第13話『ラーメンは、闇を照らす灯になりうるか?』
海傭兵団アクア・ブラッドの祝宴は、まるで夢のような夜だった。
だがその夢の片隅で、開かないままの扉がひとつ。
「……あいつは……やはり来てないか」
隊長のつぶやきに、フィリーネが眉をひそめた。
「……誰のことよ?」
「ナユ・ロゥ。うちの最年少戦士だ。十五の若さで入隊し、剣の才に恵まれていたが……半年前の戦いで仲間を目の前で失った。
以来、部屋に引きこもったまま、食事もまともに取らず……」
「おいおい、そりゃもう“医者”じゃねぇ、“料理人”の出番だろ」
煮介が静かに立ち上がった。
屋台に戻ると、残ったスープを手鍋に移し、刻んだ海藻と魚介の旨みを凝縮した特製の“追いダレ”を一滴ずつ加えていく。
最後にごく細い麺を絡ませ、音も立てずに丼に収めた。
「持っていくぞ。……誰かに“食ってもらうため”に、オレはここに来たんだからな」
――
兵舎の奥、ひっそりと閉ざされた一室。
「ナユ、入るぞ」
隊長の声にも、返事はない。
煮介が黙って扉を押すと──
そこには、影のように沈み込んだ少年がいた。
痩せこけた腕。
焦点の定まらぬ目。
「……誰だよ。放っておいてくれ」
「おう、じゃあ飯だけ置いて帰るわ。誰も食えとは言ってねぇよ。」
煮介は、丼を床にそっと置いた。
そのまま、背を向けて部屋を出る。
数秒の沈黙。
ふわりと、立ちのぼる香り。
──ズルッ……
一口、啜る音。
「…………な、に……これ……」
少年の瞳が、ゆっくりと濡れていく。
「温かい……」
「“うまい”じゃないのかよ」
ドアにもたれたまま煮介がつぶやくと、中から震えた声が返った。
「…………うまい、うますぎて……こわい……」
「こわい?」
「こんなの食ったら……また、生きたくなる……」
「生きたい、結構なことじゃねぇか」
翌朝、屋台の前に、少年が立っていた。
まだ頼りない足取り。
でも、その瞳には、確かに命の光が戻っていた。
「昨日の……もう一杯、食べさせてください」
煮介は無言で丼を差し出した。
少年が箸を取った瞬間──
《経験値を獲得しました!》
《スキル《魂調味》が発現しました!》
《効果:煮介の料理は、相手の心の深層に共鳴し、癒やしの作用を及ぼすことがある》
「……やっぱり、オレの和食は人の心を癒せるんだな」
「な、なによ、自画自賛!?
たしかに、アンタの和食は最っ高に美味しいわよ?でもそれをアンタが自分で言っちゃダメだと思うわ」
「んじゃ代わりにオマエがもっと褒めてくれてもいいんだぞ?」
フィリーネは頬を染めて、ツンと横を向いた。
「(ふふ、いつ見てもコイツのツンデレはおもしれぇな)」
と心の中で呟く煮介。
だが、ナユが見つめるその先、空の向こうには、まだ暗き風が渦を巻いていた。
料理だけでは癒せぬ闇が、この世界にはまだ残っている。
だが、煮介は知っている。
“食べたい”という想いが、最初の一歩だと──。
⸻
ナユの心の声
──腹が減っている。
その事実に気づいたのは、久しぶりだった。
煮介という名の料理人が置いていった丼から、潮の香と共に温もりが部屋に染みこんでいた。
俺の世界は、あの日から止まっていた。
あの戦い。
炎に包まれ、叫ぶ仲間の声が耳を離れず、折れた剣の切先が自分の胸を責め立てていた。
「オレは……生き残って……なんのために?」
誰も救えなかった。
弱い自分が憎かった。
声も、笑いも、食欲さえも失って──
ただベッドの上で、天井の染みを数えるだけの毎日。
だが──その匂いだけは違った。
懐かしさでもない。
理屈でもない。
ただ、涙が出た。
──食べたい。
理由など、いらなかった。
箸を握る指が震える。
この手は、もう誰も守れないと思っていた。
だが。
──ズルッ……
喉に滑り込む麺とスープ。
魚介の旨みが、まるで小舟のように舌を撫でていく。
「あったかい……っ」
