漫才師は笑わない ~前編~
「漫才師は笑わない」 ~前編~
右京之介
廊下からドスドスという足音が聞こえて来た。
いや、ドスドスは大げさかもしれない。だけど、それほどデカい音だということだ。そんな足音が出せるということは、体もデカいということだ。
足音の主は俺の相方の仏田バチ。
バチは芸名だが、ブッタという名字は本名だ。全国に百人以上いるという。仏さんにお供えする米を作っている田んぼが名字の由来らしい。由来の通り、仏田の実家はコメ農家で、毎年おいしいお米をたくさん送って来てくれる。
一緒に住んでる俺もちゃっかりいただいているというわけだ。
ああ、ありがたや、ありがたや。
食べ物の恨みは怖いというが、食べ物をもらった恩は忘れない。
いつか売れたら、仏田の実家に新しい農機具を詰め合わせにして贈ってあげようと思っている。売れたらの話で、いつになるかは分からない。売れるまで、仏田のご家族にはしっかり長生きしてほしいと願っている。
パソコンのモニター画面の右下に表示されている時刻を見る。本番までは余裕だ。仏田はがさつそうな見かけによらず、時間はちゃんと守る。コンビを組んだとき、時間だけはしっかり守ろうと約束したからだ。たかが遅刻で信用や仕事を失うなんて、バカバカしい。
だけど、仏田が守らないこともある。
ノックの回数だ。奴はノックを二回しかしない。
――コンコン。
ほら、二回だ。
二回のノックはトイレの個室に人が入っているかどうかを確認するときにするもので、部屋に入るときは三回ノックをしなければならない。そう教えても、二回しかやらないのだ。
奴に言わせると、めんどくさいらしい。
一回余分に叩くことがなぜ面倒なのか。
俺に対してはいいけど、部屋に偉い人がいるときは三回ノックするんだぞと言ってあるが、今まで偉い人がいる部屋に入る機会はなかったから、そのときにならないと、どうなるかは分からない。
「おはようさん、いつも早いな」
仏田はドスドスと音を立てて、楽屋に入って来ると、大きなリュックをテーブルの上にドカッと置いた。
「ああ、おはよう」とだけ答える。
お前が遅いんだろとは言えない。別段、遅くないからだ。遅刻したわけではなく、ちゃんと指定した時間にやって来た。
本番前の打ち合わせのために、毎回少しだけ時間を取りたい。お互い、台本はしっかり読み込んである。ネタの最終打ち合わせである。
仏田は楽屋の隅に置いてある二つの弁当をチラッと見て、パイプ椅子に腰かけた。本番前に食べて、お腹がいっぱいになると、集中力がキレて、ネタを飛ばしてしまう。だから、今は我慢する。以前、何回か同じことが起きているので、二人ともそう信じていて、空腹のまま舞台に上がる。だったら、楽屋に戻って来たら食べるのかというと、食べないで持って帰る。貴重な晩御飯になるからだ。いつもご飯に塩をかけて、修行僧のような食生活を送っている二人にとって、楽屋弁当はたいへんなご馳走なのである。コンビニ弁当より豪華なのだから、ご馳走と言うしかない。
ただし、水分だけは摂っておく。
本番のとき、口の中がカラカラにならないためと、舞台の上で熱中症にならないためだ。
仏田も俺も楽屋ではくつろいでいる。最近やっと二人だけの楽屋をくれるようになったからだ。ここは六畳の小さな部屋だけど、俺たちの楽屋にはちょうどいい。
それまでは他の芸人たちと一緒で、しかも先輩ばかりで、気を使うのに疲れて、くつろいでいるヒマなんかなかったからだ。
二人だけの楽屋をあてがわれたとき、貼り出されている名前と一緒に、ちゃっかり記念写真を撮った。今までの苦労が走馬灯のように思い出されて、涙が止まらなくなった、なんてことはない。同期の奴らが通りかかって、茶化しながら、通り過ぎて行ったからだ。
「お前ら、初めて楽屋をもらったからといって、泣くんじゃないぞ」
あいつらは俺たちより一足早く、楽屋をもらっていたのだ。だけど、あいつらも初めて楽屋をもらったとき、記念写真を撮っていたに違いない。
先輩の中にはいまだに大部屋の楽屋の人もいる。少しずつ人気が出てきた俺たちが追い抜いた感じなのだが、そんな先輩たちを見下す態度を取ってはいけない。この業界はいつ何時、干されるか分からないからだ。
いくら売れたとしても、常に謙虚に振る舞おう。たとえ同業者であろうと、スタッフさんであろうと。
二人でそう決めたのだ。
ちょっと売れたからと、威張りくさって、いつの間にか見かけなくなった芸人を何人か見てきたからだ。あんな連中にはならないように気を付けよう。相方とはそう約束した。
と言っても、俺たちはそこまで売れてない。ときどきテレビに呼ばれるようになっただけで、今日の仕事も劇場の舞台だ。だけど、コンスタントに舞台の仕事が来るので、ありがたい。お陰で二人して、居酒屋のバイトの仕事をやめた。いや、まだ籍は置いてある。店長が、いつでも戻って来ていいぞと言ってくれているので、お言葉に甘えて、新しいタイムカードは名前だけを書いた状態で、スタンバイ中だ。
しかし、その店長の言葉に喜んでいいのかどうか。
いつでも戻って来いということは、芸人としての仕事がなくなるということではないか。
二人とも、もうバイトとの二刀流はやめようと思っている。今度居酒屋に行くときは客としてだ。そして、壁には大きくサインをしてやるんだ。
俺たちはこの店から飛び立ったという証としてのサインだ。
我ながらカッコいい。夢を語るのはタダだ。
ネタ担当の俺は、相方が話しかけてくるときもパソコンの画面から目を離さずに、新ネタを作っている。常に新しいネタを作り出さないと、同じネタを使い回してるから売れないんだと陰口を叩かれる。陰口どころか、面と向かって言われる。
「神山よ。相変わらず、目にも止まらない速さで指が動くな」
仏田がペットボトルのお茶を飲みながら言ってくる。
神山は俺の名前だ。フルネームは神山ジュージと言う。神山は本名だが、ジュージは芸名だ。
仏田バチと神山ジュージの若手芸人コンビ。
仏田バチのバチはバチ当たりのバチ。神山ジュージのジュージは十字架のジュージ。
コンビ名は“カミホトケ”と言う。
まったく不謹慎な芸名とコンビ名だが、他に思いつかなかったから、これに決めた。
神様仏様、どうか売れますように、というわけである。情けないことに、実力ではなく、神仏頼みである。まあ、要するに、売れればいいのである。宗教団体からクレームは来てないので、このまま通すつもりだ。もっとも、売れてないから、知られてないのだろうし、何の影響もないのだろう。それはそれで悲しいことだが。
「そんなんで、ちゃんと文章になってるのか」
仏田が俺のフィンガーテクニックに驚いているが、結構タイプミスがあって、何度も打ち直しているのだが、手元を覗き込まないと分からないだろう。だから、俺は相方に尊敬されるままにしておく。
「さて、今日のネタの最終稽古をしようぜ」
俺はノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
本番まであと三十分。
今日やることにしている食堂ネタのおさらいをする。最終チェックをするゲネプロだが、ここで内容が変わることもある。ギリギリまで稽古をして、しだいにブラッシュアップしていく。最新の時事ネタも放り込んで行くこともある。出来上がってきた一番いいものを見せないと、わざわざ足を運んでくださったお客さんに失礼だからだ。
「なかなかいいねえ」最後の稽古を終えた仏田が満足そうに言う。
だけど俺には不満がある。「お前は笑いすぎなんだよ」
こいつは普段からゲラだ。つまり笑い上戸なんだ。お笑い芸人としては致命的だ。
ときに、お客さんより早く笑い出すときもあるし、お客さんより長く笑ってるときもある。
今も、俺がちょっと挟み込んだアドリブに、マジでバカ笑いしやがった。
「演者が楽しくないと、聞いてる人も楽しくないでしょ」
「だからといって、笑うことはないだろ。その間、セリフが止まってるし。楽しそうな顔だけしておけばいいだろ」
「いや、やっぱり笑い声は必要でしょ。俺の百万ドルの笑顔に百万ドルの笑い声。足して二百万ドル。最高のコラボじゃん」
仏田は反省することなく、俺の前でニコニコ笑っている。
確かに、こいつの笑顔は大きな武器になっている。丸顔で二カッと笑うのである。笑った瞬間、目がなくなる。顔面に余分な肉が多すぎて、両目が陥没するだけなのだが、中年のおばちゃんを中心に、こいつの笑顔には多少の人気がある。
だから、あまり強くも言えない。俺たちは人気商売だ。
「分かった。笑うのはかまわないが、せめてセリフは止めないでくれ」
漫才には時間制限がある。こいつが笑ってる間に、ネタが放り込めなくなると、後が押してしまい、つい早口になって、お客さんも聞き取りにくくなる。
「何とか努力するよ。だけど逆に、お前はホントに笑わないよなあ」
「芸人がネタ中に笑ったらダメだろ。だから普段から笑わないように心がけてるんだよ」
「すげえ、プロみたいじゃん」
「プロだよ、俺たちは」
ノックの音が三回した。
マネージャーの類さんが俺たちを呼びに来た。
さて、出陣じゃ。
~食堂~
「どーもー、カミホトケです。私が仏田バチで――」
「私が神山ジュージです」
「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」
「さっき食堂で飯喰って来たんだけど、ご飯のおかわりができないんだわ」
「まあ、そういう食堂もあるでしょ」
「タダだから文句は言えないけどね」
「タダ? そんな食堂あるのか。何という名前の店だ?」
「確か、こども食堂と書いてあったな」
「はあ? こども食堂に大人が行くなよ」
「NTTが経営してると思ったんだよ」
「だったらドコモ食堂だろ」
「近づいてみたら、子供オンリーて書いてあったわ」
「スタッフオンリーみたいだな。それでお前、よく入れたな。身長百八十センチあるだろ」
「腰をかがめて、子供のフリをして入ったんだ」
「なんでバレないんだよ」
「座ったら、子供たちと座高が同じだったんだ」
「お前、どういう体型なんだよ」
「最近は学校で座高の測定をしないらしいな」
「測っても意味ないからな」
「ぎょうちゅう検査とシラミ検査はやってるのに、なんで座高は測らないんだ?」
「虫と一緒にするなよ」
「虫だったら、インキンたむしも検査すべきだろう」
「あれは虫じゃないし、子供はインキンにならないだろうよ。それよりも座高だよ。子供と座高が同じでも、顔見りゃバレるだろ。お前の顔はどう見ても大人だろ」
「帽子を目深にかぶって、ずっと下を向いていたら、大丈夫だったわ。服装も半ズボンを履いて、ランニングシャツを着て、若作りをして行ったからな」
「今どきの子供はランニングシャツ着て、ウロウロしてないだろ。ランニングシャツを普段着にしてるのは、たまというバンドでドラムを叩いてたオジサンくらいじゃないか。そもそも、二十代のあんちゃんが小学生になるなんて、若作りにも限界があるわ。見た目は若くなったとして、声でバレるだろ」
「注文するとき、小学生くらいの甲高い声で頼んだんだよ。すいませーん、カレーライスの甘口をお願いしまーす」
「なんで甘口なんだよ」
「辛口だったら、大人だとバレるだろ」
「辛口が好きな子供もいるだろ」
「みんな、甘口を頼んでたんだよ。それと飲み物はオレンジジュースさ」
「そこは子供だな」
「焼酎だと、大人だってバレるからね」
「カレーライスをつまみに焼酎を飲まないだろ」
「その前に焼酎は置いてなかったんだ」
「頼んだのかよ」
「他に頼んだ人がいたんだよ」
「なんで子供が焼酎を頼むんだよ」
「頼むのは大人たちだよ」
「なんでお前以外に大人が入り込んでるんだよ」
「子供は三人で、大人は十人いたな」
「こども食堂に来ている客の属性がおかしいだろ」
「タダ飯喰えるんだからな。みんな考えることは同じなんだよ」
「店の人は何も言わなかったのか?」
「子供のフリをしてれば子供だからな。お宅は大人じゃないのですか、なんて失礼過ぎて訊けないだろ」
「失礼なのはお前たち十人の大人の方だろ。三人の子供は何も言わなかったのか?」
「何も言わないけど、俺たち大人を白い目で見てたな」
「そりゃそうだろ」
「俺がカレーのおかわりを断られたら、フッと笑いやがったよ。最近の子供はニヒルだな」
「ニヒルじゃなくて、バカにして笑ってるんだよ」
「それは気づかなかったな」
「あんな大人になりたくないと思ったのだろうよ」
「そう思わせたということは、俺もいいことをしたな」
「大の大人がこども食堂でタダ飯喰ってることが、なんでいいことなんだよ」
「さっきからタダ飯と言うけど、あまりおいしくなかったんだ」
「タダなんだから、贅沢言うなよ。料理の予算も時間も限られてるだろうし、一晩寝かせたような本格的なカレーなんか提供できないだろ」
「朝に仕込んだらしいから、寝かせたのは半日なんだ。やっぱりおいしいカレーには一晩が必要だよな。半日じゃ、カレーさんも寝た気にならないだろ」
「なんで、さん付けで呼ぶんだよ。そんなに言うなら、お前がカレーを作って持って行けよ」
「おお、そこなんだ、最重要ポイントは。俺たち十人の大人で話し合ったんだけど、こんなクソマズいカレーを子供たちに喰わすわけにはいかない。ここは一つ、俺たちで金を出し合って、極上のカレーを食べさせてやろうじゃないかと、そう決めたんだ」
「なんだよ。いきなり、泣きそうな話に変わったじゃないか」
「文科省推薦の物語みたいだろ。タダ飯喰らってる大人でも、十人寄れば文殊の知恵だからな。やるときはやるぜ、俺たち十人の大人は」
「知り合いなのか?」
「何を言ってんだよ。昼間っから仕事もしないで、こども食堂で子供のご飯をかっぱらってるオヤジたちと一緒にしないでくれ――はい、これ」
「なんだよ、その手は」
「カンパだよ」
「関係のない俺に金を出せってか?」
「いや、ニンジンだ」
「何だよ、ニンジンというのは」
「お前はカレーの具のニンジンの担当なんだよ」
「なんで勝手に決めるんだよ」
「頼りになるはお前しかいないんだよ。ニンジンと言えば、お前の出番だろ」
「なんで俺がニンジンなんだよ」
「まあ、細かいことは気にしないで、ニンジンだけを提供してくれればいいんだよ」
「そこまで言うならいいけど、お前は何の担当なんだよ」
「もちろん、玉ねぎだよ」
「もちろんの意味が分からないけど、ニンジンくらいなら買って来るよ」
「恩に着るぜ。ニンジンは八百屋で買うだろ。俺の玉ねぎも頼むよ」
「何でお前の玉ねぎを買わなきゃならないんだよ」
「ニンジンと玉ねぎは野菜友達だろ。玉ねぎの分は俺のツケにしておいてくれればいいよ」
「カレーのルーとか肉はどうすんだ?」
「他の人がレトルトカレーを買って来るって言ってたよ」
「レトルト? 温めるだけのアレか。だったら、具は中に入ってるから、ニンジンと玉ねぎはいらないだろ」
「ああ。なるほど、そうなるか、そう来るか。そんなことは誰も指摘しなかったな」
「大人が十人もいたんだったら、それくらい気づけよ。さすが小学生のフリして、タダで飯を喰おうとする連中だな。ロクな人間が揃ってない」
「ニンジンと玉ねぎを増し増しした豪華なレトルトカレーだと思えばいいでしょ」
「たくさん入っていたら、ニンジンと玉ねぎが嫌いな子はかわいそうだろ」
「ニンジンが嫌いな子はいるけど、玉ねぎが嫌いな子はいないよ」
「いや、どこかにいるだろ」
「三人の子供の中にはいなかったよ」
「事前にリサーチしてたのか。それは感心だな」
「何でもおいしくいただきますと言っていたよ。なかなかできた子供だったな」
「なんでタダ飯喰らいが、上から目線なんだよ」
「子供より年齢は上だからな」
「なんで威張るんだよ――ご飯はどうするんだ」
「俺の実家から送って来た米を使うよ」
「俺も毎年食べてる新潟のホシヒカリだな」
「コシヒカリのバッタモンだけど、おいしいでしょ」
「確かに、粘りもないし、甘味もないし、カレーライスにはピッタリだな」
「そうだろ。うちの父ちゃんと母ちゃんが丹精込めて作ったバッタモンだからな」
「バッタモンに愛情を込める人はいないから貴重だけどね――カレーには福神漬けがいるだろ」
「手作り福神漬けでいこうと思ってるんだ」
「福神漬けなんか、どうやって作るんだ?」
「見よう見まねで作ってみたんだけど、まずは細かく刻んだタクアンを福神漬けのベースにして、赤くなるようにケチャップで味付けして、だけど甘くなかったので、砂糖を大量に入れたら、甘くなり過ぎて、レモン汁を垂らしたら、酸っぱくなって、カレーを入れたら、カレーライスと一体化してしまったので、水で洗って、味の素を振りかけたら、福神漬けとは程遠い、この世のモノとは思えない代物ができあがったんだ」
「それを提供するのか?」
「子供だから、味なんか分からないだろ。イタリアの福神漬けと言っておけばいいよ」
「イタリアに福神漬けがあるのか?」
「なければ、デンマークでもペルーでもいいよ。どうせ、子供だから分からないだろ」
