サナリー=グリノール
再び目を覚ますと、仲間たちが泣きながら俺を見下ろしていた。見下ろす彼女たちの瞳には安堵と拭いきれない不安が滲んでいた。
急に動いたから、再び倒れてしまったらしい。反省。
冷静になって考えてみると、俺は自分の置かれた状況すらわからない。
俺はなぜ、ベッドに寝ていたのか。どうして、仲間たちがそこにいたのか。
何より、あの『ゆうしゃ』さまは一体何者なんだ。どうして、名前も告げずに、姿を消したのか。そして、今、どこにいるのか。
顔も声も分からない。残っているのは俺の背中に触れた指の感触のみ。
進むべき道も見えず、過去も未来も曖昧。
分からないことが多すぎて、思考の濃霧の中を彷徨っているようだった。
「ま、それはそれとして、いい湯だな~、ふぃ~」
俺は今、温泉に浸かっていた。しかも、露天風呂だ。
俺が今ここにいるのはレティシンティア王国の最北端に位置する【炎の里】で、今浸かっているのはこの里に湧く天然温泉だ。元々、この地は王国の北部に位置していた場所だったが、この一年で地図が変化し、今では最北端と言われている。
俺たち、【星屑の集い】が【白龍の森】で敗北してから一年しか経っていなかった。俺としてはもっと百年単位で時間が動いていると思ったが、存外短かった。それだけ密度のある日々だったのだろう。充実感は全くなかったけど。
その一年の間に、レティシンティア王国はほとんどの戦場で敗北を重ね、かつての領土の三割を喪失した。敵の侵攻は未だ止まることを知らず、この【炎の里】にも、まもなく魔人のものになってしまうのだろう。
この湯に浸かれるのも、最初で最後になるのかもしれない。
「まぁ、いいか~」
そんな悲しいことを考えずにこの温泉を楽しもう。熱湯で焼かれ続けたせいで、風呂嫌いになったがまた評価を改めるべきかもしれない。
身体を包むこの温もりは思わず声が漏れるほどに心地よい。
「隣、失礼するわよ」
「お。サナリーも来たのか……あり?」
先ほどの世界情勢はサナリーが教えてくれたものだ。分かりやすくてとても良かった。感謝感謝。
ただちょっと待ってほしい。ここは温泉だ。つまり、全裸だ。そして、サナリーは女。アレ?倫理的に男女が一緒に風呂に入るアウトだった気がする。
すると、ピッタリと俺の横にサナリーが座る。
「ここの温泉には癒しの効能があるの。回復魔法もここで使えばより効果があるのよ」
「そうか。でも、俺、男だぞ?」
「私は女よ。何も問題ないわね」
そうか。何も問題がないのか。一年で倫理観も色々変化したのだろう。サナリーがなぜ一緒に入ってきたのか理由もわかったけど、混浴するなら許可はとってほしかった。
サナリーの手から温もりが伝わり、身体の芯がポカポカしてきた。節々の痛みは徐々に消えていくのを感じる。
「相変わらずいい腕してるな。魔人の雑な回復魔法に比べたら天と地の差だよ」
「……あいつらと比べられるのは屈辱よ」
「はは。それは言えてるな」
魔人からしたら俺に回復魔法をかけるメリットなんてないしな。そもそも俺、死なないし
サナリー=グリノール、俺の幼馴染で【星屑の集い】の【僧侶】だ。俺と同じく辺境の村の出身で幼い頃から一緒にいた。一緒にウィズダム学院を卒業し、【星屑の集い】として一緒に戦った。
漆黒の髪は夜空を切り取ったように深く美しく、アーモンド形のルビーの瞳は少しだけ曇って見えた。元々美しかったその顔はたった一年でまた美しくなったようだ。
それと共に、身体の成長もだ。
僧侶という清廉な職に似つかわしくないほどの、はちきれそうな肉体美を隠そうともせず、堂々と修道服を着こなすその姿は欲を引き出す夢魔のようだった。もはや罪深さを感じるほどである。
それが今、一緒に風呂に入ってる。やっぱり俺の倫理は間違っていないと思う。こんな女と一緒に風呂に入ったら理性が溶けるぞ、全く。
ってかまた、成長したな……?
