奴隷の少年、騎兵になる
潤は、涙が溢れ落ちる前に手の甲で払い除けると、崩れ落ちた邑の肩を力強く掴んで言葉を放った。
「くそったれ、やってやるよ! 邑、俺がカシマの地に戻ってきた時は、腹一杯になる飯を食わせると誓え!」
それは、大王の使者とその護衛である武人、そして豪族の者がいるこの場で、奴隷の身分の者が放つ言葉でないことは、全員がわかっていた。
しかし、当の本人である邑然り、邑の父であるカシマの守も、誰も潤を咎める者はいなかった。
それどころか、身寄りのない奴隷の少年に対して、どこか頼もしく感じてさえいた。
「……直朝とか言ったな。条件を聞いてくれ」
この発言には周りの武人たちも一瞬怯んだが、見過ごせないと口を挟む。
「お前っ……! 口の書き方に気を付けろ! 殿は軍を率いる将であるぞっ……!」
「よせ。なんだ、潤、言ってみろ」
「しかし殿っ……! 一歩兵であるこの者の言い様……、将に対する忠誠がなければ軍は乱れ、戦を有利に進めることはできません!」
「戦乱の世において、ましてや我ら武人においては強者こそが正義だ。潤は正に強者であると、俺の目にはそう映っている。潤、条件とはなんだ」
この時、直朝は真の意味で言葉を発している訳ではなかった。
鎧を纏う武人を殴り飛ばす程度には恐怖心に打ち勝つことができる奴隷の少年、その程度にしか思っていないが、戦場において多少は役に立つだろう。
そうであるなら、自分の言葉に乗せられ決心したこの少年に、気持ち良く自分の軍の一歩兵になってもらおう、直朝はそう思っていた。
「俺を騎兵にしてくれ! 俺は物心ついた時から馬小屋で生きてきた。馬のことなら誰よりも扱える自信がある!」
最前線で身を盾にして戦う歩兵と思っていたが、当てが外れて流石の直朝も一瞬怯んだ。
騎馬で戦う技術は幼い頃から武人として育てられた者の特権であり、戦場においての機動力と突破力は歩兵の比にならない。
「騎馬での戦いは一朝一夕で習得できるものでは無い。潤、本当に馬を扱えるんだな?」
将である直朝にしてみれば、歩兵が一人減る程度のこと、騎兵が一人増えることと比べると利点でしかなかった。
直朝の問いに対して、潤は自信に満ちた眼差しで応答した。
「わかった。明日からお前を騎兵とする」
その言葉に、潤は頷き、周りの武人たちも将が決めたことであれば異論ないと、ゆっくりと首を縦に振った。
「そういうわけだ。今まで世話になったな」
言いながら、潤は邑の肩をもう一度力強く掴んだ。
突然の別れと、死地にとも知れない戦場に旅立つ幼馴染に対し、邑は大粒の涙を零して潤を抱きしめた。
奴隷の少年が戦に駆り出されることなど珍しくもなく、いつかこの日が来ることを薄々分かっていたとはいえ、邑は言葉に詰まり、掠れた声を出すのが精一杯だった。
「あなたという人は……、最初から最後まで私を振り回してくれるのね……」
カシマの守は涙する娘の姿を見て、奴隷として育ててきた者であると言えど、娘の幼馴染の巣立ちに多少の感傷を覚えていた。
「カシマの地を守る豪族の娘として……あなたの勇敢な志に敬意を表します……。でも、潤……今夜くらいは……、あなたの胸に抱かれながら眠りについてもいいわよね」
邑を強く抱き返し、潤は小さく頷いた。
本来は奴隷の身分で敷居を跨ぐことは許されないが、別れの夜ということで、特別にカシマの守の屋敷に入ることを許可された潤は、邑の寝室に静かに入るのだった。