「そんな変な物を食べさせるなんて、お前は子供に愛情を持ってるのかどうか、よく分らんな」
「福神漬けの代わりに、らっきょうという手もあるぞ」
「スーパーで買ってくればいいね」
「子供に出来合いを食べさせるなんて、お前には愛がないのか?」
「レトルトを喰わせようとしているお前が言うなよ。まさか、らっきょうも手作りじゃないだろうな」
「そのまさかだよ。小さい玉ねぎをお酢に漬けると、らっきょうができあがる気がしたんだ」
「できないだろ。小さい玉ねぎでも、らっきょうとして考えたら、デカいだろ。ヘタすれば、カレーライスの半分の面積をらっきょうが占めてしまうぞ」
「それはキツイな」
「玉ねぎを丸ごと完食するのは難行苦行だろ。子供に修行させてどうするんだよ」
「悟りを開くかもしれないだろ」
「何の悟りだよ」
「じゃあ、付け合わせは無しとして、カレーライスだけで勝負するよ」
「サラダも付けた方がいいんじゃないか」
「土手へ行って、草をむしって来るよ」
「サラダにする野菜は土手に生えてないだろ」
「土手にプライドはないのか」
「土手で獲れた新鮮野菜より、畑で獲れた新鮮野菜の方がおいしそうだろ」
「土手ちゃんにはもっとがんばってほしいね」
「最近は野菜も高いからな」
「じゃあ、サラダの代わりに野菜ジュースをお供えするよ」
「お供えって、子供を殺すなよ。死亡事故現場じゃないんだからな」
「カレーと野菜ジュースをセットにして出すよ」
「野菜ジュースが嫌いな子は多いぞ」
「では野菜ジュースを諦めて、オレンジジュースに出戻ってもらうか」
「それが無難だろうな。変なウワサを立てられて、こども食堂に誰も来なくなったら困るからな」
「誰も来なくなったら、俺が客引きをするよ」
「こども食堂の客引きはおかしいだろ」
「確かに、警察も取り締まっていいのか分からないだろうな」
「こども食堂のプラカードを持って立っていればいいよ」
「ともあれ、お前を入れて十一人の大人が力を合わせてカレーライスを完成させたところで、一杯三千円ということでどうかな?」
「子供から金取るなよ。しかも高いよ。市販のレトルトカレーを加工して、三千円はないだろ」
「二晩寝かせたぞ」
「カレーの睡眠時間の問題じゃないんだよ」
「何が問題なんだよ」
「こども食堂でボッタクリなんて、おかしいだろ。客引きとボッタクリだぞ」
「夏休みの思い出として、絵日記に描かれたらヤバいな」
「そんな悲しい思い出を描くわけないだろ」
「学級新聞に書かれたら、クラス中にバレちゃうな」
「ボッタクリこども食堂があったら、ネットニュースになってるだろ」
「払えなければ、ツケもできるよ」
「子供にツケを教えるなよ」
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
俺はため息をつきながら、楽屋へトボトボと戻って行く。
食堂ネタのウケが悪かったからだ。
相方の仏田はそんな気も知らず、廊下ですれ違う人たちに、愛嬌を振り撒きながら、ドスドスと歩いている。
「いやあ、どうもどうも。インスペースのお笑い芸人カミホトケでございます。前を歩くヒョロっとした奴が神山で、デカい私が仏田です。以後、お見知りおきを」
インスペースというのは、俺たちが所属している芸能事務所だ。誰もが知ってる大手事務所ではなく、ほとんど知られていない小さな新興事務所だ。
なぜ、できたばかりの小さな事務所に入ったかというと、ここしか採用してくれなかったからだ。
なぜ、俺たちが採用されたかというと、他に応募した芸人がいなかったからだ。
つまり、俺たちと事務所は持ちつ持たれつの関係ということだ。
俺もすれ違う人たちにしっかりと挨拶をしながら、廊下を歩いて行く。名前と顔を覚えてもらうための、涙ぐましい努力だ。テレビ局でもラジオ局でも劇場でも、地方のスーパーの営業でも、関係者らしき人には、ちゃんと頭を下げる。相手は誰だか知らない。局のお偉いさんかもしれないし、今日採用されたばかりのアルバイトかもしれない。
だけどこうやって媚を売っておけば、いつかどこかで仕事をもらえるかもしれない。
こうして挨拶だけは元気にしていたが、沈んだ気分のまま、楽屋に入った。
「やっぱり、こども食堂で大人がタダ飯喰ったらダメだね」
畳の上にドカッと座り込む。
「それはネタでしょ。ホントに行ったわけじゃないし」
仏田はさっそく楽屋弁当をバッグに詰め込んでいる。
「だけど今日は年配のお客さんが多かったから、冗談と受け取られなかったよ」
俺たちはポットからお湯をそそいで、ティーバックのお茶をズルズルすする。
「漫才を冗談だと思えないじいさんばあさんが悪いんだよ」
「お前はポジティブだよなあ。さすが仏様だよ」
「お前は神様だから、もっと気楽にいけよ」
「神様は気楽なのか?」
「神社でのんびり過ごしてるじゃないか。人間は黙っていても、頭を下げてくれるし、お賽銭をくれるし、ありがたく手も合わせてくれる。神々が激しく戦ってるのは、ラノベの世界だけだよ」
やがて、劇場スタッフがアンケートを届けてくれた。
俺たちの漫才を見たお客さんに書いてもらったものだ。
漫才の後、このアンケートを読んで、毎回喜んだり、悲しんだり、悔しがったり、腹が立ったり、呆れたりする。いろいろな感情が沸いてくるが、漫才を続ける上でのモチベーションになっていることは確かだ。
アンケートには、大人がこども食堂で食事をしないでください。子供たちに変な福神漬けやらっきょうを食べさせないでください。カレーを三千円で売るのはヒドいといった苦情がたくさん書かれていた。
「玉ねぎを加工した巨大ならっきょうも致命的だったか」
「意外と、らっきょう嫌いな子供は多いんだよなあ」
「酸っぱいもの同士だから、オレンジジュースのつまみにならないんだよなあ」
「オレンジジュースはつまみなしで、ゴクゴクいきたいものだ」
「らっきょうのニオイが嫌いな子もいるんだよ」
問題はカレーライスの付け合わせじゃないのだけど、どうしても愚痴が出てしまう。
「やっぱりニオイには消臭力だよな」
「消臭力の西川さんは滋賀県の星だもんなあ」
「滋賀県と言えば、ダイアンは売れたよなあ」
「今や、滋賀県愛荘町のふるさと大使だもんな」
「俺たちもどこかのふるさと大使になりたいよな」
「有名人を輩出してない地方の大使に、代理で選んでくれないかなあ」
しばらくすると、マネージャーの類さんがやって来た。
フルネームは入間類さん。インスペースの創業者であり、社長であり、営業マンであり、雑用係であり、俺たちのマネージャーだ。つまり、事務所の人間は一人しかいない。できたばかりのワンマンカンパニーだ。つまり、経験も実績もコネもない。だから、これからどうなるのか、俺たちもよく分からない。
類さんは社長と言っても、社長に見えない。どう見ても、風采の上がらない風貌をしているのだ。小柄で、髪はボサボサだし、滑舌はよくないし、必要以上に腰が低い。
これが、俺たち以外誰もこの事務所に入ろうとしなかった理由の一つだろう。
誰しも、寄らば大樹の陰を求めている。細い木の下では、誰も雨宿りはしないということだ。
類さんは昔、アイドルの追っかけをやっていたらしい。ところが、推しメンがスキャンダルで卒業してしまい、あまりのショックで落ち込んでいたところ、ある日の夜中、枕元に神様が立ち、自分で事務所を作って、自分でアイドルを育てればいいと教えられたらしい。
神のお告げを信じた類さんは、なけなしのお金で芸能事務所を設立したのだが、
やって来たのは、俺たち売れない芸人カミホトケだったというわけだ。
入間類さんは、埼玉県入間市出身かと思いきや、生意気にも東京都の出らしい。
上から読んでも下から読んでも“いるまるい”
アイドルっぽい芸名だが、本名で、しかもオッサンだ。
名前に“まるい”が入っているが、体型は俺と同じく、ヒョロ長い。ただし、身長差はかなりある。俺は常に類さんを見下ろしている。
だけど、これでも芸能事務所インスペースの代表者だ。名刺を渡された人は、まさか一人で経営してるとは思わないだろう。だから、飲み屋で少しだけモテるらしい。一応社長なのだ。
そして、俺たちが事務所の所属第一号タレントだ。二号はまだいない。絶賛募集中である。
後輩が入って来たら、十円玉を一枚渡して、缶コーヒーを買いに行かせてやる。
差額を自己負担して買ってくるか、足らないと文句を言ってくるのか、試してやるんだ。もちろん文句を言う方が、見所はあるというわけだ。
「はい、お疲れさんでした。二人とも、これ読んどいてね」
類さんが俺たちの目の前に数冊の本を突き出した。
「なんですか、これ」仏田が湯呑を片手に本のタイトルを読む。「日本の基本雑学100。知らないとおかしい雑学。クイズボスに俺はなる。――これで勉強しろということですか?」
「そうそう。神山君もね。クイズ芸人目指して、がんばってもらいたいんだよ」
クイズ芸人とは、本職の漫才はほぼ誰も見たことはないのに、ひたすらクイズ番組に出て、人気者になっている芸人のことだ。クイズ番組は毎週どこかのテレビでやってるし、視聴率もいいし、家族で見られるというので、出演者の好感度も上がる。番組によっては賞金も出る。漫才をやらなくても稼げるという、芸人にとっては憧れの存在だ。ただし、並はずれた知識を必要とする。それを今から身に付けろと言うのだ。いつものムチャ振りだ。
「それと、これ練習しといてね」
類さんがバッグからけん玉を二つ取り出した。
「けん玉ですか!?」俺はお茶を噴き出しそうになった。
「そうだよ。けん玉芸人目指してがんばってもらいたいんだ」
「けん玉がうまくなるとどうなるのですか?」
「紅白歌合戦に出場できるのだよ。けん玉が得意な出場歌手がいるだろ。歌番組なのにけん玉を披露するんだよ。そのとき隣でやらせてもらえば、紅白芸人と名乗れるぞ」
「そんなのいらないですよ」
「そう言うなよ。演歌歌手なんか、紅白に出て、紅白歌手という肩書が付けば、一生営業で喰っていけるんだぞ。直木賞をもらった作家が直木賞作家という看板を掲げて仕事をするようなものだよ」
「そんな大げさな」俺は呆れ返る。
「意外とけん玉ができるタレントは多いですよ。今さらけん玉はないですよ」仏田も加勢してくれる。
「だったら、南京玉すだれにするか? あっ、さて、さて、さては南京玉すだれ。あれができるタレントは少ないだろ」
「需要がないから、誰もやってないんですよ」
「そんなこと言わずに、クイズ芸人とけん玉芸人をダブルで目指してくれよ」
「はあ」「分かりましたよ」
仏田はけん玉を手に取って、やり出した。
玉を乗せるだけの基本技を十回くらいやって、一度も成功しない。
だが、笑うわけにはいかない。おそらく俺もそんなもんだ。二人して不器用なのは、今に始まったことではない。先が思いやられる。
俺は雑学の本を一冊手に取った。
この中からクイズ番組の問題が出るとは限らないだろ。
“日本で一番高い山は富士山ですが、二番目に高い山はどこでしょう”
答え、北岳。
ダメだ。聞いたこともない。
“世界で一番高い山はエベレストですが、二番目に高い山はどこでしょう”
答え、K2。
どこかのバンド名か? 日本語に訳すとケツか? 全然知らない。お先真っ暗だ。
「それと、今日も夜中の二時に集合ね」類さんがうれしそうに言った。
「はあ、分かりました」俺たちは悲しそうに答えた。
劇場から外に出た。
出待ちの女性がたくさんいた。出番を終えた芸人が出て来るのを待っているファンだ。その中にひときわ背の高い女性がいた。北白さんだ。
「カミホトケさん、お疲れさまでしたー!」
ひときわデカい声で呼びかけてくれた。
「今日の子供食堂ネタは面白かったです!」
ひときわデカい声で褒めてくれた。
他の出待ちの女性がその声に驚いて、北白さんと俺たちを交互に見つめる。
俺たちの出待ちは彼女だけなので、逆に目立つ。
「また次回も期待してますよー!」
「いつもありがとうございます」「この次もがんばります」
俺たちはたった一人の出待ち女性に頭を下げて、その場を後にした。
振り返ると北白さんはキラキラ輝いていた。ものすごく美人なのだ。
芸能事務所はできたばかりで、所属タレントは売れない芸人の俺たちだけ。その後も入ってくるタレントもなく、このままでは事務所の家賃も水道光熱費も払えない。もちろん、類さんの給料も、俺たちの給料も。
代表者の類さんは、今まで集めてきたアイドルグッズを細々と現金化しながら、毎月の必要経費を捻り出している。しかし、グッズの個数にも限界がある。いつまでもそんなことをやっているわけにはいかない。もちろん、普段から番組関係者などへの売り込みも、しっかりやってくれている。しかし、それにも限界がある。
そこで類さんは俺たちを売るために、なりふりかまわず、いくつもの策に打って出た。
クイズ芸人やけん玉芸人もそうだが、夜中の集合もその一環だ。
夜中に集まると言っても、給料は出ない。あくまでもボランティアだ。類さんへの同情もあるけど、やっぱり俺たちは芸人として、売れたい。そのために二人して、様々な未練を断ち切り、一攫千金を夢見て、田舎から出て来たのだ。
夜中の二時前。
俺たちはしっかり時間を守って、待ち合わせ場所である、誰もいない公園にやって来た。二人ともジャージ姿だ。これも類さんの指定だ。ジャージだと夜中にうろついていても、怪しまれないだろうと言う。警官に職務質問をされても、ジョギング中でしたと言えばいい。これはこれは夜中にご苦労さんですと、警官は最敬礼をして、見送ってくれるはずだと類さんは言う。
だけど今までパトロール中の警官を見かけたことはあっても、職務質問をされたことはない。悪者に見えないのか、職質の必要もないほど小物ということなのか分からない。一応、疑われないように、持物も家の鍵とスマホだけだ。間違っても、ナイフやドライバーは所持していない。
そこへ、同じくジャージ姿の類さんがコンビニの袋をぶら下げながら歩いて来た。
「あれは夜食じゃないのか」目ざとく仏田が食料を見つける。
「確かに食べ物っぽいな」俺も食料だと確信する。
「何か大きな仕事が入ったのかもしれないな」
「それだといいな。ちょうど腹も減ってたし」
類さんは俺たちの目の前にコンビニ袋を差し出した。
「ちょうど今日から激辛フェアをやってたよ」
俺は嫌な予感がした。仏田もそうだろう。
二人とも辛い物が苦手だからだ。
類さんはそんな俺たちの気持ちを瞬間に察した。
「嫌だと思うけど、頼むよ。これで練習してよ。激辛チャーハンと激辛キムチと激辛スープの豪華三点セットだよ。キミたちも一食分浮くでしょ」
何人かのタレントで辛い物を競い合って食べる番組がある。完食したらクリアだ。何が楽しいのか分からないが、辛い物が得意な芸人だとアピールして、その番組からのオファーを受けようという恐ろしい作戦だ。
辛い物が得意ということは味覚が鈍いということだ。俺たちは日頃からロクな物を食べてないが、鈍いということはない。大食いの練習にはお金がかかる。だから辛い物を食べて、胃袋じゃなく、舌を鍛え上げろということだ。いや、舌を鈍くしろということか。
「激辛豪華三点セットは後で渡すとして、今日のルートはここだよ」
類さんはポケットから三枚の地図を取り出した。
俺たち二人と類さんの分だ。毎回、この作戦には類さんも自ら参加している。
「神山君は西の三軒。仏田君は東の三軒。私は南の三軒を担当するからよろしくね」
地図には合計九軒のコンビニが赤丸で示してあった。
この九軒を三人で巡回し、偶然出会ったコンビニ強盗を捕まえて、マスコミに取り上げてもらい、有名になるという恐ろしい作戦だ。
「じゃあ、今は二時だから、四時まで三人でがんばろう。何もなければそのまま直帰ね」
類さんに励まされて、俺たちは担当する方向に分かれて、作戦を決行することにした。
すでに三週間続けているが、偶然のコンビニ強盗には会ってない。コンビニ強盗が発生したと毎日のようにネットニュースでも流れているが、俺たちの街には来てくれない。できれば、来なくていいんだけど、連日睡眠不足で頑張ってる身にもなってほしい。
俺は二人と分かれて、街の西部にある三軒のコンビニに向かった。コンビニがたくさんあるといっても、数は限られている。今から行くコンビニも今まで何度も巡回したことがある。もしかして、夜中に来て、何も買わずに出て行く客として、店員さんに知られているかもしれない。まだまだテレビでの露出が少ないため、俺の顔を知ってる人は少ない。劇場に通うほどのお笑い好きじゃないと、分からないはずだ。
午前二時二十分。軒下の青い電灯を見上げる。虫がバチバチと引っかかっている。
店員さんは年配の男性が一人。客は男性が一人だけ。
客は帽子を目深にかぶり、眼鏡をかけ、マスクをして、ウロウロしている。
こいつは怪しい。いかにも強盗のコーディネートだ。
時間といい、弱そうな店員といい、強盗をやる絶好のチャンスじゃないか。
俺が強盗なら、この機会を逃さないぞ。
ついにコンビニ強盗氏と対面か?