「ねぇ、他に痛いところはない?」
心配そうに俺の表情を覗き込んでくるので、俺は元気を与えようと思った。
「全くないない。この一年で拷問され過ぎてさ~。痛みを感じない方法を編み出したんだぜ?」
「ッ」
けれど、サナリーの表情はみるみる曇っていった。目を伏せ、僅かに唇を噛みしめるその仕草を見て、俺は滑ったのだと悟った。
笑ってくれよ~……
拷問の中に気まずい空気を入れなかったのは魔人のミスだな。結構精神に来るぜ、これ。
仕方がないので俺は話を変える気にした。
「それより、俺の身体っていくつか欠損してたはずだけど?」
「……切断された部分は【世界樹の雫】を使ったわ」
だから、何で暗くなるのさ……ん?【世界樹の雫】?
「え、マジで……?」
欠損した部位を再生させることができる【世界樹の雫】。再生の奇跡をもたらす伝説の秘薬と言われ。その一滴で下級貴族の全財産に匹敵するほどの価値がある。しかも、俺の身体の欠損は一つや二つじゃなかったはずだ。背筋を冷たい汗が伝った。
「マイスを助けるためよ。お金のことは気にしないで。この一年で、死に物狂いで稼いだから……」
サナリーの声は優しくて、けれど、どこか痛々しかった。その笑顔は泣きだす寸前のように脆かった。
ズキリ
その表情を見ると、幻痛のように胸に失くした何かが疼く。
だから、俺は━━━
「おっぱい触っていい?」
全力でふざけることにした。セクハラ発言をすると、かつてのサナリーは顔を赤くして殴ってきた。痛いのは嫌だが、今はサナリーにそんな表情をさせたくなかった。
「え、その、どうぞ」
「なんでだよ」
恥ずかしそうに胸を両手で寄せ、俺に差し出してくる。尽く俺の目論見が外れてしまう。
━━━いや、そうか。そもそも俺は壊れてしまったんだ。
相手の気持ちを理解するなんて今の俺にできるわけがない。
誰かを心配したり、笑わせようとだなんて考えるだけ無駄だった。
だったら、俺はやりたいことをやるべきだ。
「俺を助けてくれた『ゆうしゃ』さまってどんな人?そもそも何でお前らと再会できたんだ?」
目が覚めたら牢ではなくベッドの上だった。今までのことが夢だったと考えるにはあまりにも俺の傷跡は生々し過ぎる。となると、俺をここまで運んでくれたのは、あの『ゆうしゃ』さまで、サナリーたちと顔合わせをしているはずだ。でなければ、俺が今こうして彼女たちの前にいる理由が説明できない。
「……【灰燼】ガブリエルを覚えてる?」
サナリーは重たげな声で口を開いた。その瞳は揺れ、言葉を選んでいる様子だった。
「【白龍の森】で俺を連行した奴じゃん。良く知ってるぜ。なんなら週一くらいで斬り刻まれてたからな」
俺の記憶の中には魔人の顔がずらりと並んでいる。どいつもこいつも怒髪冠を衝いたような表情をしていた。
当時、俺は【勇者】として魔人を滅ぼそうと魔人を殺しまくった。つまり、レティシンティア王国の中で一番恨まれている。だから、拷問の時はありとあらゆる魔人が俺を痛めつけようと訪れた。そのせいか知らないが、魔人の方が知り合いが多いまであるかもしれない。
「……【炎の里】から北東に魔人の最前線拠点を発見したの。国は大規模な冒険者アライアンスを編成して、ガブリエルの討伐を命じたの。結果は言うまでもなく、惨敗、よ」
「だろうな」
サナリーの声には悔しさと無力感が滲んでいた。対照的に俺の頭はこれ以上なく冷静だった。
ただの烏合の衆が魔人を倒せるほど簡単なものではない。特に【灰燼】ガブリエルは魔王の懐刀、四天王の一人だ。俺がなぜ【白龍の森】でガブリエルに降伏したのか、その理由は単純な強さだ。
ただ、その話は今はどうでもいい。
「だったら、何で助けられたんだ?」
冒険者アライアンスが万が一、ガブリエルを倒し、拠点を取り戻し、そこに幽閉されていた俺を解放したなら筋が通る。だが、勝てていないなら話は別だ。
サナリーは唇を噛み、悔しそうに首を振るだけだった。
「……分からないわ」
答えはある意味期待通りだった。だが、心のどこかでもしかしたらという期待があったのも事実だった。
