”は育つ」
それはまるで、村とブリンの再出発そのものだった。
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夜、満天の星空の下。
ブリンがぽつりと、空を見上げながら言った。
「あたしね……にすけに会えてよかった。
ほんとにありがとう」
「……オレもだ。お前がいなきゃ、ここまで来られなかった」
「にすけぇ……!」
ぴょんと飛びついてくる小さな体に、煮介は苦笑しながらも優しく抱き止めた。
だが次の瞬間。
「くっつきすぎよ煮介!!」
フィリーネのツンデレ平手打ちが炸裂したのは言うまでもない。
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【心の交差点 ― 村の広場にて】
――あたしは、ここに帰ってきてよかったんだろうか?
ブリンの胸には、冷たい霧のような不安が渦巻いていた。
あの日、村を飛び出したときの叫び声、泣きながら背を向けた仲間たちの顔、「裏切り者」と呼ばれた自分の姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
けれども今、ブリンの手には、にすけの袖の感触がある。
(……あたし、あの時のままじゃない。にすけの料理を、言葉を、誰かの“ありがとう”を知って、変われたって……信じたい)
だから、こわくても進むと決めた。
「ただいま、みんな」
その一言に、空気が震えた。
「今さら何しに来たんだ!」
「裏切ったくせに!」
怒号が飛び交う。
足がすくむ。でも逃げない。
自分が何を背負い、何を伝えたくてここまで来たか、忘れたくなかった。
震える声で、想いを吐き出す。
「……もう一度、誰かの役に立ちたいの。だから、聞いてほしいの!」
その言葉がざわめきの中、空気を揺らした。
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フィリーネは、ブリンをじっと見つめていた。
あの子は、あんな小さな身体で、自分の過去と向き合おうとしている。
あたしには、そんな勇気があっただろうか?
気丈に見えて、よく泣いていたあの子。
甘えた声でにすけにじゃれてくる、あの子。
でも今は――ひとりで立ってる。
「なら、行きましょ。あんた一人じゃないでしょ?」
かつての自分を重ねながら、思わず背中を押していた。
そう、ツンデレだって、時に本気で支えるのだ。
(……にすけ、見てなさいよ。あたしもあんたに育てられた一人なのよ)
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煮介は、静かに鍋をかき混ぜていた。
「……これがオレのやり方だ」
言葉じゃなく、味で伝える。
それが煮介という男の流儀だった。
ブリンが変わったのは、料理を通じて人と触れたから。
なら、今度は料理でこの村と繋げてやる。
(食は記憶だ。食は対話だ。……だから、食えば分かる)
握ったおたまに、迷いはなかった。
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ゴブリンの少年は、料理の香りに鼻をひくつかせた。
(……ほんとに、ブリンなのか? 人間に囲まれて、笑って……でも)
記憶にある彼女は、泣き虫で、よく木の実を投げてきた。
「うっ……うまっ!? なにこれ!? なんだこれー!?」
驚きと同時に、懐かしさがこみ上げる。
懐かしいのは、味じゃない。
食べてる“今”が、まるで昔のあたたかい日々に繋がっている気がした。
(ブリン……お前、変わったんだな。でも、なんか変わってない気もする……)
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ゴブリン老婆は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
ブリンの小さな背中を見つけた瞬間、心が揺れた。
たとえ皆が何と言おうと、自分にとっては、
あの日、酸っぱい実を口にして「すっぱいーっ!」と転げ回っていたあの子なのだ。
「ブリン。お前……こんなに立派になって……」
声が詰まる。涙がこぼれそうになる。
(戻ってきてくれて……ありがとう。たとえ過ちがあったとしても、お前がここに立っているだけで、もう十分じゃよ)
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そして今。
風が優しく吹くなか、ブリンの目から涙がこぼれ、
にすけが穏やかに鍋の蓋を閉じ、
フィリーネはそっぽを向きながらも口元を緩め、
少年は皿を抱えて笑い、
老婆は震える手でブリンの頭を撫でていた。
村の時間が、再び動き出していた。
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この一幕を通じて、
ブリンは過去を受け入れ、
にすけは料理で心を繋ぎ、
フィリーネは静かに寄り添い、
村の者たちは、“誰かを信じる心”を取り戻した。
この世界に生きる者たちが、
一皿の料理で繋がり、癒やされ、
明日を信じることができるのなら。
それは、何よりも尊い「だしの奇跡」だった。
――そして、このゴブリン村の中にも煮介の暖簾を継ぐに足る者が現れることになろうとは、この時は誰も知る由はなかった。
次話「小さな包丁、大きな志──魔族領への道標」へ続く。