そこへ高校生らしいカップルが入って行った。客が三人になった。これでは強盗がやりにくい。
強盗の邪魔をするなよ。素直に金を盗ませてやれよ。そもそも高校生が夜中にウロウロしてもいいのか? まあ、強盗よりマシだけど。
俺は店に入らず、入り口付近に隠れて、期待とともに状況を見守る。
店内をうろつく怪しい男よ、行け! 脅せ! 盗め! 逃げろ! そして、店を出たところで、俺に捕まれ! 抵抗しないで簡単に捕まれ! 俺をヒーローにしろ!
類さんと仏田に連絡しようかと思ったが、電話中に強盗を決行されては困るのでやめた。警察への連絡もやめた。手柄を取られたくないからだ。
その前に、まだ強盗は起きていない。
あれこれ考えているとき、マスク男が動いた。
右手に刃物のような物を持ち、店員に突き付けている。
マジか。本物のコンビニ強盗だ!
出て来たところを取り押さえてやろうと思っていたが、よく考えたら俺はヒョロヒョロで、ひ弱で、素手だ。外から見ると、犯人はガタイがよさそうだ。しかも凶器を持っている。勝てるわけない。想像で勝っても、現実には勝てないだろう。
どうしよう。今から警察に通報するか。
俺は犯人に見つからないように、玄関付近から建物の陰へそっと避難した。
店内はどうなってるのだろう。何も物音がしない。声も聞こえて来ない。年配の店員さんはどうなったのか。あの高校生カップルは無事なのか。
いきなりドアが開いて、犯人が飛び出して来た。
右手にナイフを持って、左手にお札を鷲掴みにしている。
強盗は成功したようだ。
だが俺の足は動かない。あのナイフで刺されたら痛そうだし、あのガタイで投げ飛ばされても、殴られても痛そうだ。
犯人はコンビニ前の駐車スペースを早足で駆けて行く。
すぐにあのカップルも出て来た。二人とも、手にカラーボールを持っている。あんなものを普段持ち歩いているわけない。店員から受け取ったのだろう。
女性の方が犯人に向けてカラーボールを投げつけた。下手投げで。
なんで下手投げなんだよ!
ボールは大きく放物線を描いて、犯人の足元に落ち、破裂して、黄色い塗料をジーンズに付着させた。塗料は闇夜でもよく光っている。
「すごい! さすが現役のソフトボール部じゃん」男の方が感心する。
そうか。ソフトをやってるから、下手投げなのか。あの子はピッチャーということか。
「でしょ! 直接体に当てるんじゃないくて、地面に叩きつけるように投げればいいよ」
無邪気に飛び跳ねている。
「分かった、やってみる。――えいっ!」
男もボールを投げた。彼は上手投げで。
それも犯人の足元で破裂して、オレンジ色の塗料を下半身にぶちまけた。
「すごーい! さすが現役の文芸部じゃん」
「あさのあつこさんの“バッテリー”を読んでるからね」
犯人は、黄色とオレンジ色でコーティングされたジーンズを見て、呆然と立ち尽くす。
もしかしたら、ビンテージ物の高価なジーンズなのかもしれない。
気を取り直した犯人が急いで走り出した。
高校生カップルが叫ぶ。
「コンビニ強盗です、誰か捕まえてください! 派手な蛍光色のジーンズを履いて走ってる人が犯人です!」
「ナイフを持ってるから気を付けてください!」
すると、コンビニへ行こうと歩いていた男子高校生が男をタックルして、見事に取り押さえた。その子はラグビー部だった。
すぐにサイレンの音が聞こえて来た。
店員が通報したのだろう。
犯人はパトカーで連行されて行った。
現行犯逮捕だから、いい訳もできず、大人しく従ったようだ。結局、何も奪えず、ラグビー部に転がされ、ジーンズをカラフルに変えて、去って行った。
そして今、俺たちは駐車スペースに集まっている。
しょぼい強盗未遂事件のために、八人もの警官が来ていたが、今は俺たちの事情聴取をするための若い警官と、パトカーで待機している年配の警官が残っているだけだ。
「いやあ、助かりました。ケガもなくて、よかったです」
年配の店員がホッと胸をなで下ろす。
この男性はコンビニのオーナーだった。人手不足のため、オーナー自らが夜勤をやっているらしい。
「この方たちが危険を顧みず、犯人に立ち向かってくれました。こういう場合、感謝状なんかが、出るのですか?」
オーナーが若い警官に尋ねる。
「はい、もちろんですよ。後日、署に来ていただいて、感謝状の授与式を執り行いたいと思っています。その際、マスコミも来ていると思いますよ」
「えぇ、すごい」ソフトボール部の女子が驚く。
「新聞に載るかもしれないね」文芸部の男子もうれしそうだ。
「報道を見て、入部する人が増えるかもしれないな」ラグビー部の男子も喜んでいる。
「こちらのお二人と――」警官は高校生カップルに目をやる。「こちらの男性は」ラグビー部に目をやる。「同じ高校ということで、学校にもお礼の連絡をしておきます。おそらく校長先生からも褒められると思いますよ」
「褒められるとしたら、全校生徒が集まっている朝礼の場だね。楽しみだね」ソフトボール部は彼氏に目を向ける。
「それはなんか、恥ずかしいよなあ」照れる文芸部。
「うまくカラーボールを当ててくれましたね」警官が感心する。
「私はソフトボール部なんですけど、こんなときに役に立つとは思いませんでした」
「僕も夢中で投げたのですが、落ちた場所がよかったみたいで、犯人のズボンがオレンジ色に染まってました」
「ラグビー部の君も、犯人がナイフを持っているに、よくタックルしてくれましたね。怖くなかったですか?」
「実は、僕の位置からナイフが見えてなくて、ナイフを持っているという声も聞こえてなくて、無我夢中で押さえ込んだところでナイフが見えて、びっくりしました。最初からナイフが見えていれば、行かなかったかもしれません」
「そんなことないでしょう。君は正義感溢れるタイプに見えますよ。ラグビー部に入る人も増えるんじゃないですか」
同じ高校の三人はうれしそうだ。
夜中に未成年がウロウロしていたことは、別段とがめられることもなく、強盗を捕まえたということで、学校でヒーロー、ヒロインになれるだろう。
「では、各自の連絡先を訊いておきたいので、ここではなんですから、パトカーの中へどうぞ」
警官は三人の高校生を連れて行った。
コンビニのオーナーは、仕事がありますからと店へ戻って行った。
そして、誰もいなくなった。
俺は駐車スペースに一人取り残された。
頭に乗っていた虫の死骸を手で掃った。
カラーボールの破裂した跡が月の光を浴びて、輝いていた。
「で、神山は表彰されないの?」
「されるわけないよ。隠れて見ていただけから。警官には夜中にジョギングをしていた変わった兄ちゃんとしか認識されてなかったよ」
俺と仏田は劇場の楽屋でお茶をすすりながら、出番待ちをしている。
「神山は陰ながら応援してたんだから、何かくれてもいいのにな」
「犯人に見つからないようにと、声も出してないんだよ。応援もへったくれもない。通報だってしてないし。ただ頭上から降って来る虫の死骸と格闘していただけだよ。ああ、せっかくのチャンスだったのに、自分でも情けないよ」
「まあ、そう言うなよ。いつか捕まえて、新聞に載ろうや」
「そうだな。コンビニ強盗はこれからもなくならないからな。今夜もどこかでやってるよな」
「これも覚えなきゃならないからね」
仏田が手にしているのは鉄道の本だ。
“犬でもわかる鉄道の豆知識”
鉄道オタク芸人になるように、類さんから渡されたものだ。
鉄道の特番にゲストとして呼んでもらえるように、勉強しておくよう言われた。確かにNHKなんかで、よくやっている。鉄道に詳しいタレントが三人ほど出ている。その中に入り込めというわけだ。
だけど俺も仏田も鉄道には何の興味もない。駅弁なら、仏田が興味津々だけど、そもそも俺の方は乗り物が苦手だ。バスは当然ながら、新幹線にも酔うし、船は出航して二分で確実に酔う。車の免許は持っているが、自分で運転していても酔うという特異体質だ。
だから、学校の遠足は大嫌いだった。近場に歩いて行くのならいいけど、だいたいはバスに乗るからだ。酔わないように酔い止めの薬を飲み、真ん中あたりに座って、できるだけ寝ていた。
小さい頃から付き合いのある相方は、俺の体質のことを知っている。
「鉄道オタクといっても、電車の種類とかを知っておけばいいんだよ。別に乗る必要はないよ」
なるほどそうかと思って、“犬でもわかる鉄道の豆知識”を見てみるが、そもそも電車はみんな長方形で、同じくらいの大きさで、色が違うだけで、どれも同じに見えてくる。
これを覚えろと言うのか?
覚えられない。俺は犬以下の存在だ。
仏田は“キハ”とか“サハ”とか言っている。何語だ? 宇宙語か?
