プロローグ
――その日、天ぷら鍋が命を奪った。
「……なるほど。つまり、死因は“火の玉のような揚げ油”。」
天上の玉座に座した女神――アリュ・エインは、白銀の髪をくすくすと揺らしながら笑っていた。
いや、笑っている場合ではない。
だが彼女はそういう女神だった。
柔和にして、気まぐれ。
軽やかで、真に深い意図を隠すタイプ。
しかも少々エロボケ気味。
「ふふっ……あなたみたいな職人気質、わたし、ちょっと好きかも。」
その視線の先にいたのは質素な作務衣姿の――いや、かつてそうだった一人の男。
名を、鮎川煮介。和食一筋、五十年の職人。
年齢六十五、趣味は書と茶と少しの俳句、そして剣道有段者。
つまみの昆布にさえ哲学を語り出すような、硬派すぎる料理人だった。
「……オレはもう、死んだんじゃなかったのか?」
「うん。死んだわよ。天ぷら鍋ごと。だけど、和食の神様が黙ってなかったのよねぇ~。“この才能を埋もれさせてなるものか!”って」
「和食の神様なんて聞いたこともねぇが……」
「実在してるわよー? わたしの飲み友達。ちょっとポン酢にうるさいけど、いい神様よ?」
煮介は眉間に皺を寄せた。
これが三回目の意味不明なやりとりだった。
第一に、自分が死んだこと。
第二に、目の前の神が“別世界に転生しない?”などと軽く勧誘してきたこと。
そして第三に、異世界の食文化があまりにも貧しすぎるということ――。
「たとえば“出汁”が存在しない世界って、どう思う?」
「絶望だな」
即答だった。
彼の眉間の皺が、ピキリと震えた。
「でしょでしょ? でもね、そういう世界なの。肉を焼くだけ。塩と香草だけ。どこに深みがあるのよって感じじゃない? それに、わたし……」
女神は、そこまで言って少し頬を赤らめる。
「本音を言うと……和食、食べてみたかったの」
「……自分で作れ」
「それができないからお願いしてるのよっ!」
プイッと横を向いたその姿はまるで年頃の乙女のようで――実際の年齢は神歴も加味すれば兆単位だが――そんな“駄女神感”もまた、煮介は嫌いではなかった。
「……オレが行ってどうなる。料理ひとつで世界が変わるなんて、そんな御伽噺は――」
「じゃあ、試しにひとつ見せてあげよっか?」
そう言って、アリュ・エインは掌をかざした。
すると、どこかの村の映像が空中に浮かび上がった。
――ボロボロのスラム街。
食器もなく、薪も足りない。
――村人たちは黙々と、硬くなった干し肉と黒パンを分け合っている。
――そしてその傍らに、飢えた子どもがうずくまっている。
目に、光はない。
「この世界、物はあっても知恵がないの。ただ食べるためだけに生きてる。だから“食を楽しむ”という感覚を誰も知らないの……。お願い。あなただからこそ、できることがあると思うの」
沈黙が落ちた。
煮介はゆっくりと、懐から何かを取り出した。
――それは、使い古された菜箸だった。
「……死ぬ直前まで、これで食材を揚げてた。焦げついたまま火に飲まれて、バカみてぇだった」
「……でも、最期まで命を込めていた。そういう味、わたし……一度でいいから食べてみたいの」
その言葉に、煮介の中の何かが音を立てて動いた。
仕事とは、己を削ることだ。
だが、それで誰かが満たされるなら――。
「……分かった。転生、受けてやる」
女神の瞳が、ふわりと潤んだ。
次の瞬間、光が弾ける。
「よーし! 転生ボーナス、三つのスキルから一つ選んで!」
ひとつ目のスキルは《包丁術・雅ノ型》──手元の食材がどれほど硬くとも華麗に捌く神技よ!
ふたつ目のスキルは《火加減術・幽玄》──炎を自在に操り、繊細かつ均一な火通しを可能にするわ。
そして3つ目は、《一番出汁ノ極意》──水と素材が揃えば、どこでも完璧な出汁を抽出できるのよ!
「さあどれにする?」
「出汁、だな」
迷いはなかった。
そして――。
転生直後、彼は森の中で目を覚ました。
若返った肉体。
焦げ跡ひとつない、綺麗な両手。
傍には、包丁と鍋と基本的な調理道具と濾過器。
そしてキャンプ道具一式。
何より、あの“焦げた菜箸”が、まるで新品のように彼の手に戻ってきていた。
「ふ……はは……本当に転生したのか。さてと、出汁でも引くか」
空腹の、ツンとすました美少女エルフに出会うのは、もう少し先の話だ。
だがこの時点で、世界の運命はすでに大きく動き出していた。
ひとつの和食が、ひとつの村を救う。
やがて国を変え、世界を変え、魔王すら弟子にしてしまい神々をも驚嘆させる――。
これは、“うまい飯”だけで異世界を無双する、そんな男の物語である。
――次回、第一話「昆布と魔節と一番出汁、はじめました」へ続く!