気づけば、ひと口、またひと口。
丼に顔を近づけ、すすっていた。
涙がぼろぼろとこぼれた。
この味のせいか、香りのせいなのか、自分の心がほどけていく感覚。
だけど。
この丼を作った男は、何も聞かなかった。
ただ、「ここに置いておくぞ」とだけ言った。
「また、生きたくなる……こんなの……ずるいだろ……」
止まっていた時間が、静かに、動き出していた。
あのラーメンという料理は、ただの料理じゃなかった。
「オレは……まだ、なにも終わってないのか……?」
涙がこぼれても、箸は止められなかった。
食べるたび、胸の奥の氷が、ひとつずつ溶けていく、そんな感覚。
──翌朝。
顔を洗い、久しぶりに隊服に袖を通した。
重たく感じていた隊服が、ほんの少しだけ軽く感じた。
あの屋台に行こう。
もう一度、あの味を。
もう一度、自分の足で立つために。
煮介に、ありがとうなんていまさら言えない。
でも。
「うまかった」と伝えたい。
その一言を胸に、ナユ・ロゥは歩き出した。
いつか、自分の手で、誰かの命を“守る”ために。
――
屋台の幕が、朝の風にふわりと揺れた。
街の片隅、まだ朝靄が残るなか、一人の少年が立っていた。
ナユ・ロゥ。
かつて海傭兵団の精鋭として名を馳せ、いまは戦火に焼かれた心を抱えている少年。
その表情は、まだどこか痛々しくもあるが──
昨日とは確かに違っていた。
「あんたが……煮介さん、だよな」
煮介は鉄板を掃除しながら、顔だけを上げた。
「おう。ラーメン、冷めてなかったか?」
ナユはふっと鼻で笑った。
「……あれは、反則だろ。あんなの、涙出るっての」
「そりゃ失礼。うちの味は、心にも染みる仕様なんでな」
「──なあ」
ナユが、少しだけ声を強めた。
その目には、もう“迷い”がなかった。
「オレを、弟子にしてくれないか?」
鉄板の音が止まる。
フィリーネとブリンが、奥からそっと顔を出した。
ツンとした目をしながらも、フィリーネの眉がほんの少し下がっていた。
「へぇ。なによ、あんた、急に真面目な顔しちゃってさ……」
ブリンはポカンとしていたが、小さく拍手をした。「すごい……!」
煮介は無言でひと拭きし、鉄板の端に布をかけると、ナユの方へ向き直った。
「弟子にしてくれってのは、オレの和食を学ぶってことだがいいのか?」
「……うん。でも、ちょっと違うかも」
ナユは俯いた。
「オレ……戦う以外、何もなかった。
だけど、あの味が、“生きてる”って感覚を思い出させてくれたんだ。
誰かのために、あんな飯を作れるなら──
それが、生きる理由になる気がして」
静かな空気のなか、煮介はゆっくりと笑った。
「いい目だな」
そう言って、彼は屋台の奥から一本の小さな包丁を取り出した。
「だがな、弟子入りには条件がある」
「……条件?」
「今日一日、ひたすら大根をおろし続けても文句言わねぇ根性。
鍋に焦げがついたら、三日三晩磨き続ける覚悟。
それと──“うまい飯”に心から感謝できる心だ」
ナユは、ぐっと唇を噛み、次の瞬間、深く頭を下げた。
「──全部、やります。学ばせてください」
風が、屋台ののれんを揺らす。
朝日がナユの背に差し込み、その影をまっすぐ延ばした。
煮介は静かにうなずいた。
「……よし、合格だ。ナユ、オマエは今日からオレの弟子だ」
フィリーネが横から鋭く割り込む。
「ま、いいけど? ナユくん。でも“ツンデレ枠”は空いてないからね?」
「いや、そもそもその枠いらないだろ!?
てかツンデレの自覚あったんすね」
「う、う、うるさい!誰がツンデレ美少女よ!」
「いや言ってないし……」
ブリンは嬉しそうに手を握った。
「仲間が増えたね……!」
ナユの口元が、わずかに緩む。
どこかで、誰かのために。
今度は“うまい飯”で守ってみせる──
そう決めた少年の、小さな第一歩だった。
──次話「暖簾を継いで ――風の先でまた逢おう」へ続く。