「あと、マイクを持って車掌さんのモノマネができればいんだよ」
「ああ、それならできる。俺はモノマネをやるから、仏田は“キハ”とかを覚えてくれよ」
俺たちをあの手この手で売り出そうという事務所の姿勢はうれしいのだが、どこかずれている気がする。いや、確実にずれている。
ノックの音が三回した。
類さんが俺たちを呼びに来た。
さて、出陣じゃ。
~測量~
「どーもー、カミホトケです。私が仏田バチで――」
「私が神山ジュージです」
「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」
「先日、道を歩いてたら、おじさんに怒られちゃってね」
「お前は体がデカいからだよ。名前の通り、大仏さんが歩いているようなものだろ。邪魔で前が見えないから怒られたんだろ。圧迫感もあるしな」
「俺はちゃんと端っこの方を歩いてたんだよ。すると三脚を立てて、何かを覗いてる人がいて、その前で仁王立ちしたら、怒られちゃって」
「なんで大仏が仁王立ちするんだよ」
「大仏と仁王は違うのか」
「大仏像を守ってるのが仁王像じゃないのか」
「仁王の方が小さいだろ。小さい仁王に任せないで、大仏はデカいのだから、自分で戦ったらどうなんだ。大仏はウドの大木か。でくのぼうか。ずっと座ってないで、たまには立ちあがれよ」
「現役時代のマイクタイソンにもボディガードは付いてたんだよ。おそらくボディガードよりマイクタイソンの方が強かっただろうよ」
「時代劇で、野郎どもやっちまえと子分に任せて逃げて行く弱っちい親分みたいだな」
「大仏さんの悪口ばっかり言うなよ。夜中寝ているとき、枕元に現れて踏みつけられるぞ」
「あんなデカい足で踏まれたくないな。お守り買って来ようかなあ」
「仏さんに踏まれないように守ってくれるお守りなんかあるのか?」
「多様性の時代だからね。仏様から守ってくれる神様がいるかもしれないでしょ。まあ、大仏さんの話は置いといて、歩道の真ん中にいたおじさんの話だよ。おじさんが腰をかがめて、変な機械を覗いてるから、俺は盗撮じゃないかと思ったんだよ」
「それは測量してるんじゃないのか。よく機械を覗いて、道路の幅とか距離を測ってるだろ」
「それは後から気づいたんだ。誰も歩いていない所を狙ってるから、おかしいと思ったんだけど、そのときはおじさんが盗撮犯だと思い込んでいたから、正義感溢れる俺は阻止してやろうと、同じように腰をかがめて、その機械を反対から覗いてやったんだ」
「そりゃ、邪魔だろ。三脚に乗ってる機械を両方向から覗くって、おかしい光景だろ。おじさん側からすると、お前の顔がドアップになったんだぞ。それでなくてもデカい顔なのに、さらに拡大されたら、恐怖を覚えるだろ」
「おじさん顔は小さく見えてたんだどね」
「逆から覗くとそうなるんだって」
「声は近くから聞こえてるのに、姿が遠くて、おかしいと思ったんだ。なるほど、仕事の邪魔をしたら、怒られるわけだ」
「感心するなよ。測量士と言えば、国家資格だから、おじさんは頭がいい人なんだよ」
「バカそうだったぞ。あれは自分の名前も書けないだろうな。国家資格に受かる顔じゃない。どう見ても、アホ顔だったから、カンニングして受かったんだろ」
「知らないおじさんをアホ呼ばわりするなよ」
「あのとき、アホかどうかを訊いておけばよかったな」
「お前はホントにやりそうだから、怖いわ」
「おじさんに怒られたんだけど、あの測量の機械を覗いてみたくなってな」
「何がおもしろいわけ?」
「何がどう写ってるのかと思ったんだよ。測量だったら目盛りでも出てくるのか。測ったとき、チョウド五メートルデスといった音声でお知らせしてくれるのか。写真は写せるのか。だったら、プリクラみたいに写真は盛れるのか」
「測量した写真を盛ったら、おかしいだろ。後になって寸法が足らないとか、余るとか、正確さに欠けて、問題になるだろ。俺もあんな特殊な機械は覗いたことないから、詳しくは分からないけどな」
「もしかしたら万華鏡みたいに、中がキラキラかもしれないし」
「キラキラじゃ、どうやって測定するんだよ。気になって測れないだろ」
「シューティング機能が付いてるかもしれないし」
「誰をやっつけるんだよ」
「測量の邪魔をしている不届き者を」
「お前じゃないか」
「そんなことを確かめたくて、おじさんに百円払うと言ったんだ」
「なんで百円なんだよ」
「望遠鏡を覗くとき、百円玉を入れるだろ――だけど断られたんだ」
「そりゃ、仕事中だからな」
「違うんだ。千円札を出したら、お釣りの九百円がないって言われたんだ」
「お釣りがあったら、百円で覗かせるつもりだったのか。観光地じゃないんだからね」
「だけど、おじさんはタダで覗かせてくれたんだ。俺の愛情が届いたのかな」
「お前の風貌がおっかないからだろ――で、中はどうなってたんだ?」
「それがな、俺が覗いた瞬間、目の前を女子高生が通りすぎて、盗撮と間違われたんだ」
「測量の機械で盗撮はしないだろ」
「それが新手の盗撮犯と思われて、測量士のおじさんと一緒に警察へ連行されたんだ」
「そりゃ、大ごとだ。最近はすぐネットニュースになるから、気を付けないとな」
「おじさんは測量士の免許証みたいなものを持っていたから、警察に信用されて、すぐに釈放された。だけど取調室から出て行くとき、俺のことを、知らない兄ちゃんだとぬかしやがって、俺様を置いて行ってしまったんだ」
「お前とは関わりたくなかったんだろ。そもそも冤罪だしな」
「これで、カツ丼が一人占めできると思ったんだけど、出してくれないんだ。メニュー表も置いてないしな」
「街の食堂じゃないから」
「仕方なく、俺は測量の補助をやっていたとウソを言ったら、偉そうな警官が、だったら数字に詳しいだろ。一メートルは何センチだと訊かれて、千センチと答えたら、間違ってて、俺は理系じゃないから分からないと言ったら、測量士を漢字で書けと言われて、即漁師と書いたら、お前なんか、イワシの大群に襲われて死んじまえと言われて、測量氏と書き直したら、誰だそいつはと言われて。お前は理系でも文系でもないマヌケーだと言われて。俺を盗撮犯と決めつけてくる警官がおっかなくて、計り知れない怒りを覚えたよ。測量だけにね。いや、まいったね」
「まいったのは、つまらない話を長々と聞かされた、こっちの方だよ。そんなお前はよく釈放されたな」
「盗撮されたと主張していた女子高生はスラックスの制服だったんだ」
「ズボン履いてる子をどうやって盗撮するんだよ。裾からカメラを入れるのか? ファイバースコープ入れても、膝を曲げれば止まるだろ」
「ムチムチの女子高生だったら、太腿でつっかえるだろうな」
「痴漢よりタチが悪いじゃないか」
「測量の機械なら赤外線で透けて見えると思ったらしいんだ」
「一般人には馴染のない機械だから、そんな機能が付いてると思ったのだろうな。だけど、透けて見えたところを測定するのか? スリーサイズを測って、どうするんだよ」
「透けて見える機械だったら、あちこち測量士だらけになるな。俺も一台買っちゃうな」
「女子高生の勘違いだったわけだな」
「そうだよ。俺はニセ測量士だとバレたけど、実害はないからと言われて、娑婆に戻って来たんだよ」
「結局、お前は測量の機械を覗けなかったんだろ」
「おじさんの機械は覗けなかったけど、何事もあきらめない俺は三脚付きの測量機器をネットで買ったんだよ」
「なんで買ったんだよ」
「十回払いのクレジットで」
「だから、何のために?」
「覗くために」
「今度こそ、女子高生のスカートの中をか?」
「違うよ。話を戻すなよ。三脚を担いでオペラを見に行ったんだ」
「まさか測量機器をオペラグラスの代わりに使ったんじゃないだろうな」
「そうだよ。他に使い道はないでしょ」
「周りの人たちから何も言われなかったのか?」
「何かの業者だと思われていたみたいね。オペラ歌手のヒゲの先まで、バッチリ見えたよ」
「お前はオペラ劇場に何を見に行ってるんだ」
「オペラを聞いても分からないから、何かを見るしかないでしょ」
「だったら最初から行くなよ。入場料高いだろ」
「その後はプロ野球を見に行ったんだ」
「何を測定したんだよ?」
「あのバッターはすごかったな。ホームランの飛距離が百三十メートルだったよ」
「そんなものも測れるのか」
「あのピッチャーもすごかったなあ。球速は百六十キロも出てたんだ」
「スピードガンの代わりにもなるのか」
「監督のヒゲの先まで見えたよ」
「ヒゲ、好きだな」
「ロマンチストな俺は星も覗いてみたんだ」
「測量機器で星が見えるのか?」
「月を眺めたら、地球から三十八万キロと表示されたよ」
「天体との距離も測れるのかよ」
「海王星を眺めたら、四十五億キロと表示されたよ」
「そこまで分かるのか?」
「その後は自撮りをして、楽しんだよ」
「自撮りもできるのか」
「三脚に乗ってるから、撮影するとき、ブレなくていいよ。満面の笑みで自撮りしたよ」
「何に使うんだよ」
「お見合い写真だよ。結婚は人生の始まりだからな」
「そのための自撮りか?」
「他にもあるよ」
「何だよ」
「遺影に決まってるだろ。俺の遺影はバエるぞ。弔問客を笑顔にできるんだ。つまり、測量機器は人生の始まりと終わりを網羅できるんだ」
「なんだか、俺も測量機器を欲しくなってきたよ。ちょっと貸してくれない?」
「飽きたから、メルカリに出品したんだ。早く売れてくれないかなあ」
「売れたらどうするんだよ」
「そのお金で赤外線カメラを買うんだ」
「今度こそ、覗くんだろ」
「赤外線カメラにも飽きたら、レントゲンの機械を買うんだ。測量機器から赤外線カメラになって、最終的にレントゲンの機械さ。出世魚みたいだろ」
「なんで魚なんだよ」
「わらしべ長者みたいだろ」
「個人的にレントゲンの機械を持ってる人はいないだろ」
「だから、人に自慢できるでしょ」
「他人の骨とか内臓を見て、楽しいのか?」
「人間は中身が肝心だからね」
「そういう意味じゃないだろ」
「魚だって、ウロコより中身の方がおいしいでしょ」
「確かに、ウロコが好きな人なんて聞いたことないけどね」
「サンマだって、あの苦い肝に栄養がいっぱい入ってるからね」
「魚と一緒に論じるなよ」
「まあ、多様性の時代だからね」
「お前はよく分からん。イエローハットのCMと同じくらい分からん」
「それに、レントゲン車ごと買えば、全国どこへでも行けるだろ。キャンピングカーの代わりにもなって、これが便利なんだな」
「レントゲン車の中で寝泊まりするのかよ」
「河原に止めて、バーベキューも楽しむんだ」
「変な奴がいるって、みんな寄って来るぞ」
「そのときは一人五百円でレントゲン検査をしてあげるんだ」
「おお、良心的な値段だな」
「バエるレントゲン写真を撮ってあげるよ」
「それは楽しそうだな」
「レントゲン写真を盛ってあげるよ」
「サービス抜群だな」
「仏の慈悲だよ」
「ありがたや~」
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
今回のネタもお客さんの評判は悪かった。年配者が多く、覗きはダメだとか、レントゲン車を私物化するなといった辛辣な意見というか、説教が多かった。こっちは漫才をやっているのであって、真面目な講演会を行っているのではない。しかし、お客さんのせいにしてはいけない。客層によってネタを変えなかった俺たちが悪い。
これじゃ、プロとは言えない。これじゃ、いつまでも売れない。
またもや俺は落ち込んでいたが、仏田は喜々として、楽屋弁当を物色している。なぜか弁当が五つも置いてあったからだ。一人二個として、余った一個をお前にやると言ったら、どれがいいか目の色を変えて選んでいるのである。
なぜか五つの弁当は全部違う種類だった。
「お前はいつも楽しそうだな」俺は呆れる。弁当なんか、どれでもいいじゃないか」
「楽しい場所だから楽屋と言うんだよ。一回くらい客ウケが悪かったからって、クヨクヨするなよ。ほら、もっと陽気に元気よく――ホント、お前は笑わなすぎるよな」
「ウケないのは一回だけじゃないだろ。ここのところ、立て続けにウケが悪いじゃないか」
「そんなことより、牛タン弁当とカルビ弁当と、どっちがいい?」
「両方やるよ。お前は体がデカいから、肉が必要だろ」
「餃子弁当とシュウマイ弁当を二人で分けるとして、残ってるのはサラダ弁当だけだぞ。ダイエット中の女子が食べるような弁当でいいのか。ウサギのエサみたいだぞ」
「体には野菜が必要なんだよ」
「食糞するようになるぞ」
「なんだそれは?」
「ウサギとかコアラは自分の糞を食べるんだよ」
「サラダ弁当が原因じゃないだろ」
そこへ、類さんがやって来た。
コンビニ袋を何かの戦利品のように掲げる。
「また、頼むよ。激辛キムチと激辛チャーハンと激辛スープの激辛豪華三点セットだよ。まだ激辛フェアをやってたから、買って来たよ。また一食分浮くでしょ――おっ、なんか今日は弁当の数が多いね。これは発注ミスだろうね。知らん顔して、もらっとけばいいよ」
仏田がちょうどバッグに弁当を入れてるところだった。
「ああ、言わなくてもいいね。弁当が三つと激辛豪華三点セットが食べられるなんて、日本一の幸せ者だねえ」
「類さん、俺たちはいつまで激辛豪華三点セットを食べればいいんですか?」
「そりゃ、コンビニの激辛フェアが終わるまでだね」
「あと一週間くらいやってましたっけ」
「評判がいいから、二週間延長になったんだよ。我々が買ってるからだろうね」
「それで、激辛番組からオファーはまだ来ないですか」
「来たら真っ先に知らせてるよ」
「ですよね。来たら来たで困るんですけどね。いくら食べても、全然激辛に慣れないし、あれは生まれつきじゃないんですか。激辛が好きな人は生まれつき舌がバカなんですよ。俺には無理ですよ」
「神山、そう言うなよ」仏田は弁当と合わせて、三食分が浮いたのでうれしそうだ。「俺も慣れないけど、激辛料理を食べる番組なんて、アルマゲドンのテーマ曲が流れて来たときだけ、がんばればいいんだよ。その後すぐにギブアップすればいいさ」
「そうそう。深刻に考えないでよ」類さんにも励まされる。「神山君にはもっと笑顔が必要だね。その点は仏田君を見習うべきだね」
「でしょう。俺もさっき言ったばっかりなんですよ――さて、これの練習をするかな」
仏田はバッグからけん玉を取り出した。
――コン、コン、コン。
「類さん、見てください。なかなかうまくなったでしょ」
確かに仏田のけん玉は上達していた。基本的な技は、かなりの確率で成功するようになっている。なんだかんだ言いながら、仏田は真面目に練習をしている。
俺もそのくらいはできるようになったのだが。
「類さん、紅白からのオファーは来ないですか」
「まだ来ないね。紅白の出場歌手の発表もまだだからね」
確かに、出場歌手より先に、けん玉をやる芸人を発表するはずがない。
「あっ、そうそう。今度はこれを頼むよ」
類さんはショルダーバッグを開けて、四角い物を取り出した。
「何ですか、これは?」仏田が不思議そうに見る。
「カセットテープだよ。知らないの?」
「もしかして、音楽を録音するヤツですか」
「神山君は知ってるよね」
「はあ、ウワサには聞いたことがありますが、実物を見るのは初めてです」
「そんな時代なの!?」類さんは驚いて、目が大開きになる。「カセットテープは俺の青春の象徴みたいなものだけどなあ。いやあ、知らないとはびっくりしたよ」
「そのカセットテープとやらで、何をしようと言うのですか?」
「ここに色々な曲のイントロが入ってる。それを覚えてもらって、イントロ当てクイズに出場してもらおうという作戦なのだよ」
仏田はカセットテープを手に取って見ている。
「まさかこれ、類さんが録音したオリジナルじゃないですよね」
「いや、私が作った90分テープだよ。あちこちから曲のイントロを録音して、その後すぐに、私の声で曲名と歌手名を入れておいたんだ。回答付きというわけさ」
「90分間ずっと入ってるんですか?」
「いや、まだあるよ」類さんはガラガラとカセットを取り出した。「120分テープもあるんだけど、テープがよく絡むんだ。だから、ほとんどは90分テープなんだけど、全部で十巻あるんだ。つまり、900分だね。これを二人に覚えてもらいたいんだ。曲はすべて昭和か平成のもので、特に今は昭和歌謡ブームが来ているから、昭和の歌は念入りに頼むね」