「私たちだって、【星屑の集い】の一員よ。だから、当然、ガブリエルの拠点に襲撃に行ったわ。ただ、負けた。マイスがいなければ、私たちは何も……できない」
「そっかぁ」
俺は淡々と相槌を打つ。サナリーたちが強いか弱いかはどうでもいい。俺が知りたいのはただ一つ━━━『ゆうしゃ』さまのことだけだ。
「……その夜よ。ボロボロになった貴方が、誰かに抱えられて、私たちの元に運ばれてきたの」
俺は思わず身を乗り出した。
「……誰だ?運んできたのはどんな人だったんだ?顔は?」
期待と焦りが滲む声で問いかけたが、サナリーはゆっくりと首を振った。
「顔は見てないの。ただ、気が付いた時には貴方だけがそこに倒れていて、周囲には誰の気配もなかったのよ……」
そこで、サナリーは俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「けれど、私たちは……すぐに……マイスだって気付いたわ。だから、治療のために、私たちは急いであなたを抱えて、この【炎の里】に引き返したのよ。あのままだったら、きっと……」
「そっかぁ」
サナリーの言葉の余韻が風呂場に溶けていく中で、俺の胸の奥には一つの”確信”が芽吹いていた。
━━━あの伝説は本当だったんだ。
この世界では誰も【勇者】という存在を知らない。
レティシンティア王国の歴史は千年にもなるはずだが、【勇者】が誰なのか何の記録にも残っていない。
【勇者】というのは【魔王】が人類に災厄をもたらす時、その存在に呼応して現れる存在。人類にとっては希望の象徴だ。
ただし、【勇者】の正体は誰も知らない。【魔王】が【勇者】に倒されたという現象がただあるだけ。だから、本当は【勇者】なんて魔王に対する絶望が生み出した人類側の淡い希望なんだと俺は解釈していた。
俺が今代の【勇者】と言われていたのはただの形式的なものだ。ただ、レティシンティア王国の中で一番魔人を倒しただけの押し付けられた称号。
まぁ、結局負けてるわけだから俺にはその称号は重すぎたというわけだ。
本来の勇者がいるのなら、その称号は彼に返すべきだ。
俺を助けてくれたあの人は自分を『ゆうしゃ』と名乗った。顔も、声も分からない。でも、俺の背には確かに本物の感触が残っている。
「会いたい……」
『ゆうしゃ』さまは何か表に顔を出せない理由があるのかもしれない。じゃなかったら、何も名乗らずに消えるわけがない。
それでも会いたい。迷惑だと言われても、貴方に会ってもう一度、心からお礼を言いたい。
「マイス……?」
俺はサナリーの視線を受け流し、無言で湯船から立ち上がった。
「傷が癒えたら、すぐに旅に出る」
「……ダメよ!」
サナリーが必死に俺を引き留めようと、後ろから抱き着いてきた。震える腕に、サナリーの焦りを感じ取れた。
「貴方をもう……マイスをもう、離すわけにはいかないの……!」
「そう、言われてもなぁ」
今の俺に残っているのは『ゆうしゃ』さまへの渇望だけだ。それを止めろというのは俺にはできない相談だった。
「……ねぇ、マイス。私の夢を覚えてる?」
背中越しにかけられた声は今にも消え入りそうなほど震えていた。
「ん?何だっけ?」
「……故郷で薬屋をやるの。その、貴方と一緒に……」
「そうだっけか?悪い、覚えてないんだよな」
「そうよ……!そうなの!だから……!」
サナリーの指が食い込む。か細く、それでも必死に伝えようとするサナリーの声は今にも消えそうだった。
だけど、俺の胸は静まり返っていた。
━━━無理だろ
必死なサナリーを見ながら、俺は冷徹に判断を下した。サナリーは【星屑の集い】では僧侶だ。僧侶とは誰かを癒す存在だ。
けれど、サナリーの本当の魔法は人を癒すようなものではない。むしろ━━━
いや、やめておこう。これ以上言ってサナリーを傷つけるのは違う。夢を追うのは大事なことだ。応援することが幼馴染としてできることだろう。俺は笑顔を浮かべる。
「いい夢じゃん。【星屑の集い】のみんなで営めば楽しいんじゃないか?」
「何でそこにマイスがいないのよッ!」
鋭い叫びが空間を切り裂い。俺の無機質な心にすら、微かに響いた。
