奴隷の少年と豪族の娘の別れ
月明かりが淡く差し込む寝室の中では、お互いの顔を正確に捉えることができない。
馬小屋の敷き藁の上でしか眠ったことがない潤は、寝具に横になる居心地の良さと、気付かないうちに大人の色香を纏う年頃になっていた邑の異性の香りから、つい先程まで武人を相手に張り詰めていた筋肉が緩み、驚くほど心は落ち着いていた。
夜明けとともに住み馴染んだカシマの地を去り、隣国ガサキとの戦場となっているタラの地へ向かうはずなのに、不思議と不安や恐怖は感じていなかった。
「……知らぬ間に、こんなに大きくなっていたのね」
触れることのない距離で、しかし限りなく近く、二人は横になっている。
これまでは遊び相手の幼馴染としか思っていなかったが、やや痩せてはいるものの潤の逞しい体付きに、邑は初めて異性を感じた。
戦争孤児で正確な年齢は不明だが、十五か十六になる潤と十七の邑は、時代や身分が違ったならば、良き伴侶になっていたかもしれない。
だが今は、明日の別れを惜しむように横に向かい合い、互いの体温を感じるだけに過ぎない。
「必ず帰って来なさいね。食べきれないほどの料理でおもてなしするわ」
「ああ、カシマの英雄として凱旋してやるさ」
互いに、明日が今生の別となるかもしれないことを悟っている。
せめて初めて一緒に眠る今日くらいは、夢に落ちるまで相手の声を聞いていたかった。
目は閉じているが、寝てしまいたくない邑は話を続ける。
それに応えるように、目を閉じたまま、潤も話を続けるのだった。
いつしか二人は夢に落ち、朝の日差しで邑が目を覚ました時、そこに潤の姿はなかった。
「……」
無情にも美しく朝露が光る中、微かに残る体温を寂しげに撫で、現実を飲み込んだ邑の顔は涙で歪んだ。
邑が目覚める前の東雲の頃、赤く燃える秋の朝焼けを背負い、直朝が率いる兵は西の方角を目指していた。
ガサキとの国境、サーガ国の南西に位置するタラの地までの道のりを征く直朝軍の中に潤の姿があった。
武人として育った50の騎兵と、カシマの各集落から寄せ集められた300の農民歩兵、合計350人の男たちの中、潤は異質な存在感を放っていた。
騎兵である武人たちは頑丈な鎧を纏い、剣や弓を携えており、農民の歩兵は汚れた布切れに、心細い鍬や鎌などの農具を持っている。
潤はというと、歩兵の農民と同じく布切れの服を着て錆びた鍬を持っているに過ぎないが、分不相応にも騎兵として馬に跨り、堂々とした顔で西の空を眺めていた。
「なぁ潤坊、なんでお前だけ馬に乗ってんだよ。俺たち夜明け前に叩き起こされて何が何だかさっぱりわからねえってのに、お前は色々知ってるようじゃねーか。なんでこの忙しい時期にタラの地まで行かなきゃならねーんだ?」
農民のうちの一人、潤のことを知る青年が、無造作に伸びた長い髪を掻きながら、間の抜けた顔で大きなあくびをしながら訊ねる。
彼は遼といって、潤と同じ集落の農民で、二十を過ぎた年頃の青年だった。
「タラの地にガサキ軍が侵攻してきてるらしい。俺たちは戦に行くんだよ遼兄」
サーガ国の人口が約40,000、うちカシマの人口は1,500程度で、そこから300の農民の男たちが寄せ集められているわけなので、当然、顔見知りの者も多い。
潤や遼のように若い少年や青年もいれば、年老いた農民も集められている。
「ないぃ!? 戦なんてしたことねぇぞ!? 俺でも出来んのか?」
「武人の後ろに連なって移動しているこの状況で、呑気になにも気付いてないのは遼兄だけだぜ」
「そうなのか!? もっと早く教えろよ潤坊!」
これまでカシマの地がガサキ国との戦地になったことはない。
それは、国境のあるタラの地でガサキ軍の侵攻をなんとか抑えてきたことを意味する。
幾百年続く戦乱の時代、カシマの民がタラの地へ徴兵されることは珍しいわけではなく、老人の中には過去に徴兵を経験して生き延びた者や親の世代から語り聞いた者もおり、呑気な遼と違い、今この状況をよく理解していた。
「で、なんでお前だけ馬に乗って楽してんだ? 俺たちは歩いてるってのによ」
「俺は騎兵だからだ」
潤は自慢げに胸を張るが、遼はニンマリと笑い先輩風を吹かせて言った。
二人は同じ集落で農耕を行う仲間であり、年上の遼は孤児である潤の面倒見役でもあった。
「はっはっは、嘘言うな。騎兵ってのは武人様しかなれねぇんだぜ? お前そんなことも知らないのかよ」
「嘘じゃねえ! コイツは邑んとこの馬小屋にいた俺の愛馬だ。見たことあるだろ?」
「馬の顔なんてどれも一緒だろ」
「ちげーよ! 遼兄は失礼なやつだよなあ、黒絢」
潤が優しく背を撫でると、黒絢と呼ばれた馬は少し歩く速度を早めた。
それに追いつくよう、遼は駆け足になる。
「悪い悪い、置いて行くなよ。それで、その馬が邑様のとこにいる馬だったとして、どうしてお前が騎兵になるんだよ」
「直朝に頼んだら騎兵にしてもらった」
ゴンッと潤の頭が殴られる。
近くにいた武人の騎兵だった。
「直朝様だろ。もしくは将軍だ」
殴られた姿を見て遼はクスクス笑い、小声で話しかけた。
「誰だよ、その直朝様ってのは」
「くっそ痛え……。直朝様ってのは、この軍の将だよ。昨晩会ったんだ。邑のオヤジと話してた。俺たちを徴兵するって話をな」
「それじゃあ、将軍様に頼んで騎兵にしてもらったのか。すげぇな潤坊!」
身寄りのない奴隷の少年が将軍に頼んで騎兵にしてもらったという話を、すげぇな、で済ませることができるあたり、遼はお気楽な性格であることがわかる。
「俺も頼めばよかったぜ……」
頼めば自分も騎兵になれると思っているところも、遼の性格を象徴している。
「潤坊知ってるか? 武人の中でも軍を率いる将軍様ってのはな、別格の変異能力があるって話しだぜ」
変異能力? と、聞き馴染みのない言葉に潤は首を傾げる。
「そんなところから知らねえのかよお前。人間にはな、それぞれ固有の変異能力があるんだぜ? その力は大なり小なり誰にでもあって、体を流れる血に備わってるらしいから、ほとんどの場合、親と似てるって話だ」
「なんだそれ。聞いたことねえな」
「まあ、お前は親いねえから知らねえよな。例えばよ、ジジイなのにすげえ力で畑打つやつがいるだろ? そいつの家族もすげえ力持ちだろ? そういうことだ」
例えが分かりやすいのか分かりにくいのか、それすらも分からず、潤は再び首を傾げた。
そうこうしているうちに日は上り、直朝の軍、350人はカシマの果て、タラの地へ踏み入ろうとしていた。