第4話
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めろちゃすと別れたあと、バッティングセンター裏あたりを回り、ゴールデン街までやって来た。すでに日付は変わっているが、新宿の賑わいが衰えを見せることはない。
狭い区画に、カウンターのみの小さな飲み屋がくっつき合うように密集している。来慣れた雰囲気の酔客に加え、インバウンドらしき観光客が楽しそうに練り歩く横をすり抜けて、俺はiPhoneの地図アプリとにらめっこしながら、次なる「あい」を目指した。
そこは「藍」という小さな飲み屋だった。ゴールデン街の例にもれず、カウンター席しかないスナックみたいな店で、演劇のポスターが入口に所狭しと貼られている。聞いたこともない劇団ばかりだ。そもそも演劇なんて、俺は劇団四季くらいしか知らないが。
カウンターに立つ髭の男の店員の姿を見て、ここも空振りだと悟ったが、一応みらいのことを訊いてみる。店員は首を横に振った。「すみません」と帰ろうとした俺に、客席から声がかかった。
「誰か探してるんですかー?」
声の主は、カウンターに座っている女性客だった。40代後半くらいだろうか。俺に話しかけてきた人は、ガラガラとしたよく通る声で、口元に大きなほくろがあった。隣の席の連れらしきほうの女性は、黒縁のデカいメガネをかけていた。
「こんな若い男の子がひとりでゴールデン街いるなんて珍しいから、話しかけちゃった! ビビんないでね!」
俺はどう答えていいかわからず、「大丈夫です」とだけ言って立ち去ろうとする。次の瞬間、ほくろの腕がぐいっとのびてきて、二の腕をつかまえられた。
「お姉さんに言ってみ?」
酔っ払い特有の軽い口調だが、力は案外強い。俺は仕方なく、新宿にある、あいという店を探しているとだけ話した。
「ここ以外の『あい』は、ホストクラブくらいしかわかんないなー」
ほくろが首を傾げた。すると、それまで黙って聞いていたメガネが、声を発した。
「『あい』って日本語? たとえば、英語の『I』とか『EYE』ってことはない?」
俺は呆然とした。言われるまで気が付かなかった。それを含めて探し直すとなると、今夜中にみらいを発見するのは絶望的に思えた。
ほくろが店を見回して、突然大きな声を出した。
「この子、『あい』ってつく店を探してるらしいんだけど、誰か心当たりある人いる?」
店中の目がこちらに向いた。ぎょっとする俺に彼女は、「ここにいる人たち、新宿で何十年も飲んでるような人たちだから、詳しいよ」と言った。眼鏡も「うちら常連だから気にしないで」と付け加える。一番奥に座っていた、白髪にハンチング帽をかぶった男が手をあげた。
「職安通りのあたりに、『愛さんさん』っていう中国式マッサージの店なかったかな」
「行ったんですが、違いました」
俺が首を横に振ると、今度はカウンターの中にいる店員が言った。
「歌舞伎町に『アイリス』っていう喫茶店ありませんでしたっけ?」
「あそこはもう潰れたでしょ。コロナで」
「えー、そうなんすか。知らなかった」
ほかにも、いくつかの店名が挙げられたが、めぼしい情報は得られなかった。客たちはこれをきっかけに懐かしい店の思い出話に花が咲き始めたようで、自然に会話がちらばっていく。店内の関心が薄れたのを感じ取ったところで、俺はほくろとメガネに頭を下げた。
「せっかく聞いてもらったのに、すみません」
「謝らないでよ。若い子に頼られるのが楽しいのよ。あたしらなんてもう、特に目的もなく、寿命の前借りしてだらだら飲んでるだけなんだから」
「そうよ、気にしないで。それにさ、あなた、東北出身でしょ?」
突然、出身地を当てられて、俺はたじろいだ。言い当てたメガネは、やっぱり、という顔をした。
「アクセントで、そうかなって。あたしも岩手の出身だから、なんかうれしいよ。若い子が東京でがんばってるのは」
「別に、がんばってる、ってわけじゃ……」
俺は夢や目標があって東京に出てきたわけじゃない。時間が余っていて、なんとなく流れ着いて、適当な仕事に就いて。それこそ劇団員として夢を追っているような生き方とは対極だと思っている。
「地方から出てきて、東京で生きてるだけで、がんばってるでしょ」
「そうよ! 若者、えらい!」と叫んで、手元のビールを飲み干したほくろが、「あ、いいこと思いついた」と人差し指を立てる。
「二丁目に行ってみなよ。ママたち、人の噂話にめっちゃ詳しいから」
新宿二丁目は、なんとなく後回しにしていたエリアだった。ここまできたら、やはり行くしかないか。表情が翳ったと思われたのか、「大丈夫。ノンケの子には手出さないから」と元気づけられてしまった。
「前行ったことあるおかまバー、楽しかったよ。普通のゲイバーより敷居が低いと思うし、よかったら行ってみて。『めぐり逢い』って店」
俺と彼女は顔を見合わせた。お互い同じことに気づいていた。
店名に、『あい』という言葉が入っている。