ズキリ
サナリーをまた泣かせてしまった。けれど、どうすればいいのか分からなかった。
この心臓の痛みはサナリーの表情に呼応している、
泣かれるのは嫌だ。けれど、どうして嫌なのか、その理由すら曖昧だ。
だから、最後までふざける。かつての俺はそれで笑いを取っていた気がするから。
「俺はほら。『ゆうしゃ』さまを探しにいかないとだからさ」
ポツリと告げた言葉でサナリーはピタッと泣き止んだ。振り返ると、サナリーんも長い黒髪が静かに顔を覆い隠していた。
「魔法はもう使えないのよ……」
「え?」
顔をあげたサナリーの瞳には、絶望と焦燥が滲んでいた。
「そんな身体で……!?魔法が一生使えないその身体でどうやって勇者を探すのよッ……!」
必死に俺をとめようとする声。だが、俺の意識は別のところにあった。
「魔法が使えない……?」
涙を拭いながら告げられたその言葉を反芻する。胸の内に魔力を巡らせようとする。けれど、冷たい。何尾反応もない。『火』を灯そうと思ったのに、何も現象が起こらない。
どんなに才能がない者でも、魔力があれば発動は絶対にできる。
それが何も起こらない。
その現実に、思わず目を見開いて、サナリーを見る。
「魔術回路がもう機能していないの……。いえ……別の、何かに置き換えられてる……。そんな酷い、拷問を、ずっと、ずっと……受け続けてたのね」
潤んだ瞳が、俺の傷だらけの身体をなぞるように見つめる。
「あー確かに、そんなことあったわ。魔術回路を剥されるのは痛かったな」
「だから、笑わないでよッ!」
俺の笑いで、サナリーの怒鳴り声が空気を再び切り裂く。
「ねぇ、マイス。魔法が使えない貴方に一体何ができるの……?」
サナリーは俺に手を伸ばした。
「貴方はもう十分戦ったの。だから、これからは私たちと一緒に━━━」
優しい声だった。温かい声だった。
けれど━━━
「だったら、新しい道を探すしかないな」
俺の口から出てきたのは、他人事のような言葉だった。
魔法が使えなくなった俺は一般人以下。ただの肉細工。
かつての俺は魔法で世界を変えられると思っていた。誰よりも魔法を信じていた人間だったはずだ。そんな魔法を喪ってなぜ俺はこれだけ冷静でいられるのは一つしかない。
━━━大事なものを失いすぎたんだ。
「ありがとう、サナリー」
今の自分について少し分かった気がする。
それでも、俺は『ゆうしゃ』さまに会わなければならない。そして、救われた命を捧げるに値するほどの存在価値を証明しなければならない。
「やるべきことが決まったよ。俺はまず強くならなければならないんだ」
「……不可能よ。魔法無しに強くなるなんて……」
「それでも強くなれる気がするんだ。いや、強くならなきゃいけない」
痛みはもうない。サナリーが良い治療をしてくれたのだろう。
「それに魔人相手には、魔法なんて何も価値がないのは分かってるだろ?」
「ッ」
俺たちは魔法で負けた。魔人の土俵でいくら戦おうとも、あいつらに勝つことが出来なかった。だったら、第三の道を見つけよう。魔法とは別の。
なんだか、今ならできる気がする。
「だから、修行だ。また、ゼロから鍛え直すさ」
サナリーが一歩、俺に近付こうとしてきた。止めようとしているのか、何を躊躇っているのか分からない。
「大丈夫だ、サナリー。信じてくれ」
俺のかつての口癖。その一言で、サナリーの足が止まった。彼女は何も言わない。ただ、その場で立ち尽くしていた。
━━━よかった。俺の想いは伝わったらしいな。
俺は背を向け、脱衣場へと戻った。冷えた空気が火照った肌を撫でる中、淡々と服を纏う。
「あ」
ふと、思い出した。
━━━そういえば、俺が故郷を滅ぼしたんだった……
『故郷で薬屋を開く』というささやかで温かな未来を壊したのはこの俺だ。
「ま、故郷以外で開いてもらしかないな。うん、そうしよう」
「ボロボロな体で、その言葉を言わないで……ズルいわ」
『重要なお願い』
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