「これ、どうやって聞けばいいのですか?」仏田がカセットテープを耳に当てる。聞こえるわけない。
「平成生まれはそんなことも知らないの。まあ、ちゃんと用意はしてあるよ」類さんはまたバッグに手を入れた。「これがポータブルオーディオプレーヤーだよ」
ちゃんと二台用意してあった。
「これにテープを入れて、このイヤホンで聴くんだ」
「有線イヤホンなんてダサいですね」仏田がズケズケ言う。「これ、どうやって充電するんですか?」
「電池に決まってるでしょ」
類さんはバッグからたくさんの単三電池を取り出して、机の上にガラガラとぶちまけた。
「これ、類さんの私物ですか?」俺は訊いてみる。
「昭和の懐かしショップに行って、買って来たんだ。ちょうど二台あってよかったよ。使い方は、見れば分かるよね。カセットを入れて、再生ボタンを押すだけだよ」
「オートリバース機能は付いてるんですか?」
「あるわけないでしょ。片面を聞き終えたら、カセットを取り出して、裏向けにして、入れ直すんだよ。もしテープが絡んだときは、鉛筆をこの穴に挿し込んで、クルクル回せばいいからね」
「なんか、面倒ですね」
「そう言わないで、頼むよ。イントロなんて、十回も聞けば、覚えられるでしょ」
「900分×10。9000分ですよ。何日かかるんですか」
仏田は、こんなもので音楽が聴けるのかと言いたげに、あちこちのボタンを押したり、フタを開け閉めしたりしている。
俺は類さんに一番の疑問点をぶつけた。
「イントロを当てるクイズ番組なんて、レギュラーでありませんよね。せいぜい半年に一回くらいの特番ですよね。需要なんかありますか?」
「昔は毎週やってたけど、確かに今は特番だけだね。だけど、その一回に賭けるのさ。人生には一発勝負をするときがあるんだ」
「うーん」俺は黙り込む。仏田も黙ったままだ。ここで人生を持ち出すのか。
類さんの戦略にはなかなか付いて行けない。俺たちを売りたいのは分かるけど、なんか空回りしている。
「そもそも俺たちは普段から音楽は聞いてませんよ。せいぜい商店街を歩いてるときとか、スーパーで買い物をしているときに流れて来る曲を聞き流してるくらいですよ」
「そう言わずに、せっかく作って来たんだから、頼むよ」頭を下げてくる。
事務所の社長に頭を下げられたら、やるしかないか。
俺たちは劇場を出た。
今日もありがたいことに、北白さんが出待ちをしてくれていた。俺たちの唯一の出待ち女性である。といっても、出待ち男性はいない。
「測量のネタは面白かったです!」
またデカい声で褒めてくれた。
他の出待ちの女性たちが驚いて振り向く。いつもの光景だ。声も大きいが、背も高い北白さんはよく目立つ。おしゃれで顔は整っていて、宝塚の男役のような風貌だ。
「いつも応援をありがとうございます」俺もデカい声でお礼を言う。
「カミホトケを応援してくれているあなたに、どうか神のご加護が授かりますように」
仏田が胸で十字を切った。仏なのに。
「アーメン」
その日から、二人は昔ながらのポータブルオーディオプレーヤーを使って、いろいろな曲のイントロを覚えることにした。楽屋にいるときも、トイレの中でも、歩いているときも、電車の中でも、イヤホンを耳に差しっぱなしにして覚えた。
イントロの後に類さんの声で正解が流れる。曲名と歌手名だ。
「いい日旅立ち。山口百恵」口に出す。
耳で覚えて、口に出して覚えるという作戦だからだ。
「わたしの青い鳥。桜田淳子」仏田も俺のマネをして、つぶやいている。
「越冬つばめ。森昌子」
「なあ、神山。桜田淳子って、キレイなのか?」仏田がイヤホンを外して、訊いてくる。
俺もイヤホンを外して、相手をしてやる。
「見たことないから、知らん」
「俺も知らないんだよな。山口百恵はまあまあキレイな人がテレビでモノマネしてたから、キレイだと思うんだ」
「本人を見たことはないんだろ」
「モノマネしてる人より、本人の方がブサイクなんておかいしいだろ。ご本人登場で、みんなズッコケるぞ。だから本人はキレイなはずなんだ――森昌子は見たことあるよな」
「ああ、最近まで現役だったからな」
「男の子女の子。郷ひろみ」またイヤホンを差して、カセットを聴き始める。
「私鉄沿線。野口五郎」「ギャランドゥ。西城秀樹」「春一番。キャンディーズ」「サウスポー。ピンクレディー」
「昔のアイドルは立派だったよな」仏田がまたイヤホンをはずして、話しかけてくる。
仕方なく、俺も付き合ってやる。
「今のアイドルはみんなグループだろ。だから自分の人気があまりなくても、他のメンバーの人気があれば、底上げされて、アイドルとして、そこそこやっていけるんだよ。ところが、昔のアイドルはほとんど一人だから、自分の人気がなければ消えて行くしかないんだよ。だから、芸能界で長く生き残っていること自体がすごいんだよなあ。うんうん」
仏田は一人で感心している。
「確かに昔はグループといっても、せいぜい二人か三人だったからな」
「そうだろ。しかもその二人か三人はみんな人気があったんだよ。今みたいに、あの子は誰? みたいなケースはなかったんだよなあ。昔のアイドルは偉いよなあ。昔に生まれてたら、俺も苦労しただろうな」
「お前はアイドルじゃないし」
電車の中では周りから変な目で見られた。
男二人が昔ながらのイヤホンを耳に差し、左手にポータブルオーディオプレーヤーを持って、右手でけん玉をしながら、昭和歌謡の曲名と歌手名をブツブツつぶやいているのだから、不気味に思われるのも当然だった。
「よこはま・たそがれ。五木ひろし」「おふくろさん。森進一」「北酒場。細川たかし」「北の宿から。都はるみ」「雪圀。吉幾三。やっぱり昭和演歌は押さえておかないとな」
俺たちはこれも仕事だと思って、世間の冷たい視線に負けることなく、がんばった。無報酬だけど、がんばって覚えた。だけど、がんばっても、がんばっても、カセットテープに録音された曲は山のようにあって、なかなか終わらない。900分を10回転と言われたけど、まだ1回転もしていない。
「なんか、先が見えないよなあ」俺は相方に愚痴る。「歌謡曲とかポップスはいいとして、なんでクラッシック曲まであるわけ? しかも知らないクラッシックだよ」
「普段からクラッシックなんか聞いてないから、俺も知らないよ。だけど覚えるしかないでしょ。ジャジャジャジャーン。運命。ベートーベン」
「そんな簡単な問題出るわけないだろ」
「小手調べとして、出るかもしれないだろ」
「あーあ、それにしても類さんはよくこんなテープを作ったよなあ。どんだけ手間暇かけたんだよ。まったく嫌になってくるなあ」
「神山、お前さっきから愚痴ってばっかりだな」
「仕方ないだろ。周りからは変な目で見られるし、聞いたこともないジャズとかオペラのイントロも覚えなきゃいけないし。そもそもジャズのイントロなんか、クイズに出ないだろ。類さんが俺たちのためを思ってやってくれてるのは分かるけど、今度ばかりは、類さんを恨みたくなるよ」
俺はイヤホンを外した。
ああ、耳が痛い。これ以上聴いていると耳が悪くなりそうだ。頭の中でいろんなイントロがガンガン鳴ってる。このイントロが全部つながったら、一曲できてしまう。イントロじゃなくなるじゃないか。
仏田は真剣な顔をして、カセットテープに聞き入っている。音楽を聴いているのだから、もっと穏やかで、楽しそうにすればいいじゃないか。いつも笑顔の君がどうしたんだい。
「神山」仏田がイヤホンを外して、真剣な表情のまま、こちらを向く。
「なんだ、何があった?」笑顔が消えた仏田を見る。
「イントロを集めたCDがあるんだけど、類さんはそれをダビングしたんじゃなくて、自分でこれを作ったんだ」
「そうだよ。そう言ってただろ」
「だから、ときどき生活音が入ってるんだ」
「ああ、あるね。犬の鳴き声とかサイレンの音が遠くに聞こえることがあるね」
「ちょっと、これを聴いてくれ」
仏田は少しだけテープを巻き戻して、俺にイヤホンを寄越した。
「よく耳をすませて聴いてくれ。いいか、押すぞ」再生ボタンを押した。
昭和のポップスが流れて、類さんの声で曲名と歌手名が告げられた。
そのバックには、確かに生活音が聞こえていた。
俺はイヤホンを返した。
「仏田、分かったよ。いろいろ愚痴って悪かった。900分を10回転。合計9000分、ちゃんと聴いて、覚えるよ。もう愚痴らないから」
俺は自分のイヤホンを耳に差して、再生ボタンを押した。民謡が流れて来た。
「さて、お二人さん、イントロのテープは聴いてくれてるかい」
類さんが楽屋に入って来た。
「もちろんですよ。三周目に入りました」
「おお、それはすごい。神山君はどうだい」
「俺も同じく、三周目に入ってますよ」
「そうか。二人で切磋琢磨してるんだねえ。ありがとね。十周目まではまだ先だけど、今のうちからこれを渡しておくよ」
類さんはショルダーバッグから、新たなカセットテープをガラガラと取り出した。
「イントロ当ての次はアウトロ当てクイズだよ」
「何ですか、それは?」仏田が訊いてくれるが、俺も知らない。
「イントロの逆をアウトロと言うんだよ。つまり、曲の最後を聴いて、何の曲かを当てるクイズに備えて、私が作ってきたんだよ。当然オリジナルのテープだよ」
「アウトロ当てなんか、聞いたことないですよ」
「私のオリジナルだからね。イントロ当てクイズのネタに困ったスタッフが、アウトロ当てクイズを思い付くかもしれないでしょ」
「それって、希望的観測ですよね」俺は抗議する。
「まあまあ、神山」仏田が止めに入る。「類さんがせっかく作って来てくれんだから」
そうだったな。類さんはまた家で録音して来てくれたんだな。
「分かりました。イントロテープを聴き終えたら、このアウトロテープを聴くことにします」
類さんが作ったイントロテープには生活音が入り込んでいた。
仏田が微かに聴き取った音。
類さんが録音していた向こうで聞こえていた音。
それは、赤ちゃんの泣き声だった。
類さんには生まれたばかりの子供がいた。おそらく奥さんが赤ちゃんをあやしているとき、俺たちのためにテープを作ってくれていたのだ。そんなテープを粗末に扱うわけにはいかない。
仏田は俺の気持ちを察してくれたようで、こっちを見て、ニコッと笑った。いい奴だ。
いつもは短い髪なのだが、今回のネタに合わせて、髪とヒゲをボウボウに伸ばしてくれている。どう見ても原始人だ。
今回のネタは芸人養成所の講師の前で発表する。
芸人養成所は所属事務所がどこであろうと参加できる場所だ。
講師の名前は井加堂分さんという。たぶん芸名だ。井加なんて苗字は聞いたことないし、堂分なんていう時代劇に出て来そうな名前を、親が付けるとは思えないからだ。
何人か在籍している講師の中でも名物講師と呼ばれている。今まで人気芸人を何人も育てて来たためだ。芸人にとっては、井加さんに認められるのが、第一の目標となっている。認められれば、周りからも評価される。ロクにお笑いを知らない連中からも一目置かれることになり、仕事も増えて行く。その分、井加さんのお笑いに対する姿勢は厳しく、滅多に褒めることはない。普段から不愛想な顔がニヤッと笑えば、こっちのものだ。
さて、井加さんが笑うかどうか、大きな劇場の大きな舞台に、俺たちはたった一組立っている。井加さんの前で初めて漫才を披露する日だ。
観客は井加さん一人だ。手にメモらしきものは持っていない。全部頭の中に入れるつもりだろう。
太い腕を組んで、眼光鋭くこちらを見つめている。
あの目に負けないようにしよう。
さっき相方にそう言ったばかりだ。
類さんは舞台の裾に立って、不安げにこちらを見つめている。こんなときは、ウソでも余裕のある表情をして、笑顔で見つめてほしいものだ。笑顔が苦手な俺に言う資格はないけど、
類さんの緊張がこっちにまで伝わってくるじゃないか。頼むよ、類さん。
さて、出陣じゃ。
~原始人~
「どーもー、カミホトケです。私が仏田バチで――」
「私が神山ジュージです」
「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」
「今日はアマゾンの奥地で発見された原始人にインタビューしたいと思います――原始人さん、こんにちは」
「まいど、おおきに。原始人です!」
「なんで原始人が関西弁なんですか?」
「オカンが大阪出身なもんで。でもオトンは東京出身ですから、標準語も操れますよ」
「原始人さんはみんな、あなたのように長髪でヒゲを生やしているのですか?」
「中にはおしゃれな原始人もいて、髪を短くしている人もいます。最近ではヒゲも剃ってツルツルの若者もいますよ。時代ですかねえ」
「時代と言っても、原始時代ですよね。毛を切るときは石を鋭くした物を使うのですか?」
「そうですね。それしかありませんからね」
「ナイフのような刃物は使いませんか?」
「刃物?」
「はい、金属ですけど」
「金属?」
「ああ、金属はまだ歴史上に出現してませんね。では、家族構成を教えてくれますか?」
「オカン原始人とオトン原始人とオレの3原始人です」
「仕事はしているのですか?」
「オトン原人とオレは狩猟に出かけて、オカン原人は専業主婦です。だけど、主婦は朝から晩までせっせと働いても、お金がもらえないとぼやいてます」
「それは現代と同じです。朝はいつから働くのですか?」
「日の出とともに働いて、日が暮れたら寝ます」
「電気代が節約できますね」
「電気って、何ですか?」
「ああ、電気も歴史上に出現してませんね。夜は寝るに限りますからね」
「夜行性の獣もいますから、ゆっくりは寝てられませんよ」
「原始人ならではの苦労もあるのですね」
「夜間やって来る獣を追い払うために、オレのイビキもデカくなりました」
「お金はどういうものを使うのですか?」
「石ですね。大きい石ほど価値がありますから、せっせと丸く削ってます。昔は貝だったのですが、石になりました。これも文明の進化というやつですね」
「文明の進化に立ち会えるのは、素晴らしいことですよ」
「現代のお金も石ですか?」
「今は金属です」
「はあ、また金属とやらですか」
「ところで、祖父母はいないのですか?」
「ジジ原始人とババ原始人は去年一緒に亡くなりました」
「それはご愁傷さまです。何かの伝染病でしょうか?」
「二人とも恐竜に踏み付けられました」
「それは痛そうですね」
「はい、ティラノサウルスが憎いです。今度遭ったときは、ぶっ殺してやろうと、弓矢や槍をたくさん準備してます。落とし穴も掘りました。落とし穴に落として、上から槍で突っつくのです」
「恐竜を落とすためでしたら、かなり大きな落とし穴になったでしょうね。現代では落とし穴なんて、ドッキリでしか使いませんね」
「ドッキリて何ですか?」
「原始時代にはなかったでしょう。というか、娯楽はあるのですか? 漫才とか、モノマネとか、手品とか、歌とか、ダンスとか」
「何をおっしゃってるのか、さっぱり分かりません」
「でしょうね。恐竜を倒すのなら、銃器類はないのですか?」
「何ですか、それは?」
「まだ鉄は出現してませんね」
「恐竜もジャングルに追い込めば、いろんな罠が仕掛けてありますから、やっつけてやりますよ」
「ジャングルでは、ターザンのように、アーアーアーと叫んで、動物を集めるのですか?」
「そんな大声で叫んでたら、逆にこちらの位置がバレて、獣に襲われますよ」
「現実とは違うものですね。しかし、弓矢を飛ばしたり、槍で突っつかなくても、いずれ恐竜は滅びますよ」
「えっ、本当ですか!? ざまあみろですね」
「氷河期が来て、滅ぶみたいですよ」
「では、我々原始人も滅ぶんじゃないですか」
「いや、まあ、その、せいぜい暖かくしてお過ごしください」
「毛皮をたくさん調達しておきますよ」
「毛皮で氷河期を乗り越えられるかなあ」
「重ね着すれば大丈夫ですよ」
「原始人さんは楽天的ですね」
「これから先、原始人は進化しかありませんからね」
「確かに、退化して猿に戻ることはないでしょう」
「未来は明るいですよ。幸せは自分の心が決めるのですよ」
