奴隷の少年と奴隷の少女②
雲母は、戦争孤児で親もなく、幼い頃にガサキの海洋民族クジュウに拾われた少女だった。
歳は十五か十六――ひどく痩せており、日頃あまり食べることができていないことが窺える。
海洋民族のクジュウに拾われてからというもの、奴隷として漁の肉体労働を日々強いられながら、サーガ国との国境を攻める歩兵として、齢十を超えた頃から徴兵されていた。
本来、戦に女は不向きである。
敵国に捕まれば、殺される以上の仕打ちを受け、耐え忍ぶか死ぬまで弄ばれるか、あるいは自ら舌を噛み切り死を選ぶか――それが戦乱の世の常である。
しかし、雲母が戦場へ駆り出されるのには理由があった。
少女の奴隷は大抵の場合、豪族や商人に高く買われ、その身体が動かなくなるまで弄ばれ、そして捨てられる。
当然、何の迷いもなく、雲母を拾ったクジュウは彼女が幼子から少女まで成長した頃に商人へ売り払い、大金を得ることを選んだ。
特に珍しくもない、普通のことである。
だが、クジュウが雲母を売ったその晩、彼女は自らの足でクジュウの元に帰ってきたのだ。
身体中に黒い血を浴び、目は異様なまでに血走っていた。
聞くと、彼女を買った商人に襲われた際に、その商人の顔が潰れて分からなくなるまでまで殴り続けた。
雲母はわずか十歳にして人を殺せる精神力を持ち、個の戦闘力としては屈強な肉体と高い身体能力を持つ海洋民族であるクジュウの男たちより強かったのだ。
この時クジュウたちは、彼女の身を売る金よりも、彼女を兵として使った方がよっぽど金になることを知った。
「……」
「……」
奴隷の少年、潤と奴隷の少女、雲母――天より武の才を授かった二人に言葉は不要だった。
サーガ2,000とガサキ6,000の歩兵が衝突し合い、悲鳴や喚きが飛び交う中、二人の間合いにだけ音はない。
目を合わせると、同時に顔面を貫く鋭い上段蹴りを繰り出す――が、それを双方が腕で防ぐ。
そして、お互いにやりと微笑んだ。
それはまるで、初めて玩具を手にした赤子のように、純真無垢な笑みだった。
今度はお互いに振り抜いた拳が交差する。
ドンっ、と激しい衝撃が戦場に伝わる。
サーガとガサキ、両国の歩兵たちは圧倒的な二人の武力に身震いした。
それは、二人の姿を目で捉えられない位置にいる者も同じだった。
「ワハハ! 初めてよッ! こんなに楽しいのはッ! 名を何という!」
「潤だ! 俺も同じことを思っていた!」
「私は雲母! ここでどちらか一方が死ぬのは惜しいわねッ!」
天に愛された者同士でなければ到達できない、圧倒的な武の領域――その領域に足を踏み入れた二人が出逢った瞬間だった。
潤と雲母は、今ここが戦場ではなく楽園かのように感じている。
そんな時、ドドドッと地鳴りが響く。
歩兵の衝突が割れ、僅かに騎兵の進む道が出来ていたのだ。
ついに、両軍の騎兵が歩兵を剣で押し除けながら突進を始めた。
サーガ500騎、ガサキ2,000騎――数の差は四倍である。
「ここまでよく持ち堪えたッ! 数で劣る相手と善戦したお前らはサーガ国の誇りであるッ! 今一度勇気を振り絞れッ! 近くにいる者同士で群をなし、敵の騎馬の勢いを止めるのだッ!」
サーガの騎兵が歩兵たちに喝を入れる。
突破力がある騎兵といえど、人の塊を目の前にした馬はどうしても勢いが落ち、多少なりとも軍は乱れる。
それはお互い様であるものの、歩兵の士気はサーガの方が優っていることをサーガの武人たちは確信していた。
騎兵が土煙を上げ歩兵たちを吹き飛ばす。
戦場は更に混沌となり、吹き飛ばされた歩兵たちは方向感覚を失い、どちらが自軍で、どちらが敵軍かわからなくなる。
ガサキの海洋民族、クジュウといえども、生身の肉体で騎馬を相手にすることは不可能だ。
騎馬の突進だけでなく、騎兵たちは剣を振り回している。
歩兵の敵う相手ではない。
屈強なクジュウの男たちも同様に吹き飛ばされる。
「惜しいが、ここは一旦休戦のようだな」
「そのようね。お楽しみはこの馬どもを蹴散らしてからといったところかしら」
騎兵の登場に、潤と雲母は距離を置く。
「死ぬなよ、雲母」
「そっちこそ生きていてね、潤」
二人は気分が高揚しており、体は飛ぶように軽く、騎兵の群を完璧に目で追えるほどに動体視力は覚醒していた。
騎馬との衝突、騎兵の剣をかわしながら、身軽に飛び跳ね敵の武人の顔面を拳や蹴りで撃ち抜いていく。
もはや二人の動きが速すぎて、殴り飛ばされる武人たちは一体なぜ自分が落馬したのか理解が追いついていない。
――だが、いかに武の才に恵まれた二人とはいえ、騎馬の数の暴力には敵わず、疲労とともに少しづつ動きに翳りが見え始める。
騎馬の群の中、足を止めると一瞬で圧死する。
二人は混戦する騎兵たちから離れるよう、力を振り絞って走った。
「撤退だッ! 立て直す、一旦引け!」
その号令は、息を吐く暇もなかった両国の歩兵たちにとって救いの一声だった。
8,000対2,500――簡単に戦を進められると考えていたガサキの将たちは、思いのほか兵の消耗が激しいと察し、仕切り直しの決断を下したのだ。
それは、サーガ軍にしてみれば防衛に成功したことを意味する大きな事実だった。
「深追いするなッ! こちらも一旦立て直す!」
サーガの将たちも自らの歩兵に号令を下す。
両軍の騎兵が退却し、動ける歩兵たちは自らの足で、あるいは手負の仲間の肩を持ち、互いの陣へ引き返す。
「黒絢ッ!」
潤は置いてきた愛馬を探そうと声を張って叫ぶ。
「よお潤坊、お前の愛馬は無事だぜ」
振り返ると、黒絢に跨る遼がいた。
その周りには、剛や嶽、カシマの歩兵隊第七班の者たち五人、吹き出す血と汗を拭いながら勇敢な戦士の笑みを浮かべて立っていた。
「班長のお前が突然いなくなっちまったからな。俺が班長代理を務めてやったぜ。三人、途中で着いて来れなくなっちまったがな……」
潤を含め、第7班の生存者は7人。
7人も、生き残ることができた。
黒絢からゆっくり降りた遼は、潤を熱く抱き締めた。
「よく無事だったな……潤坊」
「ああ、遼兄もな……」
血こそ繋がっていないものの、戦場を生き延びた二人には兄弟愛に近しい感情が溢れていた。
愛馬の無事を確かめるように、潤は黒絢の頭を優しく撫でる。
その愛情に応えるように、黒絢は優しく喉を鳴らした。