プロローグ
「あ……」
それは乾ききった喉からこぼれたかすれた音だった。
━━━意識が目覚めたのはいつぶりだろう。
冷たい石の感触が、背中からつま先まで這い寄ってくる。無機質で湿っていて骨の芯まで冷えるような空間だった。
鈍い鎖の音が地面に擦れる。
両手首に巻き付く鉄の枷。少しの動かすだけで皮膚に食い込み、ジワリと血が滲む。暗闇を照らすの青白く揺れる蠟燭の火だけだった。頼りない光に照らされて映るのは人間━━━だったもの。
彼は━━━マイス=ウォント
平民ながらも、剣にも魔法にも秀でた百年に一人の天才。人類最大の王国、レティシンティア王国の【勇者】……かつては、そう呼ばれていた。
王国最強の冒険者パーティ、【星屑の集い】を率いて魔人の軍勢を退けて、数々の戦地で勝利を掲げた英雄。民衆の希望だった。
だが、その栄光は突如として終わりを告げた。
【白龍の森】では魔人の軍勢が【星屑の集い】を待ち構えていた。
魔人を一人倒すのに兵士が百人必要とされるほど強大な力を持つ。それがその場に千余人。迎え撃つは四人の【星屑の集い】。圧倒的な戦力差、抜け道の封鎖、仲間を包囲する布陣。抗えば、誰一人として生きて返れなかった。
「俺の命は好きにしろ。ただ、仲間だけは見逃してくれ━━━」
その取引は成立し、仲間たちは生還した。マイスの命と引き換えに。
ただ、マイスは魔人の【勇者】に抱く憎しみを侮っていた。
ここは魔人の複数ある拠点の一つ。
かつて【勇者】として人類の希望であったこの身に、彼らが恨みを抱かぬはずがない。
いや、むしろ彼らにとってこれは当然の報いなのかもしれない━━━
水攻め、火あぶり、鞭打、切創、切断……叫んでも泣いても終わらない地獄を受け続けてきたマイスにかつての面影はなかった。
傷のない場所など一つもなく、黒かった髪は今では年老いた隠者のように真っ白に変わり果てていた。
骸のように痩せこけた身体は生きているのが不思議なほどだ。皮膚は引き裂かれ、肉は削がれ、血は乾いてこびりついている。拷問の痕跡がない場所などない。
目は潰され、耳は削がれ、喉は焼け潰され、手足の指は━━━もう数えることもできない。四肢が残っているのが不幸中の幸いかと思える有様だった。
生きているのが不思議なくらいには人間としての原型を留めていない。
━━━すぐに意識を手放そう。この思考すら邪魔だ。
地獄を乗り越えるための処世術、俺は感情を一つずつ消す術を覚えた。消すしかなかった。
恐怖、怒り、絶望、希望━━━すべてが毒だ。残しておけば必ず壊れてしまう。
そして俺は今、どんな痛みであったとしても、他人事のように受け流せるようになった。
熱さも、冷たさも、鋭さも、重さも、すべてがただの現象に過ぎない。
それこそ致死性のものであったとしてもだ。
その時に、何か失くした気がする。多分、大事な何かだった。
でも、それでよかったのかもしれない。この地獄を生きるには希望さえも毒だ。
さぁ、ノイズを消そう。
心を消そう。
もう何も考えるな。感じるな。
死ぬことすら許されないなら、せめて生きている実感だけは殺してしまえ。
思考を捨て、虚無の海に溺れようと思ったその時、俺の身体に温かい感触が触れた。
何だこれ?
火か?熱湯か?それとも雷属性の魔法の実験か?
……いや、何か違う気がする。
今までの”それ”とは、どこか違う。
少しだけ。痛いのを我慢して、意識が表層に顔を出した。
温かい。柔らかくて、包み込まれるような……
こんな感覚、最後に味わったのはいつぶりだろう。
思考を捨て去ったせいで、何かを思い出すことすらできない。人間としての何かを、あまりにも多く捨てすぎた。
ふいに吐息が耳元をかすめる。
近い。誰かがいる。
━━━ごめん。もう、耳は聞こえないんだ。
眼の前に何か気配がある。拷問官ではなさそうだ
けれど、それが誰なのかは分からない。
━━━ごめん。もう、目は見えないんだ。
ああ、そんなことを口に出すことすらできない。
再び、俺の身体を何かがそっと包み込んだ。
それは鎖でも、鞭でも、刃でもなかった。
まるで、暖かい布か……腕のようだった。
胸の奥がじんわりと溶けていくような、不思議な感覚。
痛みは残っているのに、どこか安心する。
━━━ああ、そうか。ようやく死ねるのか。
この感触の主は、天使様に違いない。
心の奥で言葉が生まれた。
もう表情の動き方さえ忘れた俺は最後に精一杯の笑顔を思い出した。
『殺してくれて……ありがとう』
それが言葉になったのかは分からない。それでも、俺は伝えることができた。
すると、背中に何かが触れる。
ひんやりとした感触だが、でも温かい。
それは暴力でも、責め苦でもない。
それは明らかに”丁寧さ”を持っていた。
静かに、躊躇いながら、それでいて意志を感じる動き。何度も何度も同じ動きをしていたのでようやく俺にはこれが何なのか分かった。
━━━ああ、これは文字だ
久しく忘れていたが、身体が思い出した。誰かが、俺に言葉を刻んでいる。
『あんしんして』
驚きはなかった。怖くもなかった。
『たすける』
その言葉に、心が微かに反応した。
俺は何かを返さなければならないが、潰れた喉では声が出ているかどうかすら怪しい。温かい何かに俺は残った指で会話をすることにした。
『だれ?』
少しの沈黙。相手からは迷いを感じた。すると、再び背中に文字が刻まれた。
『ゆうしゃ』
胸の奥に熱のようなものがじんわりと広がった。
それはかつて俺が呼ばれていた名前だった気がする。
でも、そうか。目の前にいる人が『ゆうしゃ』だったのか。
すると、俺の背中に、続けて文字が描かれる。
『いきて』
真っ直ぐで、優しくて、確かな祈りのようなものだった。
ただ━━━
『しなせて』
俺にはもう生きる理由がない。こんな地獄のような世界で生きていくくらいなら、もう死んで楽になりたい。
そんな願いは『ゆうしゃ』には届かなかった。
『いきて━━いきて』
何度も何度も祈りのように俺の背中に『いきて』の文字が刻まれる。
意識がふわりと緩んでいく。
これは眠りだ。痛みも恐れもない。
どこまでも静かで、穏やかなもの。
俺は背中に残った言葉を感じながら、眠りに落ちた。
その先に”救い”があると、信じながら━━━
『重要なお願い』
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