「相田みつをさんみたいですね」
「相田さん?」
「原始時代には生まれてませんね」
「つまづいたっていいじゃないか、原始人だもの」
「人類のカガミみたいな原始人さんですね」
「オレたちは今、文明を築き上げてる真っ最中ですからね」
「原始人さんは他に親戚とかはいらっしゃいませんか?」
「甥っこ原始人がいます。最近生意気で困りますよ。新しい服をねだられてます」
「今、着ておられるのは毛皮ですね」
「はい、ヒョウです」
「大阪のおばちゃんに人気のヒョウ柄ではなくて、ヒョウそのものの毛皮ですね」
「これをほしいと甥っ子原始人は言ってます。だけど、ヒョウはチーターみたいに足が速いので、捕獲するのに苦労するんですよ」
「ヒョウとチーターとピューマとジャガーとパンサーはどう見分けるんですか?」
「オレにも分からないのですよ。みんな足速いし、のんびり観察してたら、襲われちゃうし、あんなのに頭からガリガリ喰われたら痛いでしょう。ああ、腹が減ったな。マンモスが喰いたいなあ」
「マンモスを食べるのですか?」
「食べるか毛皮を取るかだね。それ以外に、どういう活用があるのですか」
「マンモスなんて、化石でしか見たことがないですから」
「一度、会わせてあげたいですね。奴らも現代人に会えて喜ぶでしょう」
「マンモスの毛を剃ったような動物ならよく見ますよ。ゾウと言って、動物園にいます」
「ゾウとやらは、おいしいのですか?」
「食べたことないです。だけど、見た目はマズそうですね。だから、肉よりも牙が重宝されるのですよ。密猟なんかが盛んに行われてます」
「それはマンモスも同じですね。牙は貴重です。槍の先にも使えますから」
「マンモスはどの部位がおいしいのですか?」
「そりゃ、カルビだね。マンモスのカルビでキュッと一杯。五臓六腑に染み渡るねえ。たまんないねえ。ああ、想像しただけで、ヨダレが出て来ちゃったよ」
「チューハイに合いますかね?」
「チューハイて、何ですか?」
「ああ、まだ出現してませんね」
「寒い日は熱燗ですね」
「どうやって温めるのですか?」
「木を使って、火を起こすのですよ。ほら、こうやって、グリグリと回して」
「チャッカマンはないのですか?」
「何ですか、それは?」
「現代でも木で火を起こしている人はいますよ」
「チャッカマンという物を持ってないのですか?」
「持ってるんですけど、あえて使わずに、拾って来た木で火を起こして、汲んで来た水でお湯を沸かして、山の中や河原で料理を作るのですよ。それをキャンプと呼んでます」
「我々原始人と同じことをして、楽しいのですか?」
「キャンプをしている人は、自分が原始人だという自覚はないでしょうね。だけど、本能がそういう行動を取るのかもしれませんね。人類の原点回帰というやつです。ところで、夏は冷やで一杯ですか?」
「そうですね。冷えたのをキュッとね。でも、夏は食べ物がすぐに傷みますから、困りますね。洞窟には冬の間に貯めた氷が積んであるのですよ」
「氷室ですね」
「おお、ご存じですか!」
「ほとんどの家庭には冷蔵庫がありますけどね」
「レーゾーコですか」
「暑くなるとゴキブリもやって来ますね」
「ゴキブリはこの時代にもいるのですか?」
「いますよ。全人類に嫌われてますよ」
「原始の時代から変わらないもんだねえ。奴はすばしっこくって、なかなか捕獲できないんですよ。手で掴むと、ヌルって滑りますからね」
「ごきぶりホイホイを使えば簡単でしょ」
「何ですか、それは?」
「ああ、まだ出現してませんね。いずれ、アース製薬という会社が世に送り出しますよ」
「アースは地球と言う意味ですね。随分と大きく出ましたね」
「ほう、原始人さんは地球という概念を理解されているのですか。それは優秀な原始人ですね。テレビのクイズ番組に出てほしいですね」
「テレビ? クイズ? 番組? 全部分かりません」
「人類はいずれ月に行くことになりますよ」
「ええっ、あのお月さんにですか!? マンモスの背中に乗っても届かないお月さんにですか。どこかにある高い木の上から、お月さんにピョーンと飛び移るのですか?」
「いや、そういうことではなくて、説明すると長くなるのですよ。月から石をもって帰りますよ」
「月の石ですか。それはいい値が付くんでしょうね。オレにくれませんか?」
「今はどこにあるかも分かりませんので、たぶんNASAの物置にでも保管されてるのでしょうけど」
「オレが作ったマンモスくらい大きい丸い石と交換したいですね。偉い人に会ったら、原始人が月の石を欲しがっていたと言っておいてください」
「原始人さんはのんびり生きているみたいでいいですね」
「そんなことないですよ。天変地異がひどいですから」
「火山噴火なんかが起きているのですか?」
「地震とか洪水とか雷雨とか、恐ろしいことがしょっちゅう起きてます」
「まだこれからちゃんとした地球が出来上がるんですね」
「毎日、生きた心地がしませんよ。この世の終わりが来たと言って、大きな舟に家財道具を一式積み込んでる人もいますよ」
「もしかして、その人の名前はノアさんですか?」
「そうです。なぜノアさんをご存じなんですか?」
「やっぱり、ノアの箱舟か。これから長年に渡って、彼の名は語り継がれるはずです。現代人はいまだに箱舟の残骸を探してますからね」
「自然も怖いですけど、人も怖いですよ。部族同士の対立もよく起きてます。人と人が争うなんて、おかしいですよね」
「いや、それは現代も戦争という形で続いてます」
「原始の時代から、人類は進歩していないということですね」
「情けないけど、そういうことです」
「そろそろ日が暮れそうなので、洞窟に帰ることにします」
「今日の晩御飯は何ですか?」
「マンモスのテールスープです」
「ご馳走ですね」
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
観客席にたった一人座っていた井加さんが拍手をしてくれた。造りの優れたこの劇場では一人の拍手でも劇場内に響く。漫才が終わったら、新人漫才師であろうと差別することなく、ちゃんと拍手はしてくれる。だから、芸を認めてくれたわけではない。ここで安心してはいけない。
井加さんは席を立って、舞台のすぐ下にまで歩いて来ると、俺たちを見上げた。仏田と同じくらい体が大きい。
「カミホトケのお二人さん、お疲れさんでした」
必然的に俺たちは見下ろすことになる。
これはマズい。名物講師を見下ろしてはいけない。
俺はあわてて舞台から下りようと、左に動いた。仏田も同じことを考えたらしく、右に動いた。俺たちは真ん中でぶつかり、アタフタし始めた。袖で見ていた類さんもマズいと思ったらしく、舞台中央に向かって、駆け出した。
「いや、ここでいいよ。私はすぐ次の劇場に行くから」
井加さんが気を使ってくれた。
走っていた類さんは中途半端な位置で立ち止まった。
まるで、だるまさんが転んだのようだ。
何とか誤魔化そうとして、笑顔がひきつる。
「これは、どうも井加さん。ご無沙汰しております。インスペースの入間類でございます」
類さんにしては珍しく、大きな声で挨拶をする。いつもこれくらいエネルギッシュだったらいいのになあ。
「おお、これは類さんじゃないですか。元気にしてますか」井加さんは地声が大きい。
「はい、おかげさまで元気にしております」優等生のように返事をしながら、近づいて来た。
芸能事務所の社長と芸人養成所の講師との間柄だから、以前より面識はある。
「事務所の所属芸人は増えたの?」井加さんが類さんを見上げる。
「いいえ、まだこのカミホトケの一組だけです」俺たちを指差す。
「ということは、事務所の存続と類さんのお子さんのミルク代は二人の両肩にかかってるというわけだ」類さんの家庭の事情にも詳しい。
「そういうことです」
「じゃあ、今の漫才だけど」
いきなり話が変わり、俺たちは直立不動になる。
「全体的に説教臭いな。漫才を通じて文明批判をしているようだが、君たちは若手なんだから、もっと派手に弾けないと。もっと呆れるくらいバカバカしいものにしないとダメだよ」
「はい!」「はい!」俺たちは同時に返事をする。
「はい!」なぜか類さんも隣に並んで、直立不動で返事をしている。
三人組のコント師みたいだ。
「仏田君は原始人ネタのために髪とヒゲを伸ばしたの?」
「はい、そうです」
「この後は剃ってしまうわけ?」
「はい、このままだとむさ苦しいですから」
「仏田君のやる気と気合は認めるよ。後光が差すほど神々しいよ。仏に神々しいはおかしいか。ハハハ。だけどね、新人にしては面白かったし、評価としてはまあまあかな」
まあまあということは、喜んでいいのか、落ち込むべきなのか、他の二人もどう解釈したらいいのか分からないようで、三人して黙ったまま、横一列に並んでいる。
「Sコンには推薦しておくよ」
「えっ!」「えっ!」「えっ!」
通称Sコン。新人漫才師のコンクールのことである。若手の登竜門であり、優勝すると、大いに注目される。その次の段階のコンクールはWコンと呼ばれる、若手漫才師コンクールで、最後は最高漫才コンクール、サイコンである。サイコンで優勝するとお笑い芸人として、将来が保証されたようなものである。あっという間に収入が増え、風呂なしアパートからタワマンに引っ越し、自転車から高級外車に乗り換え、朝飯抜きから有閑マダム御用達の高級食パンに代わる。
もちろん、井加さんが推薦してくれたからといって、優勝できるわけではない。出場できるというだけの話である。それでもありがたいことなのだが、審査員はベテラン芸人の五人に加えて、素人男女の五十人である。井加さんの力は及ばない。ベテラン講師のコネは通用しないため、実力で勝ち上がるしかない。
俺たち三人は横一列の体勢を崩すことなく、劇場を出て行く井加講師を最敬礼で見送った。
「まあ、よかったじゃないか」類さんは楽屋に戻った俺たちを気遣ってくれる。「けなされたわけじゃないし、なんといってもSコンの推薦をもらえたし、これは大きいよ」
「ですよね」俺も内心はホッとした。「でも、まあまあという評価は困りますよね。いいのか悪いのか中途半端で分からないし」
「いい方に取っておけばいいよ」仏田は相変わらず楽天的だ。「拍手もしてくれたし」
「あれは誰にもくれるんだよ」
「神山、もっと笑顔になろうよ」
「ああ、そうだな」
「仏田君は髪を切るのか」類さんが訊く。
「今日は月曜日で理髪店は休みですから、明日の午前中に行って来ます」
「じゃあ、今日のスケジュールは入ってないから、二人とも時間はあるよね。これを勉強しておいてほしいんだよ」
類さんはショルダーバッグを探る。
俺たちは嫌な予感がした。
クイズ芸人を目指して雑学を勉強中だし、けん玉芸人を目指してけん玉も練習中だし、鉄道オタク芸人を目指して鉄道関係の本を読んでいるし、イントロ当てとアウトロ当てのためのオリジナルテープも聴いている。脳みそのキャパは越えている。これ以上何をやらせるというのか。
「はい、これ」類さんはテーブルの上にいくつかの本を並べた。
「今度はこれを覚えるのですか」仏田が本を手に取った。「トカゲでも分かる恐竜図鑑。恐竜博士への道。試験に出ない恐竜知識。君は恐竜を見たか」タイトルを読んでいく。
俺は並べられた本を見て呆れる。
「類さん、確かに恐竜は流行ってましたが、ブームは終わったんだじゃないですか。スイーツで言うと、ナタデココですよ」
「ブームは終わったかもしれないけど、この世から恐竜はいなくなってないでしょ。いつかどこかのテレビ局で恐竜特集をやったとき、呼んでもらえるかもしれないでしょ。だから今のうちから勉強しておくのだよ。備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖ということだよ」
「うーん」仏田は図鑑を手に取っている。「ビスタヒエヴェルソン、マッソスポンディルス、エウオプロケファルス」
「何の呪文だ?」
「全部、恐竜の名前だよ」
「恐竜って、何種類いるわけ?」
「約1000種類で、毎年新しい恐竜見つかっているため、増え続けてるって」
「覚えられるわけないよ。類さん、ティラノサウルスだけじゃダメですか」
「ダメ。他の恐竜も覚えてね」
「トカゲでも分かる恐竜図鑑か」さすがに、仏田の声も小さくなってくる。「なになに、サウルスはトカゲという意味。ふーん、だったらトカゲは恐竜に詳しいわな」
俺は“君は恐竜を見たか”を手に取って、途方に暮れる。
見られるわけないよ、原始人じゃあるまいし。
「その後はこれね」
類さんが新しい地図を取り出して、広げる。
ドラッグストアと病院とスーパーに赤い丸が付いている。
俺たちがターゲットとする場所だ。ここだと年配者の来店が多い。コンビニは若者が中心で、まだまだ年配者は少ない。俺のばあちゃんが一人でコンビニに入って行ったら、店員さんに、この人は何をしに来たんだろうという顔をされたらしい。
だから、病院やスーパーを狙う。
いつものように類さんも加えた俺たち三人は今からこの三か所に向かう。
そこで、年配者が車を運転して来るのを待つ。そして、ブレーキとペダルを踏み間違えて、建物に突っ込んで来たところを目撃し、テレビ局にインタビューしてもらい、大いに目立とうという恐ろしい作戦であり、その際には名前と職業も報道してもらい、一躍有名になろうという魂胆だ。類さんが事故に遭遇したときは、自分が芸能事務所の代表であり、所属芸人は今話題沸騰中のカミホトケだとテレビカメラの前でアピールしてもらう予定だ。
もちろん、こんな救いようのない作戦は類さんが考えた。俺たちはそこまでセコくない。だけど社長のアイデアだから従うしかない。
「あっ、そうだ。一つ朗報があるんだ」類さんが嬉しそうに言う。「私が集めていたアイドルグッズなんだけどね」
類さんはグッズを売却することで、芸能事務所の家賃や俺たちを売り出す経費を捻出している。
あるアイドルがいきなり引退宣言をした。そのアイドルのグッズが高騰しているらしい。
「いやあ、とんでもない値段になっちゃって、驚き桃の木だよ。何とか最高値で売り抜けて、君たちの宣伝費に使えたらと思っているんだ」
そもそも自分が集めた物なんだから、売ったお金は自分と家族のために使えばいいと思うのだが、俺たちのために使ってくれるらしい。未来への先行投資だと言っている。ありがたいことだが、俺たちもちゃんとその思いに答えられるようにがんばって行こうと思う。
仏田は中堅スーパーを担当することになった。
昔からある地元のスーパーで遠方から来るお年寄りの客も多い。大きな駐車場も完備されていて、過去に何度か事故が起きたことがある。二度あることは三度ある。
仏田は徒歩でそのスーパーに向かい、駐車場の入口付近で年配者のドライバーを待っている。あまりウロウロしていると、車上荒らしと間違われるので、ときどき店内に入って、買い物をしているフリをする。何といっても髪とヒゲを伸ばした原始人顔なので、不審がられてもしょうがない。おまけに体がデカいため、立っているだけでも目立つ。
駐車場と店内を何度か行き来していると、運転のおぼつかないハイブリット車が入って来た。運転席を見ると白髪のおじいさんだ。助手席には誰もいない。
よしっ、来たぞ!
仏田はスマホを片手にその車に近づいた。
事故ったときは、その一部始終を目撃して、インタビューに答える。そして、事故の瞬間を動画に撮って、テレビ局に売り込んで、一儲けしてやる。いくらになるか知らないけど。
もちろん、おじいさんや買い物客にケガがないことが条件だ。死亡事故の目撃者になって、得意満面でインタビューを受けるわけにはいかない。
おじいさんはスーパーの建物に一番近い駐車スペースへ停めようと、何度もハンドルを切り返しているが、うまくいかない。だけど、白線内にキチッと止めようとしているのだから、律儀なおじいさんだ。
そのうち最初からやり直そうと思ったのか、いったんそこから離れて、再チャレンジすることにしたようだ。バックで車を数メートル下げている。そして、スペースに狙いを定めるように、またハンドルを何度も切り始めた。
しかし、いきなり車が猛スピードで動き出した。
やりやがった!
アクセルとブレーキの踏み間違いだ!
毎日のようにニュースで見ているが、実際に目の前で見るのは初めてだ。
仏田はスマホを構えて、さらに近づいて行く。
このまま直進すると、スーパーのガラスに突っ込む。幸いにも、ガラスの向こうには誰もいない。物が壊れるだけで、人的被害はない。またとないチャンスだ。
インタビューで何を話そうかなあ。もっといい服を着て来ればよかったなあ。
おじいさんの車がガラスに向かって、ばく進して行く。
そのとき、五歳くらいの女の子がスキップをしながら、駆けて来た。ちょうど車の進行方向だ。後ろの方にお母さんがいる。たぶん手を振りほどいて、駆け出したのだろう。
「ウソだろ!」仏田は叫んだ。「こらっ、田舎の子供! スーパーに来たくらいで、テンションを上げて走り出すなよ」
仏田はスマホを手にしたまま駆け出した。ポケットに突っ込んでるヒマはない。
女の子が迫りくる車に気づいて、立ち止まった。
車とガラスの中間地点だ。
「止まるな! そのまま走れ! スキップを続けろ!」
仏田は走りながら叫ぶが、女の子は足がすくんだようで動けない。
「走れーっ! 動けーっ!」仏田は叫ぶ。
もちろん女の子に叫んでいる。走ってる自分に叫んでどうする。
「クソッ、こんなデブに走らすなよ!」
車は減速することなく、突っ込んで来る。
「おい、じじい! お前は止まれ! 何やってんだよ! ああ、ヤバい、ぶつかる」
軽い物損事故を期待したのに、重い人身事故を起こしてどうする。どんな顔をしてインタビューに答えればいいんだよ。そこまでして、顔と名前を売りたくないぞ。
それでも仏田はデカい体で走る。わめきながら走る。
「お嬢ちゃん、立ち止まるなー! 逃げろー!」
その大きな声に女の子が反応した。仏田の方を振り向いたのだ。
二人の視線が合った。
そのとき、仏田がひらめいた。
走りながら両手を大きく上げ、長い髪を振り乱し、馬鹿デカい声で叫んだのだ。
「ウォーーーーーーーーーッ!」
迫って来る原始人のような男に女の子は驚いた。
車の恐怖で動かなかった足が、仏田の恐ろしい姿を見て、たちまち動いた。
「ママー、助けてー、変な人が来るよー」お母さんの元へ全速力で走り出した。
その瞬間、車はガラスを突き破り、店内に突っ込んだ。
女の子はお母さんに抱きついて、泣き出した。
車と仏田のどちらが怖くて泣き出したのかは分からなかった。
仏田に行きつけの理髪店はない。適当に見つけた店へ入る。どこで切ってもらっても、料金はそんなに変わらないし、そもそも髪型にこだわってるわけではないからだ。
カッコイイ髪型にしてもらっても、この顔と体型だからなあ。
釣り合いが取れないんだよなあ。ギャップがあり過ぎるんだよなあ。
火曜日になったから、髪を短く切ってもらおうと、理髪店を探しながら、街をブラブラ歩いている。
そもそもなんで理髪店さんには、若くてかわいい女性が働いてないのだろう。かわいいおねえさんが髪を切ってくれるのだったら、その店を行きつけにするけどなあ。やっぱり美容室に行ってしまうのか。そっちの方が華やかだもんなあ。
だけど、お父さんが理髪店をやっていて、後継者がいなくて……。
「じゃあ、私が後を継ぐよ」「いいのか、明日花。美容室で働かなくても」「じいちゃんの時代からやってるこの店をなくしたくないからね」「父さんに気を使わなくてもいいぞ」「お父さんのためじゃなくて、私がやりたいからやるの」「おお、そうか。そこまで言ってくれるんだったら、明日花に任せるよ」「じゃあ、まずは店内改装をしたいな。もっとオシャレに変えて、美容室からお客さんを奪い取るんだ」「すごい意気込みだな。父さんも全力で応援するぞ」「店の名前を理容アスカに変えてもいい?」「もちろんだよ。お前の好きなようにしなさい」「制服をミニスカートにしてもいい?」「ああ、かまわんよ」「よーし、明日からがんばるぞー!」
そんな妄想を描きながら歩いているうち、一軒の古い理髪店を見つけた。
そして俺は今、中年のハゲたオヤジに髪を切ってもらっている。
現実はこんなもんだ。
この理髪店には珍しくテレビが設置されていた。
鏡越しにテレビを見る。もちろん逆さまに映っている。
ちょうどニュースをやっていた。
“昨日もお伝えいたしましたが、高齢者が運転する車が運転操作を誤り、スーパーのガラスを突き破った事件の続報です。たまたまケガ人もなく、大きな事故には至りませんでした”
おっ、昨日俺が目の当たりにした事故だ。
やっぱり物損だけで済んだか。それはよかった。あの女の子も無事だったようだな。ガラスの弁償はあのじいさんが払うのか、保険会社が払うのか知らないけど、そろそろ運転は控えた方がいいんじゃないか。
“実は事故が起きたとき、一人の女の子が車に轢かれそうになったそうです”
あっ、あの子のことを言ってる。
“お母さんと買い物に来ていた小学三年生の女の子です”
なるほど、三年生だったのか。
“女の子は、そのとき居合わせた男性に命を救ってもらったと言ってます”
おお、俺じゃん!
「俺のことだよ!」
「お客さん、ヒゲを剃ってるので動かないでください」
「はい、すいません。だけど今ニュースでやってるのは俺のことなんですよ」
あの子は俺の姿を見て、逃げて行った。ネタのために髪とヒゲを伸ばしていた俺の原始人顔は、猛スピードで迫って来る車より怖かったのだろう。俺もあの子を逃がそうと、必死で雄叫びを上げていた。すごい形相になっていただろう。怖がるのも無理はない。
しかし、なんでここに来て、俺に助けてもらったと言ってるんだ?
後で冷静になって考えてみたら、俺がヒーローだったと気づいたのか。
あるいはお母さんに教えてもらったのか。
“警察でもその男性を探しています。ぜひ感謝状を送りたいとのことです”
「おーい、俺はここにいるぞー!」
「お客さん、じっとしてください!」
「はい、すいません」
“女の子の証言によりますと、その男性は大柄で、髪が長く、ヒゲを生やしていたそうです。お心当たりの方はぜひ名乗り出てください”
仏田は鏡を見た。
長かった髪は短く切られ、ヒゲもきれいに剃られ、原始人から令和人に戻っていた。
「今さら名乗り出てもなあ」仏田はさっきから、楽屋でボヤいている。「風貌が変わっちゃってるしなあ。あの子が俺を見て、私を助けてくれたのはこの人です、なんて言ってくれないよなあ」
「惜しかったよな」俺は慰めるしかない。「俺もコンビニ強盗のときに失敗してるから、お前の気持ちは分かるよ。お互い、取り逃がした魚は大きいよな」
仏田はもう少しでヒーローになれるところだった。
古びた古い理髪店さえ見つからなければ。散髪を今日に伸ばしていれば。あの子の年齢がもう少し上で、人相を見分けることができたなら。
「あと一歩のところで、幸運がスルッと逃げて行ったんだよなあ。俺の人生はいつもこんな感じなんだよな」
仏田のボヤキは止まらない。
「そのうち、いいこと起きるよ。今日の楽屋弁当もおいしそうだし」
「そうだな。まあ、いいか」仏田の切り替えは早い。「他にも作戦はあるからな」
楽屋がノックされ、こちらが返事をする間もなく、同期の漫才コンビ“父っちゃん坊や”がドカドカと入って来た。入って来たというより、呼んでもいないから、勝手な乱入である。
お互い気兼ねしない仲だから、いいけど。
「おいおい、神山に仏田、テレビ見たでぇ」父っちゃんこと父田が俺たちの前にドカッと座り込む。トレードマークの真っ赤なズボンを履いている。
「バッチリ映っとったがな」坊やこと坊屋もその隣に座る。相方は真っ白のズボンだ。
“父っちゃん坊や”は赤と白のズボンを、漫才をやるときの制服としている。同期で同年代だけど、二人とも年上に見える。苦労しているのではなく、生まれつき老けてるのだ。人気の度合いは同じくらいだ。つまり、カミホトケも父っちゃん坊やもたいして売れていない。相変わらずレギュラーはゼロであり、いつか売れることを夢見て、地方営業に精を出している。だから、よく地方で会う。ときどき一緒に地方ロケもやる。
「名前を覚えてもらおうと、必死のパッチやなあ」
「なりふり構わんとはこのことやな」
父っちゃん坊やがコンビで茶化してくる。
だけど、いろいろな作戦を同時に決行しているため、テレビを見たと言われても、どの番組か分からない。
「どれだっけ?」俺は正直に訊いてみる。
「いやいや、トボケなさんな」
「一日に二回も見たでぇ」
二人は勝手にお茶を入れて、ズルズルと飲み始める。
「マジで、たくさんあり過ぎて分からん」仏田も正直に答える。
「まず、今朝の情報番組に出てたやろ」父田が笑う。
「ああ、あれを見てたのか」
もちろん、朝の情報番組にゲストとして招かれたわけではない。そこまで売れてない。
毎朝、ガラス張りのスタジオで番組をやっていて、外が丸見えなのである。そこに類さんは目を付けた。タダでテレビに映るからである。
俺たちは類さんお手製のド派手にデコレーションしたうちわを受け取ると、スタジオ内に向かって、うちわを振り続けたのである。うちわには俺たちのコンビ名とそれぞれの名前が書かれていて、父っちゃん坊やが言うには、かなり目立っていたらしい。
「それと、大相撲や」坊屋も笑いながら教えてくれる。
そうか、あれも見たのか。
相撲を見に行くと、NHKに出られる。もちろん観客として、テレビに映るのだけど。類さんはそこにも目を付けた。しかし、道端からうちわを振っていたときと違い、相撲の観戦にはお金がかかる。前の方に座れば目立つのだが、タマリ席、別名砂かぶりと呼ばれる土俵にもっとも近い席は一人二万円である。俺たちにそんなお金はない。事務所にもない。
しかたなく、最も安いイスD席にした。それでも三千五百円かかった。
しかし、ただ座っていても、テレビには映らない。そこで類さんは白くて大きなバスタオルを用意して、そこに力士の名前と俺たちの名前を大きく書いたのである。小さな手拭いでは目立たない。バスタオルである。誰も場内でバスタオルなんて掲げていない。そして、そこに書いたのは、幕内でもあまり人気のない力士の名前である。人気のある力士の名前を書いても、同じ名前を書いている人がたくさんいて、目立たない。しかし、人気がなければ応援している人も少ない。地元の人くらいだ。そこに類さんは目を付けた。さすが我らが類さんだ。目の付け所がシャープだ。
デカいバスタオルに人気のない力士の四股名を書いて、大きく掲げた。
珍しい光景に、カメラマンも思わず驚いて、映してくれたようだ。
もちろん、バスタオルの両端からそれぞれの顔を出して、アピールしておいた。名前と顔の両方を売ったわけである。
「今度はどこで何をやんの?」父田が訊いてくる。
一緒にやろうという魂胆に違いないから、どうだろうなあと言って、誤魔化す。
「教えてくれてもエエやんか」坊屋もしつこいが、父っちゃん坊やは俺たちと違って、関西の大手芸能事務所に所属しているのである。こんなセコい作戦をチマチマやらなくても、仕事は入って来るのである。それでも売れないのだから、運が悪いのか、人間性が悪いのか、単純に客ウケが悪いのか。まあ、面白くないのだろうな。
「実はまだ決まってまへんねん」仏田が関西弁で教える。
「そうか。次の演目は何や?」父田に訊かれる。
「監禁や」俺も関西弁で答える。
「がんばってきてや」
「おおきに」仏田も関西弁で続く。
父っちゃん坊やはしゃべるだけしゃべって、嵐のように去って行った。
モロに関西人だった。
ノックの音が三回した。
類さんが俺たちを呼びに来た。
さて、出陣じゃ。
~監禁~
「どーもー、カミホトケです。私が仏田バチで――」
「私が神山ジュージです」
「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」
「睡眠薬入りのジュースを飲まされて、気がついたら、後ろ手にロープで縛られて、監禁されてたとは、ついてないよなあ」
「ここは工場跡のようだな」
「監禁するには定番の場所だな」
「電気はついてないし、空気は悪いし、何の娯楽もないよな」
「スマホがあれば、ゲームも動画も楽しめるのになあ」
「スマホがあれば通報しろよ」
「ああ、腕にロープが喰い込んで痛い。お前、爪の間に小さなヤスリを仕込んでないのか」
「凄腕のスパイじゃないよ」
「手首の関節を外して、縄抜けができないのか?」
「腕利きのマジシャンじゃないよ。俺たちは売れないお笑い芸人だぞ」
「なんで売れないお笑い芸人が監禁されるんだよ。おかしいだろ」
「お前、もしかして資産家の息子か?」
「近所でも有名な貧乏一家だよ。住んでる家はボロボロすぎて、古民家と呼ばれてるんだ」
「逆にオシャレじゃないか。古民家カフェでも開いたらどうだ」
「だからボロボロなだけで、たいした歴史もないんだよ」
「織田信長が住んでたことにしろよ」
「信長が六畳一間で便所なし、風呂なしの家に住むかよ」
「じゃあ、織田信成にしろよ」
「信成はスケートで儲けてるだろ」
「織田裕二はどうだ? 湾岸署の刑事なんて給料は安いだろ」
「いくら安月給の刑事でも、屋根が半分吹き飛んだ家には住まないだろ。お前こそ、親から莫大な遺産でも相続したのか?」
「親はまだ生きてるわ。しかも貧乏だし」
「お前の家も貧乏なのか?」
「俺たちは兄弟だろ。親は同じなんだよ」
「そうだったな。トタン屋根が台風で飛んで行った家に住んでるもんな」
「あのトタン屋根はどこへ行ったんだろうな」
「名前を書いとけばよかったなあ」
「落とし物として、警察に届いてるかもしれないしなあ」
「早く売れて、新しいトタン屋根を買いたいよな」
「近所の手前もあるから、ブランド物のトタン屋根にしようや」
「シャネルはトタン屋根を作ってるのか?」
「シャネルがダメなら、ルイヴィトンがあるじゃないか」
「ヴィトンのトタン屋根か。女子の憧れだよな」
「その前に早くここから脱出しないとな」
「仲間が改造車に乗って助けに来てくれないかな」
「エクスペンダブルズの冒頭シーンじゃないんだから、映画と現実は違うんだよ」
「お前はマグマ大使を呼ぶ笛を持ってないのか?」
「お前こそ、鉄人28号が来てくれるリモコンを持ってないのか?」
「お前は古いな」
「お前こそ古いだろ」
「俺たちは1時間違いで生まれて来た双子じゃないか」
「そうだった。子供の頃は同じテレビ番組を見てたんだ」
「オカンから聞いたんだけど、エコー検査で見ると、俺たちは最初四つ子だったそうだよ。だけど、生まれたのは俺たち二人だけだったんだって」
「あとの二人はどこ行ったんだよ」
「合体したんじゃないか」
「合体? そうだ、俺たちは合体ヒーローだったじゃないか!」
「おお、忘れていた。お前の右手と俺の左手を合わせると変身できるんだったな。背中合わせになると届くだろ。ちょっくら、やってみるか」
「合体変身!」「合体変身!」
「双子マン、参上!」
「イテテ。ああ、頭が痛い。合体変身したら巨大化するの忘れてた。おーい、弟。大丈夫か」
「おお、兄貴か。俺は大丈夫だ。いったいどうなったんだ?」
「合体して、デカくなって、頭が天井を突き破って、顔だけがビルの屋上から出ている状態だ」
「体が動かないぞ」
「ロープも一緒にデカくなったから、縛られたままなんだ」
「市民のみなさんがスマホを向けてるぞ」
「屋上にデカい顔が出現したから、何かのモニュメントだと思って写真を撮ってるんだよ」
「恥ずかしいじゃないか」
「合体して一つの体になったのだから、お前が恥ずかしいということは、俺も恥ずかしいんだよ」
「脅してやるか――こらっ! 見せ物じゃないぞ」
「モニュメントが動いたと言って、大喜びしてるぞ。完全に見せ物じゃないか」
「このままじゃあ、ビルの屋上にさらされたデカい生首みたいじゃないか。兄貴、どうすればいいんだ?」
「ロープが解ければいいんだけど――ああ、そうだ。双子マンは額から光線が出るじゃないか。光線でロープを切ればいいんだ」
「さすが、兄貴。さっそくやってみよう」
「双子ビーム!」
「熱っ!」「熱っ!」
「どうしたんだ?」
「光線が股間に当たってしまった。メチャメチャ熱い」
「俺の股間も熱いよ」
「股間を共有してるからな」
「双子とはいえ、股間は共有したくないよな」
「別々に使いたいよな」
「そうだ、双子マンは目から冷凍光線が出るじゃないか。それで冷やそう」
「双子フリーズ!」
「うぅ、冷たい。メチャクチャ冷たい。冷たいのを通り越して、股間が痛い」
「俺も冷たくて、痛い」
「ああ、冷えてきた。便所に行きたい」
「俺も行きたい」
「こういう場合でも,連れションと言うのか?」
「体が一つだから言わないんじゃないか」
「もう一回、光線で熱くするか」
「双子ビーム!」
「おお、ちょうどいい塩梅だな」
「ぬるま湯に浸かってるような快適さだ」
「温まったら、股間が痒くなってきたな」
「これはしもやけだ」
「しもやけにしては、ものすごくかゆいな」
「しもやけと持病のインキンが合体したんだ」
「俺たちが合体したからといって、病気も合体しないでほしいな」
「しもやけとインキンのダブルで痒くなる」
「ムヒとオロナインをダブルで塗るしかない」
「効き目も二倍になるのか」
「分からん。俺たちは薬剤師じゃない」
「そういえば、俺はここ三日ほど下痢気味なんだ」
「俺は三日ほど便秘気味だぞ」
「合体したから、どうなるんだろう」
「正露丸と下剤を同時に飲んだようなものだな」
「出るのか出ないのか、それが問題だな」
「合体は人を哲学者に変えるな」
「悩める正義のヒーローだな」
「仮面ライダーもここまで悩んでないだろ」
「あいつは体を鍛えているから、お通じはよさそうだからな」
「いつも人里離れた荒野みたいな場所で怪人と戦ってるから、野グソだろうな」
「おいおい、善良な市民がさらに集まって来てるぞ」
「ビルの屋上の生首をSNSで拡散しやがったな」
「こらっ、あっちへ行け! 拝観料を取るぞ。五百円だぞ。分割は利かないぞ」
「臭い息を吹きかけるぞ。唾も吐くぞ。アルパカみたいにクサいぞ」
「音痴な声で歌を歌うぞ。お前たちの知らない昭和歌謡だぞ」
「知らない歌を延々聞かされると、ストレスが溜まるぞ」
「ダメだ。さらに盛り上がった。生首はよくしゃべると言って、大喜びしている」
「まるで俺たちは関西人じゃないか」
「ああ、フラッシュが眩しい」
「そうだ。俺たちヒーローは小さくなれるじゃないか」
「おお、忘れていた。やってみるか」
「双子ミニミニ!」
「ダメだ。小さくなったけど、ロープも小さくなって、縛られたままだ」
「屋上から首が抜けただけでもいいじゃないか」
「天井にデカい穴が開いちゃったな」
「そうだ。さっきは巨大化した体だったから、首で引っかかったけど、この小さい体だったら、天井の穴を通り抜けられるじゃないか」
「じゃあ、やってみよう」
「双子ジャンプ!」
「ダメだ。ジャンプ力も小さくなっていた」
「しかも着地に失敗して、転がっちゃったし」
「あーあ、眠くなってきたなあ。おやすみ」
「おやすみ」
「――という夢を見たわけだ」
「俺も同じ夢を見てたわ。さすが双子だな」
「問題は、夢から現実に戻ったけど、縛られたままということだな」
「ヒーローから人間に戻ったけど、状況は同じということだな」
「あっ、スピーカーから声が聞こえる。俺たちを監禁した犯人だな」
「なになに、目が覚めましたかだと? ああ、この通り二人仲良く目覚めたぞ」
「なになに、二人は仲がいいなって? そりゃ、双子だからな」
「なになに、お前も相方と仲がいいって? 今、お前は相方と言ったな」
「さては同業者だな。お前たちも漫才師だろ」
「なになに、俺たちは最近調子に乗ってる? 乗ってるわけないだろ。レギュラーはゼロだし」
「お笑いで喰えないから、バイトしているし」
「俺はしもやけで」
「俺はインキンだし」
「俺は下痢気味で」
「俺は便秘気味だし」
「俺は売れてないし」
「俺も売れてないし」
「分かったか、犯人と」
「その相方」
「楽屋に置いてあったジュースに睡眠薬を入れたのもお前たちだろ」
「なになに、そんなことしてまへん? 今、関西弁が出たぞ」
「なになに、人違いちゃいますか? 相方も関西弁じゃないか」
「さては、お前らは父っちゃん坊やの二人だな」
「同期がちょっとテレビに出るようになって、嫉妬したのだろう。それが動機だ」
「同期だけにね」
「どうだ。図星を指されて、心臓がバクバクしてるだろ」
「動悸だけにね」
「おっ、ドアが開いたぞ。父っちゃん坊やの二人が入って来た」
「なになに、この通り、勘弁してくださいだと」
「お前たちは芸人のクズだ」
「芸能界から出て行け、犯罪者」
「おやおや、二人で土下座をはじめたか」
「まあ、そこまでやるのなら、許してやろうか」
「これからは真面目に働くんだぞ」
「二度と悪いことはするんじゃないぞ」
「分かったな、真っ赤なズボンを履いた父っちゃん坊やの父田と」
「真っ白なズボンを履いた父っちゃん坊やの坊屋」
「今から劇場の仕事があるから制服姿だって?」
「せいぜいがんばれよ」
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
「以上、カミホトケでした。続いて、僕たちの同期、父っちゃん坊やの登場です。真っ赤なズボンと真っ白なズボンがトレードマークです。みなさん、盛大な拍手でお迎えください」
「いや、出にくいだろ」
スタッフが持って来たアンケートを読んでみると、双子にしては似てないという感想が多かった。また、監禁されてかわいそうという意見も多かった。
だけど俺と仏田は双子ではないし、兄弟でもない。赤の他人だ。漫才のネタとして双子だという設定をしていたに過ぎない。もちろんヒーローに合体変身して、大きくなったり、小さくなったりもできないし、監禁もされてない。インキンでもない。仏田は軽い股ずれだけど、それはデブの宿命だ。デブあるあるだ。
ときどき漫才の設定を信じる人が出てくる。年配のお客さんに多いのだが、そこまで真剣に見て、感情移入してくれているのだから、逆に感謝すべきだろう。
ただし、お互いが貧乏な家に育ったことは本当だ。
偶然にも俺たちは同じ町内で生まれた。町内には貧乏な家が二軒あった。俺の家と仏田の家だ。ネタの中にも出てきたが、古民家という言い方がふさわしい家に住んでいたのは本当だ。普段からちゃんと手入れもしてないので、風情のある古民家ではなく、ボロボロの古民家である。リノベーションする前の古民家である。トタン屋根の一部が台風で飛んで行った家に住んでいるというのも事実だ。台風が直撃した日、偶然にも二軒仲良く、屋根が飛んで行ったのだ。そのトタン屋根はまだ見つかっていない。どこかの空き地で仲良く重なり合っているのかもしれない。
それに俺たちは着ている服もボロだった。だから、古民家に住んで、古着が趣味なんだ。俺たちは揃って懐古趣味があるんだと言って誤魔化していた。
古民家に住んでいたのは、お互いの父親が揃って仕事もしないで、競馬場に通っていたのが原因だ。競馬場で仲良くなり、同じ町内に住んでることが分かって意気投合し、無二の親友になったらしい。類は友を呼ぶとはこのことである。地域のボランティア活動などで知り合えば世間体もよかったのだが、二人して他人を助けるといった殊勝な心なんか持ち合わせてなかった。仏田の家はコメ農家なのだが、働いているのは、お母さんとおばあちゃんとおじいちゃんだ。三人に仕事を任せて、父親は俺のオヤジと一緒に遊んでいるのである。
俺たち二家族はそれぞれの父親のせいで町内の笑いもの一家だった。
ある日、そんな俺のボロ家で事件が起きた。
仏田の父親が一緒に競馬へ行こうと、俺のオヤジを誘いに来たのだが、外から呼んでも返事がなく、隙間から覗いてみると、頭から血を流して、オヤジが倒れていたのだ。
玄関の引き戸を開けようとしても動かない。窓も全部開かない。
「これは密室殺人事件だ! 金田一探偵を呼べ! ポアロでもいいぞ!」
仏田の父があわてて通報して、すぐに警官が駆けつけた。もちろん金田一さんは来なかった。ポアロも来なかった。
近所は大騒ぎになり、やじ馬が押し寄せ、ヘリコプターが上空を旋回した。
しかし、警官が玄関の戸を力いっぱい引いてみると、すんなり開いた。中から鍵がかかっていたわけではなく、戸が老朽化して、立て付けが悪く、開かなかっただけだった。同じく、すべての窓も立て付けが悪く、開かなかっただけだった。
そもそもトタン屋根が台風で飛ばされて、天井の一部から空が見えているのだから、上から出入りできるのである。つまり、密室は成立しない。
倒れている俺のオヤジのそばには一枚の紙切れが置いてあった。
そこには掠れた文字で、“死にたい”と書かれていた。
「これは自殺だ!」仏田の父親が叫んだ。「ギャンブルに手を出して、生活が破たんしたので、責任を感じて、自ら命を絶ったに違いない。まったくとんでもないオヤジじゃないか!」
自分のことを棚に上げて、推理を展開した。
そのとき突然、俺のオヤジがむくりと起き上がった。
「わっ、これはホラーだ! 霊媒師を呼べ!」仏田の父親がまた叫んだ。
「何がホラーなんだ?」オヤジが呂律の回らない口調で言った。とても酒臭い。
昼間から家で飲んでいたオヤジは便所に行こうとして、足元がふらつき、タンスの角で頭をぶつけて、気絶しただけだった。
「おい、酔っぱらった幽霊!」仏田の父親はまだ信じない。
畳の上の紙切れを拾い上げた。
「この遺書はなんだ。死にそうな文字で、死にたいと書いてあるじゃないか」
「はあ? ああ、これか。町内のカラオケ大会に出ようとして、練習をしていたのだが、どうしても歌詞が覚えられなくて、紙に書いてたんだ。拾って来たボールペンだから、インクの出が悪いんだ。どうも掠れてしまって」
どうやら俺のオヤジは、長渕剛の名曲“とんぼ”を覚えようとしていたらしい。
死にたいくらいに憧れた花の都大東京……。
ちょうど、“死にたい”と書いたところで、インクが切れたという。
「てっきりお前は死んだかと思ったぜ」仏田の父親が言う。
「心配かけて悪かったな」俺のオヤジも申し訳なさそうだ。
「だが、お前が死んでも1円にもならんからな。せめて生命保険の受取人が俺だったらな」
「お前はバカか。俺が生命保険に入ってるわけないだろ」
「そうだったな。そんな金があれば屋根を直すもんな。ははははは」
「お前の家の屋根も直せよ。ははははは」
「じゃあ、どっちが先に直すか競争しようぜ。ははははは」
「よーし、乗ったぜ! 負けたら罰金千円な。ははははは」
二人の高笑いがボロ古民家に響いた。
駆けつけた警官も近所の人たちもズッコケそうになり、飛んでるヘリコプターは墜落しそうになった。恥ずかしくなった俺はこっそり近所の公園まで避難した。
俺はこんな家庭環境から脱却したかった。将来こんな家には住みたくないという漠然とした思いをずっと抱いていた。それが具体的に漫才師と結びついたのは、小学五年生のときだった。
国語の授業のとき、一枚の原稿用紙が全員に配られた。
「みんな、隣の席に座ってる人を見てください」担任の先生が言った。
はい、見たよ。俺の隣はクラスのアイドルゆいなちゃんの席だよ。
「よーく、観察してください」
わっ、これはラッキーだ。
普段から観察したかったんだけど、ジロジロ見ると変態と思われるから、いつもはそっと見てるんだ。今日は堂々と合法的に見られるぞ。
目は大きいし、鼻筋は通ってるし、富士額だし、メチャクチャかわいいじゃないか。
逆に俺の顔も見られていて、メチャクチャ恥ずかしい。ぜったい赤面してるよなあ。
「みんな、観察は終わりましたか?」先生が終了を告げた。
もっと見ていたいけど、残念だなあ。
「では今から、隣に座っている人が最もなれない職業とその理由を書いてください」
ふさわしい職業じゃなくて、なれない職業?
確かにゆいなちゃんはかわいい。だけど天然で、いつもどこかがおかしい。
よく忘れ物をする。遅刻もする。授業中ボケッとしている。終業のベルが鳴ったと勘違いして帰ろうとするし、逆に鳴ったのに帰ろうとしない。おっちょこちょいなのか、鈍いのかよく分からない。以前、クラス全員で性格診断テストを受けたのだが、ゆいなちゃんだけが判定不能だった。それでも、なんとか判定結果を出そうとがんばったパソコンからは、白煙が噴き出て来たらしい。だから、本人も自分の性格が分かってないようだ。
そんなゆいなちゃんがなれない職業?
いっぱいあり過ぎる。原稿用紙一枚では足らない。原稿用紙の束が欲しい。
だけど、ちゃんと書いてあげた。
「では、書いた原稿用紙をお互い交換して、読んでください。いいですか、みなさんは隣の席の人から、そんな目で見られていたのですよ」
ゆいなちゃんは俺が書いた原稿を読んでいる。
一枚しかないからすぐに読み終えた。その瞬間、俺を睨みつけた。
ゆいなちゃんがなれない職業は建築士と書いた。理由は天然が入っているからだ。
正直に書いたのに睨まれた。だって、天然のゆいなちゃんが建てた家はたぶん傾いていて、住んでるうちに気持ちが悪くなって、すぐに地盤沈下が起きて、地中深くに家が埋没してしまうと思ったからだ。
ゆいなちゃんはきっと怒っている。怒った顔もかわいいと思ったが黙っておく。今それを言うと、火に油を注ぐようなものだ。後から言っても、同じことだけど。
無言で睨みつけてくるゆいなちゃんの視線を気にしながら、俺のことが書かれた作文を読んだ。
なれない職業は漫才師。理由は笑わないからと書かれていた。
人を笑わす漫才師に不愛想な人はいないと書かれていた。
確かに俺は普段からあまり笑わない。でも、面白ければ笑う。面白くもないのに笑える方がおかしい。集合写真を撮るとき、「はい、チーズ」と言う。笑った顔になるからだ。だけど、何か面白いことが起きたわけじゃない。そもそも俺はチーズが嫌いだ。「ウィスキー」と言わせるときもある。これも笑った顔になるが、未成年の小学生にウィスキーはおかしい。
というわけで、俺の集合写真はいつも笑っていない。カメラマンがシャッターを切るとき、何か面白いことを言ってくれれば笑ってあげるのに、そんなカメラマンに会ったことはない。たまに「チーズ」を「バター」というカメラマンはいる。担任の先生もときどきそんなギャグを言う。昭和のオヤジギャグだ。クラスのみんなは笑ってあげている。とてもやさしい。俺は全然面白くないので無表情のままだ。
俺は正直なんだ。正直者は損をするとはこのことだ。
正直だから、ゆいなちゃんにも嫌われた。
このことはトラウマになった。
そして、高校生になった俺は仏田をお笑いの世界へ誘った。
笑わない男が漫才師になった。ゆいなちゃんに、なれない職業と言われた漫才師になった。ゆいなちゃんを見返してやろうなどという大それた気持ちはなかったが、一枚の原稿用紙が俺の職業を選ぶきっかけとなった。
面白かったら、俺は笑う。顔に笑うための筋肉はある。
だから、面白かったら、お客さんも笑ってくれるはずだ。普段笑わない人も笑ってくれるはずだ。誰かを笑わすことができたらお金になる。新品のトタン屋根も買える。貧乏生活からの脱却の手段として、お笑いの世界を選んだ。もちろんお笑い業界に知り合いはなく、何のコネもなく、親の七光りなんてあるわけなかった。
オヤジは馬券が当たったときだけ笑った。つまり滅多に笑わなかった。俺とそっくりだけど、これを七光りと呼ばないだろう。
~中編~につづく。